スパークリングホラー
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カムコーダー 2020年4月30日


通報のあった空き家へ向かった二人の警察官。中に入ると、テーブルの上には電源のついたカムコーダーだけが光を放っていたが……。

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 私は表面の塗装が剥げて、ボロボロになっているドアを叩く。玄関に敷かれたひび割れだらけのコンクリートの上に、木くずや塗装の粉がまき散らされた。明らかに管理もされていなければ人も住んでいない。
「随分ひどいありさまだな。本当にこんなところから通報があったのか」
 フラッシュライトを当てている同僚がそれを見て、苦々しい声を上げた。
「通報したのは携帯らしいから、度胸試しに来た不良どもだろ。全く、迷惑も良いところだ」
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとレバーを下げて奥へ押す。空き家なら鍵をかけているはずだが、こじ開けられたのかストライクが腐っているのか、耳障りな音を立てながらドアが開いた。
 同僚のフラッシュライトが室内を照らす。荒れに荒れた室内のところどころに、落書きやホームレスのものと思われる毛布が転がっていた。埃っぽい匂いと饐えた匂い、そして妙に甘ったるい匂いが鼻につく。壁際には使い捨ての針付きシリンジがいくつか捨てられているのが見えた。このタイプの注射器は薬物乱用者が刺さらなくなるまで使いまわすのだ。
「こいつはひでえな……」
 自分のフラッシュライトを手に持ち、スイッチを入れる。奥に歩いていくと、割れたガラスを踏んだ音が足元から聞こえた。
「気をつけろ、ガラスだ」
「了解」
 ライトを部屋の隅々まで向ける。元々は様々な部屋につながる廊下だったようだ。
「だれかいるのか?」
 同僚が奥に向けて叫ぶ。返事はない。
「怪我しているのかもな」
 返事できないほどの怪我であれば、一刻を争うかもしれない。軽く目配せをして、廊下の奥へと進んでいく。すると、耳障りなノイズ音が聞こえてきた。
「なんだ?」
「さあ……」
 音が聞こえる方へ歩いていくと、半開きになったドアから音が漏れていた。足で軽くドアを押すと、軋む音とともにドアが開く。大き目のテーブルにひび割れた食器、その中で死んでいる大きなネズミ……室内の様子から見て、どうも人が居たころはダイニングだったようだ。
 中に入ると、木が腐り始めてボロボロになっているテーブルの上に、場違いな真新しいカムコーダーが乗っていた。電源は入っており、開かれたままになっている液晶ビューワーは部屋の様子を写していた。
「このカムコーダー、最近出たモデルだな。中国製の安い奴だが」
 同僚がそう呟きながら、テーブルに近寄り、カムコーダーを手に取る。すると、「ん?」と声を上げる。
「どうした?」
「いや……これ、録画モードのままだ。誰かが録画していたのかもしれん」
 録画ボタンを押すと、録画が切れたことを知らせる電子音が鳴る。私は同僚の隣に立ち、ビューワーを覗き込んだ。
「再生してみよう」

 暗視モードのカメラに向かって自撮りしているのは、似合わない金髪をしたピアスだらけの男だ。そいつがニヤニヤと笑っていた。
「これから、地元で有名な心霊スポットにいきまぁーす!」
 素っ頓狂な間延びした声で男が叫ぶと、誰か別の人間の笑い声が聞こえる。男はカメラとは反対の手に持ったウォトカを一口飲んだ。どうも酔っぱらっているらしい。
 カメラがパンして、空き家のボロボロになったドアを映す。懐中電灯を持った別の男──似合わない髭を生やし、ジャラジャラとしたアクセサリーを身に着けているラッパー風の男──がドアを蹴り開ける。爆笑とドアがきしむ音。カメラはラッパー風の男とともに、空き家の中に入っていった。
 カメラを持っている男が「ホームレス居ねえかな。ボコボコにしたら楽しそうじゃね?」と呟いた。それを聞いたラッパー風の男がまた狂ったように笑い始める。
「今度、潰れたアマ連れてきてマワそうぜ」
「いいねえ」
 その時、二階から重々しい足音が聞こえてきた。カメラも二階へと至る階段を映した。
「誰かいるんじゃね、ボコろうぜ」
 ラッパー風の男がそういって、ひび割れの目立つ木の階段を上り始める。カメラも少し遅れて、男についていった。
 カメラが二階につくと、そこは屋根裏部屋のような部屋で、ラッパー風の男は何処にもいなかった。
「おい、ジャクソン、どこだ?」
 乱雑なものが積まれている部屋の何処かにいることを信じてなのか、カメラが部屋を隅々まで写す。すると、シミのあるマットレスが乗っているパイプベッドを写した時、カメラが動くのを止めた。
 カメラがベッドに近づく。手がフレームに写り、指でマットレスを押した。手がフレームアウトして、「なんだこれ、すげえ鉄くせえ」という呟きをマイクが拾う。おそらくカメラマンが指先の匂いを嗅いだのだろう。
 その時、うめき声が後ろから聞こえてきた。振り向くとそこには倒れている男の姿があった。カメラマンがブレるのも構わず走り寄ると、黒い液だまりの中にジャクソンと呼ばれた男が倒れていた。
「大丈夫か」
 そう声をかけるが、返事は返ってこない。
「うそだろ? 死んだのか?」
 後ずさるような音とともに、カメラが少しずつ動かない男から離れていく。そして 、轟音とともにカメラが床に落ちた。 叫び声。何かが飛び散る音。 けたたましい鳥のような鳴き声。
 しばらくして画面が落ち着いたとき、カメラには腐りかけてささくれだらけになった屋根裏部屋の床板だけが映し出されていた。

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「一体何があった」
 同僚がそう呟く。私にも理解ができなかった。しかし、もしかしたら今も二階にカムコーダーの持ち主がいるかもしれない。そうだとしたら、彼らは怪我をしている。一刻も早く病院に運ばなければいけないかもしれない。
「二階に行った方がいいとおもうが」
 私の提案に同僚が首を振る。
「まだ録画があるから、見てから決めよう。状況によっては、応援を呼んだ方がいいかもしれない。ヤク中相手に二人は危険だ」
「重症だったらどうする。もし、あの血だまりがどちらか一人の血液だったら、かなりの出血量だ」
「わかっちゃいるが……何がいるかわからないと危険すぎる」
 私は生唾を飲み込んで、拳銃を取り出す。必要になってほしくはないが、凶暴な相手なら撃たざるをえない。
 突然、ずっと床を映していたカメラは何者かに持ち上げられたかのように屋根裏部屋を映し始める。誰かが歩くような引きずるような音ともに、カメラは一階へとつながる階段へ向かって動き始めた。
「なんだ……?」
 軋む音ともに階段を下っていく。誰かに持ち運ばれているのは間違いないらしい。
「どこに行くんだ」
 同僚がそうつぶやくと、カメラは半開きのドアを映した。私たちがこの部屋でカメラを見つける前に開けた、あのドアだ。
「つまりこの部屋に誰かがいるということか……?」
 私のつぶやきにこたえるように、カメラは先ほど見たダイニングテーブルを映し、そこにレンズを入口に向けて置かれた。まるで出入りするものを監視するかのように。
 同僚と私は一緒に生唾を飲み込む。もしここにあの二人を襲ったやつがいるのなら、すぐに距離を取らなくては。ほどなくして遠くからドアの開く音が聞こえ、『だれかいるのか?』という声が聞こえてきた。
 背筋を冷たいものが走る。私は反射的に銃を構えながらフラッシュライトであたりを照らした。当然だが、誰も照らされる者はいない。居てたまるものか。
 半開きのドアが開き、私たち二人が映る。そしてカメラに気づいた同僚が持ち上げ、いくつかつぶやいたところで録画は止まっていた。
「……おい、まさか」
 ガタンと言う音が後ろから聞こえてくる。
 私たち二人は拳銃とフラッシュライトを構え、音のする方を照らした。
 そこには体中血だらけの髪の長い『誰か』がいた。
「手を頭の後ろで組め!」
 同僚が叫ぶ。
 その瞬間、『誰か』が同僚に飛びかかった。こんな状況じゃ、同僚に当たるかもしれないから銃も撃てない。
「離れろ、お前!」そいつの肩を掴んで引きはがそうとしたそのとき、そいつと目が合った。
 白目が充血しきったその目にあったのは、純然たる敵意だけだった。

【廃屋で四名死亡、殺人事件で捜査】
 フロリダ州ミニットマンヒル警察は郊外にある廃屋で四名の死体を発見したと公表した。ミニットマンヒル警察のニュースリリースによると、四名とも身体が酷く損壊しており、当局が来た時には既に失血多量で死亡していたという。現在、当局はタクティカルチームを編成し、殺人犯の捜索に当たっている。

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隣人X 2020年1月29日


隣室から聞こえる悲鳴や深夜に出される黒いごみ袋、殴打するような音……彼女は異常行動を繰り返す隣人を不審に思うが、親友にたしなめられる。そして親友の勧めで管理人に連絡を入れたとき……。

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 何かそれなりに重いものが落ちた振動とドスンという騒音が足元の床と鼓膜を音楽とともに揺らす。私はつけていたイヤホンを外し、部屋の窓から外を見た。工事している様子も事故が起きたような様子も見当たらない。
「またか……」
 ぼそりとつぶやき、私はもう一度耳にイヤホンをはめる。
 ここ最近、休日の昼間はいつもこうだ。平日は仕事なのでわからないけれど、おそらくずっと似たような音は響いているのだろう。うるさいと言って苦情を出すことも考えたものの、夜に騒がしくしているわけでもないのだから中々苦情を出すのも難しい。
 原因はつい数週間前に引っ越してきた隣人のせいだ。
 深夜に悲鳴とも歓声とも取れないものが聞こえたのが始まりだった。何かと思ってドアをノックしたら、グレー色のスウェットを着た髪の薄い小男が出てきて、「FPSゲームでちょっといろいろあっただけだ」という一言を残してドアを閉められた。
 まあ一回や二回ならいいやとあの時は思ったのだけれど、この騒音と振動が何週間も続いているのなら話は別だ。おそらくあの小男が何か作業を──家具の組み立てか分解か──しているのだろう、しかし問題はそれがあまりにも長いこと。
 引っ越してからすぐならまだしも、先週もこんな感じだったし、先々週もこんな感じ。何かが落ちる振動と物を切断する騒音が昼間はずっと聞こえてくる。それにこのアパートに住んでいるのは私くらいだから、苦情を入れるなら私が入れるしかない。
 と、そんなことを考えていたらプレイリストの中に入っている音楽が終わってしまった。なぜかループ再生するのを忘れていたらしい。
 仕方なく最初の音楽へと画面をスクロールして戻り、私は聞こえてくる騒音をかき消すようにイヤホンの音量を上げた。聞こえさえしなければ、見えさえしなければ、存在しないようなものなのだ。

 数日後、仕事が異常に長引いたせいで0時を回ってからやっと家路についた私は、自分のアパートの前まで来たとき、何かがごみ収集所のあたりでうごめいているのが見えて足を止めた。私の住んでいるアパートの前にはごみを集めるための大きな鉄製のカゴがあるのだ。そのあたりで何かが動いていた。
──なに?
 よくよく目を凝らすと、アパートの屋外灯に照らされたのはあの小男だった。そいつがずいぶん重そうに黒いごみ袋をゴミ捨て場に放り込んでいる。一つ放り込むとまた一つ、何個あるかはわからないもののたくさんあるようだ。
 時計を見ると1時近い。こんな時間にごみを捨てるなんてそれはそれで非常識だけれど、なんといっても黒く重そうなごみ袋を何個も捨てているのがとても不気味だった。
 とはいえ、小男の前を通らないと自分の部屋に帰ることができない。不気味さを押し殺してあいつの前を通るか、それともあいつの作業が終わるまでここで待つか。二つに一つだ。
 そう逡巡していると小男は全部のごみ袋を入れ終わったのか、自分の部屋へと戻っていった。
──ふう。
 心のそこから安堵して、ごみ集積所の前を通ろうと足を踏み出す。街灯のかすかな明かりに照らされたごみ収集所のカゴの中には、黒いごみ袋が5つか6つ見えた。ずいぶんな量を捨てたものだ、よほどごみを溜めていたのだろう。
 ごみ収集所に近づくたびになんだか甘いような血なまぐさいようなにおいがしてきた。なんとなく豚肉を腐らせてしまった時のにおいと似ている。あの若干食欲をそそられるようにも感じるけれど明らかに食べてはいけないもののにおいがする、あれだ。
 中を開けてみてみるべきか? でも、人のごみをあさるのは基本的にご法度だ。よほどの理由がない限りは開けるべきではないだろう。
 それに何が入っているか分かったものじゃない。服や靴が汚れるようなものが入っているとするなら、数少ない仕事着を汚してしまうことになる。
 この詮索に、そんな価値はあるのか?
「……やめよう」
 私は自分に言い聞かすようにつぶやいて、ごみ収集所を無視して自分の部屋に戻っていった。

 あのゴミが何なのかわからないまま二週間が過ぎ、休日を迎えた私は惰眠を貪っていた。起きるのも億劫だし、布団の中に潜っていてもスマホで海外ドラマを見られるのだからいいじゃないかという考えだ。ごみ袋の中身が何なのかはいまだに気になっているけれど、ドラマを見ている間は忘れられる。
 その時だ。突然、隣の部屋から何か重いものを派手に壁にぶつけたような音が聞こえ、私は跳ね起きた。
「なに!?」
 聞きようによっては、誰かを鈍器で殴ったような音にも聞こえた。いったいなんなのか
 もう一度、たたきつけるような音。もし壁に何かをぶつけているのだとしたら、穴が開くか跡がついてもおかしくないような音だ。
「なんなの?」
 警察に通報するべきか? こんなことに取り合ってもらえるのかはわからないけれど、さすがにこれは普通じゃない。でも、もし本当に何かあったら私も面倒なことに巻き込まれてしまう。ならば、何もしないほうがいいかもしれない。それに本当になにかトンカチでも使っているのなら、向こうにも迷惑だろう。
 パニックに陥っている思考をぶった切るようにインターフォンが鳴った。ベッドから起き上がってカメラ越しに見ると、そこには小男が立っていた。
『……お騒がせして、すいません』
 リップノイズのひどい声でぼそぼそと話す彼は、あんな音が響く何かが起きたとも思えないほど感情を感じさせない平坦な口調だった。
「あ、はい……」
『大丈夫なので……はい。それでは……』
 そういってインターフォンの前からいなくなる。私はカメラを切った後、背筋に冷や水をたらされたような寒気を感じて床にへたり込んだ。
──なんだろう、あの人。
 偏見なのはわかっている。でも隠れるかのようにごみを捨て、悲鳴や騒音がしても平静であり続ける人間というのはあまり近くにいてほしいものではない。人間ならもう少し慌てるなり困るなりしたっていいはずだ。その一切がない人間というのはアンドロイドか宇宙人か、そう言う類のものだと思えてくる。
「……だれかに相談してみようかな」
 こういう時、頼れる人が一人いる。ちょうど今日予定もない私は、彼の時間がとれるかどうか聞くためにメッセージアプリを起動した。

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「……それで、隣人がおかしくて困ってるって話でいいんだね。毎日うるさいしゴミも隠れて出してるみたいだしということで」
「ええ、そうなのよ。なんか怪しくて。今日もすごい大きい音が隣で聞こえたし」
 あの常軌を逸した騒音から一時間もしないで、旧来の友人である彼と駅前のファミレスで会う約束をした私は、会うなり相談を持ち掛けていた。彼も今日は暇だったらしい。
「どんなことがあっても平静でいられる人間なんている?」
「うーん、サイコパスなんかはそういう傾向があるけど」
 心理学科出身の彼は体を左右に揺らす。考えるときの癖だとか。
「じゃあ隣の人は犯罪者?」
「ちょっと結論に至るのが速すぎるよ」
 彼は懐から手帳を出し、二つの丸が一部で重なっている絵を描いた。いわゆるベン図というものだ。
「さて、ここで問題。Aという人がいます。彼は少年院に入っていたことがあり、交友関係も不良やヤクザかぶれが多いです。年齢も40歳近く、定職はなく生活も苦しいです。ここまではいい?」
「ええ」
「じゃあ……1番、彼の苗字は田中である。2番、彼の苗字は田中であり強盗をしたことがある。どっちのほうが妥当でしょう」
 私は犯罪歴があることと生活に困っているということから、2番がありそうだと思った。交友関係もよくないなら、そういう話が来てもおかしくなさそうだ。
「……2番かな」
「うん、外れだね」彼は悪びれることもなく、手帳に描いたベン図に文字を書き込む。片方の円には『名字は田中』、もう片方の円には『強盗をした』と書き、二つの円が重なるところに斜線をひいた。「1番はこの片方の円、2番はこの斜線の部分なんだ。具体的な数字をあげるなら、苗字が田中である確率を1 %として強盗する確率を90 %としても、1番の確率は1 %で2番の確率は0.01 × 0.9で0.9 %。すなわち、数学的に妥当なのは1番ってわけ。こういうのを『合接の誤謬』って言って、類似する話に『リンダ問題』っていうのがあるんだよ。客観的に見れば起こりうる可能性が低いはずの事象も、主観的にデータを組み合わせた時には可能性が高いように感じてしまう」
 いわれてみれば確かにそうだ。二つのことが一緒に起こる確率は、一つのことが起きる確率よりも減るというのは高校数学の話だった。
「なるほど」しかしなぜこんな話を彼は持ち出したのだろう。「で、この話と私の悩みはどういう関係があるの?」
 彼は手帳をめくり、もう一度ベン図を描く。片方の円には『サイコパス』、もう片方の円には『犯罪者』と書いてあった。
「とても失礼なことを承知で、仮に隣人がサイコパスだとしよう。その彼が同時に犯罪者である確率というのは、さっきも言った通り少なくなるんだ。サイコパスである確率が1 %として犯罪者である確率が……まあ、適当に20 %としようか。1 %と0.2 %だからね、サイコパスであるかもしれないけれど犯罪者とは限らない」
「じゃあ、あの騒音とかゴミとかは……」
「DIYが好きなのかもしれないし、朝起きるのが遅いせいでごみを捨てる機会を逃してたのかもしれない。感情を出さないのだって、サイコパスだからではなくて人付き合いが苦手なだけかもしれない。サイコパス自体は思うほど珍しいものでもないけど、多いわけではないしね……まあ他人に配慮できないのはサイコパスの特徴の一つではある」彼は肩をすくめた。「要は、今のままじゃ結論は出せないってこと」
「そう……」
「とりあえず、それだけ大きい騒音だからね。一度管理人さんに連絡を取ってみるほうがいいんじゃないかな。迷惑しているのは間違いないし、相談できる立場なのは君だけだし」
「だよね。十分迷惑だもんね」
 彼は大きく頷いた。「うん。何かあったら管理人さんが何とかしてくれるよ」
 それからしばらく他愛のないことを駄弁ったあと、私は家に帰って管理人さんに今日あったことの顛末を話した。ほぼ毎日うるさいことや夜になるとごみを捨てていること、今日はひときわ何かをたたきつける音が大きかったこと……。
 管理人さんは真摯に聞いてくれて、「わかりました、近日中に対応します」と答えてくれた。
 彼に話したことや管理人さんに任せることができたからだろうか、安心感から私は久しぶりにゆっくりと眠ることができた気がした。ここ最近、ごみ袋の中身だとか小男の正体だとかが気になっていて、なかなか寝付けないでいたのだ。

 そうして相も変わらずうるさい日が続いた一週間後の朝、私は二人が言い争うような声で目が覚めた。
 この声は管理人さんだろうか、とてつもない剣幕で何かをまくしたてている。こんな朝っぱらから、いったい何を言い争っているのだろう。もう一人の声は小さすぎるのか、聞こえない。
 すると言い争う声がドタバタという何か暴れまわるような音へ変わる。その無茶苦茶な音は外から隣室へと移っていった。
──えっ?
 そうして、また何かで壁を殴りつけるような音とくぐもった叫び声が聞こえてきた。殴りつけるような音は何度も続き、叫び声は殴打音の回数と反比例するように小さくなっていった。
 しばらく耳を澄ましていると、叫び声とともに殴打音が止んだ。
 体の毛穴という毛穴から冷汗があふれ出る。こんな状況、普通じゃない。きっと何かの間違いだ。もしかしたら、寝ぼけて何か悪い夢を見ているのかもしれない。
 そのとき、ガチャガチャという鍵を鍵穴に差し込むような音が聞こえた。
 ベッドから降りて恐る恐る玄関のほうを覗くと、ドアが開く。
 そこには手に血まみれになった金属バットをもった小男が青ざめた表情で、けれどにやりと笑って立っていた。

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ポストカード 2018年11月26日


ある日、郵便受けに入っていたのは、彼を被写体にした送り主不明のポストカード。初めは写真を見て懐かしんでいた彼だったが、あることに気が付いてから……。

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 週一回の買い物を終えて帰ってきた俺が荷物を置いてドアの裏側に付いている郵便受けを開けると、はがきが一枚滑り出てきた。
──なんだ?
 このご時世、はがきや手紙なんて送ってくる人が居るなんて。公共料金の領収書だとかダイレクトメールとかならわかるが。
 手に取って見ると、表には俺の住所と名前が綺麗な字で書かれていた。消印は昨日。文字の丸さから、なんとなく女性っぽい気がする。
 どこかでこの筆跡を見たことがあるような気もするが、どうにも思い出せない。さて、どこだったか。
「誰かに住所教えてたっけ……」
 女友達は居るものの、特に必要ないと思って住所は教えていない。唯一教えるとしたら彼女がいる場合だが、今の部屋を借りるようになってから彼女が出来たことはない。
 というよりは以前付き合っていた彼女の執着心や嫉妬心があまりに強すぎたせいでトラウマになってから、女性関係は持たないようにしている。その彼女とは俺が夜逃げする形で縁を切っているので、住所は知らないはずだ。
 とりあえず、裏を見よう。そう思ってひっくり返すと、半年ほど前に行われた河原でのバーベキュー大会──会社の部署ごとで開かれるレクリエーションという体で開催された──の写真だった。
 川原特有の丸い石が敷き詰められた地面と疎らな野草。そこに焼き台が横に三つ並んでおり、俺は中央の焼き台の近くでプラスチックコップに入ったビールを片手に、ぼけっと空を見ていた。周りにはほとんど人がおらず──確か肉が焼ける前だったので、誰もこっちに来ようとせずに俺が火の面倒を見ていたのだ──唯一、俺よりもカメラから離れた位置に立っていた同僚の佐藤がカメラの方を見ていた。しかし佐藤にはピントがあっていないので、被写体は俺らしい。
 多分、フレームの外では鈴木課長が女性社員をそばに侍らせ、他の男性社員がいそいそと面倒を見ているに違いない。ああいう上司にこびへつらうのが苦手な俺や佐藤は、二人寂しく賞与の値段を嘆きながら一緒に居る訳だが。
 まあ、そうは言いつつも懐かしい写真だ。課長のことが大嫌いというわけでもないし、レクリエーションのおかげで新入社員とも知り合えたし。
──しかし、誰が送ってきたんだ?
 裏にも表にも送り主の名前や住所は書かれていない。書かなくても届くものの、何かあったときのために大抵は書くものだと思うのだが。
 カードを指の間に挟んだまま廊下を歩き、キッチンを超えて居室に入る。机の前に置いた椅子に座ってから、机の上に電気スタンドをつけてもう一度、ポストカードを隅々まで確認してみた。
 やはり、何処にも送り主の名前や住所は書いていない。イニシャルや郵便番号すらも。
 何となく引っかかったものの、何か害があるというわけでもなさそうだ。もしかしたら、社員の誰かが撮った写真を、気を利かせて俺に送ってくれたのかもしれない。
 それでも手紙という手段を取るなんて、珍しいものだが。
「……まあ、いいか」
 俺はポストカードを机の引き出しに仕舞い、ストリーミングサービスで映画を観るためにラップトップを起動した。

 定時に仕事を終えてから──鈴木課長は苦手な上司ではあるものの、こういうルールに関しては厳しい人だから嫌いになれない──部屋に帰り、郵便受けを開ける。すると、またポストカードが滑り出てきた。
──このカードが来るのは一週間ぶりだな。
 今回も前と同じく、送り主の情報は一切ないようだ。裏を見ると、三か月くらい前にあった高校の同窓会の写真だった。今回も俺が主役になっているらしく、友達が中央にいる俺を取り囲んで笑っていた。
 ただ、この写真はおかしい。
──誰が撮ったんだ。
 生まれつき酒が強いおかげで、かなりの量を飲んでもそのときの状況をある程度思い出せる。
 だからこそ、確信を持って言える。あの時、誰も俺の写真を撮ってはいない。
 バーベキュー大会の時はカメラに気づかなかったのかもしれないが、室内であれば気づくはずだし、気づいていればそっちの方を見るはずだ。なのに、俺は笑ってはいるもののカメラの方を見ていない。
──流石におかしいぞ……。
 廊下を通ってワンルームに入り、シングルベッドに腰かける。消印を見ると、送り主はどうも近所のポストから俺に送っているらしい。というのも、書かれている郵便局の名前がここ一帯の集配郵便局だからだ。
 もちろん、逃げた身である俺に近所の知り合いなどいない。
──まさか……。
 俺はその考えを振り払う。まさか、あいつが俺を追ってこの町に来たわけではないだろう。何より、あいつは同窓会に参加していないのだ。あの写真を撮れるわけがない。
 とりあえず、こんなことを相談してまともに聞いてくれるのは佐藤だけだ。あいつは頭の回転も速いし冷静だ、なにか糸口を見つけてくれるかもしれない。
 俺は胃の上の辺りを掴まれるような感覚をこらえながら、佐藤にいくつか連絡を入れた。

 翌日。吐き気と頭痛、そして右手に持っていたウォッカの空瓶と共に目覚めた俺は、よろよろと立ち上がってトイレに行き、便器に顔を突っ込んで盛大に吐いた。
 吐きながら、昨日のことを思い出していた。あまりの恐怖と不快感で冷蔵庫に入れておいた缶チューハイでも酔いきれなかったため、足りない酒を近くのコンビニで買い足したのを最後に俺の記憶は飛んでいる。
 幾ら酒に強いと言え、近くに転がっているものから見て、缶チューハイ五本にウィスキーとウォッカをそれぞれ一本ずつ飲んだようだ。それだけ飲めば、こうもなるだろう。
 一頻り吐いて落ち着いてからシンクで口をゆすいで何杯か水を飲んだ後、若干の気持ち悪さを抱えつつスマートフォンを取りにワンルームに戻った俺は、ベッドの近くに転がっていた目覚まし時計を見て驚いた。
「やべ……」
 佐藤と約束した時間まで一時間とない。待ち合わせ場所まで行くのに、ここから五十分はかかるっていうのに。
──まともに身だしなみ整えている時間はなさそうだな。
 シンクへとんぼ返りして、片手で歯を磨きながらもう一方の手で櫛を掴み、髪を適当になでつける。髪を梳き終わったら歯ブラシの代わりにマウスウォッシュを口に含んで、顔を簡単に洗って干してあったバスタオルで顔を拭い、終わったら口からマウスウォッシュを吐き出す。
 近くにあった私服を着てから、今まで送られてきたポストカード含め必要なものだけ持って玄関に行くと、郵便受けに何か入っていた。
──嘘だろ……?
 郵便受けを開ける。
 ポストカードだ。手に取ると、いつも通り俺の住所と名前しか書いていない。裏を見ようとひっくり返そうとして、不意に思いとどまった。
──いや。これを見るのは、あいつに会ってからだ。
 そう思い直してカバンにポストカードを突っ込んでから、俺はドアを開けて──もちろんカギは忘れずに──駅に向かって走りだした。

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 ぎりぎり佐藤と時間通り落ち合うことが出来た俺は、近くのファミレスのボックス席に座って、それぞれ飲み物を注文した。
 落ち着いてから、こいつが口を開いて俺に尋ねた。
「……で、やばいポストカードが届いたって?」
「ついでに言うと、今日の朝も届いた」
「オーケー、整理しよう。送り主不明のポストカードが撮影者不明の写真付きで、お前のところに送られてくる、間違いは?」
「ない」
 俺たちが注文した飲み物がテーブルに届けられる。俺は吐き気もあって口をつけなかったが、こいつはコーヒーを一口飲んだ。
「今まで送られてきたカードは?」
 俺がカバンから二枚のポストカードを取り出して手渡すと、こいつが怪訝な顔をした。
「おかしいな。同窓会の方は分からないが、バーベキュー大会の写真はおかしい」
「そうなのか?」
「この写真が撮られたと思われる時間に俺が見てたのは川なんだよ。それに俺は酒が飲めないから、この時も素面だった」こいつが腕を組んで背もたれに寄りかかる。「断言できる。あの時、誰も俺たちを撮ってない。なんなら、あの時カメラを持ってたのは課長だけだ」
「……これもか」
「ああ。川の中から隠し撮りしてたってなら、辻褄も合いそうなものだが……まさか冷戦時代のスパイ映画でもないだろう」背もたれに寄りかかるのを止めたこいつが、テーブルに肘をついて俺を見る。「で、今日送られてきたカードってのは。見たのか?」
「時間がなくて見てない」
「見せろ」
 俺がカバンから今朝届いたポストカードを表にしてこいつに渡す。なんだか、裏にするのが怖かった。
 裏を見た瞬間、まるで血の気が引いたようにこいつの顔が青ざめる。どんなオプティミストでも、裏の写真が良くないものだってわかりそうなくらいに。
「……なんだったんだ」
 ポストカードを表にしてテーブルに置いたこいつが俺に尋ねてきた。
「お前、ストーカーされたことは。いや、ストーカーだってわからなくてもいい。元カノ以外に執着心や嫉妬心を向けられたことはないか」
「いや、そういう話は出来るだけ避けてきた。お前だって、俺がEカップで容姿端麗、社長令嬢の彼女がいるって嘘ついて、女性社員と女友達の興味逸らしてるの知ってるだろう。第一、出会い系にすら登録してないってのに」
「だよな……」こいつが歯をぎりぎりと鳴らす。歯ぎしりするのは、無理難題に直面したときの癖だ。「じゃあ、元カノか……いや、まさかな」
 サアッという血の引く音が耳の中で聞こえ、心臓が早鐘を打つ。
──まさか、本当にあいつが?
「どういうことなんだ」
 こいつがポストカードを裏返す。
 その写真を見て、目を見開いた。俺と女友達が並んで歩いているのを後ろから撮った写真。街の景色から見て、二カ月ほど前のことで間違いない。女友達が彼氏に買うプレゼントを選んでほしいということだったので、買い物に付き合ったときの写真だ。
 そこまではいい。
 問題は、女友達の頭だけが白く、ぐちゃぐちゃに塗られていることだった。
「なんだこれ……なんでこんな風に塗られて……」
「塗ったわけじゃない」こいつが首を横に振る。「釘か画鋲かはわからないが……引っ掻いた跡なんだよ。見えてるのは紙だ、インクじゃない」
 その言葉を聞いた途端、背筋に寒気が走る。
「高橋、良いか。もっとやばいこと言うぞ」
「お、おう……」
「お前から相談受けた後、なんだか気になってお前の元カノのことを調べた。名前も居た町も教えてもらってたしな」こいつが生唾を飲み込む。「彼女、死んでる。自殺だ」
「はあっ!?」
 思わず大声を上げるが、こいつは青ざめた顔のままスマートフォンの画面を俺につきつけてきた。半年ほど前のニュース記事だ。俺がちょうど夜逃げした後の辺りの。
「──川で26歳女性遺体発見、入水自殺か」何度も何度も読み返してみても、そのニュース記事は間違いなく前の彼女のことを指していた。「嘘だろ……」
 残酷だとは思うものの、帰るのが遅くなると包丁で刺して来たり女性用芳香剤の匂いがすると首を絞めてきたりしてきた彼女だっただけに、悲しみはなかった。それよりも犯人がだれか分からないという不気味さとそんな相手につけ狙われているという恐怖が、いよいよもって輪郭を持ち始めた。
 佐藤がスマートフォンをしまう。
「その川、俺たちがバーベキュー大会した川だが……それはいい。だからな、アングル云々の前に、元カノから送られてくること自体が有り得ない」こいつが舌打ちをする。「こうなると相手がわからない以上、警察や弁護士に言っても限界がある。俺の知り合いに探偵が居るから、そいつに頼もう。それで犯人を見つけてもらって、弁護士を雇って法廷で戦うしかない」
 こんな風に具体的なアドバイスをくれる人間なんて、そうそう居ない。
──やっぱり、こいつに相談してよかった。
 誰か頼りにできる人間がいるというだけで、気分が随分楽になる。相手が誰か分からないだけに、仲間が多い方が良い。
「分かった」
「お前の電話番号とかを知り合いに教えることになるが、良いな?」
「ああ」
「よし。多分、明日あたりその知り合いから電話が掛かってくるはずだ。もちろん俺からも話はしておくが、お前からも説明してやってくれ」
 この奇妙な事件はまだ解決していないが、展望が開けてきた事に安心して、俺は胸をなでおろす。
「ありがとうな」
 こいつがコーヒーを飲み干してから、力強く頷いた。
「友達のためだ。やれることはする」

 しばらく佐藤と他愛もない話をしてから、俺は帰路についた。これから先、どうなるかわからないとはいえ、前よりは希望が持てそうだ。とりあえず解決したら、また引っ越した方がいいかもしれない。
 部屋に帰ってドアの鍵を閉めた、そのときだった。
 カコン。
 軽いものが金属に当たる音が、郵便受けの方から聞こえる。それと同時に、尾てい骨から首までを人差し指で撫でられるような、肌が粟立つ感覚に襲われた。
──どういうことだ。
 震える手で郵便受けを開ける。中に入っていたのは、一枚のポストカード。
 消印なし、住所なし。
 あるのは赤茶けたインクで大きく乱雑に書かれた俺の名前だけ。
 恐る恐る裏を見ると、俺たちのいたファミレスを通りの向こうから撮影した写真。そこには窓際の席に座っている佐藤と、ぐちゃぐちゃに引っ掻かれて跡形もなくなっている俺『らしき』姿が写っていた。
──あいつが……? 死んだってニュースで……。
 思わずポストカードを取り落とす。恐怖と驚きで喉が詰まって、上手に息ができない。
 投入口から、もう一枚ポストカードがいれられて、開いたままの郵便受けに落ちる。
 そのポストカードは初めて、表向きではなくて裏向きだった。
 写真は、俺が青ざめた顔でポストカードを持っている姿。アングルから見て、廊下に立っている撮影者が、玄関に立っている俺を撮影していた。
 思わず振り返る。もちろん、廊下には誰もいない。鍵をかけているはずのこの部屋に、いるわけがない。
「は、はは……」
 引きつったような笑い声が俺の喉から聞こえる。
 そのとき、あることを思い出した。
──初めてポストカードが届いた日、前の彼女の誕生日だったっけ……。それにポストカード集めるのが、趣味だったよな……。
 ふと後ろから聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった女の声が聞こえてきた。
「忘れないでって、言ったでしょう?」

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ダブル【R-15】 2018年3月25日


魅力的な男に好意を寄せる女性。しかし男の裏の顔は凄惨を極める、恐ろしい顔だった……。

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【注意】この小説には過激な表現・暴力表現などが含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 大講堂に入ると、いつも通りあの人が前の方の席に座ってノートを開いているのが見えた。私だって来るのが遅いわけではないはずなのに、あの人はいつも私よりも早く椅子に座っている。
「おはよう」
 後ろから声をかけると彼が体を捻って私のほうに向きなおる。彼の低く、心に響くような「やあ、おはよう」という声が耳に届く。私はというと、そのなんともないやりとりがうれしくて、舞い上がるような気持ちを抑えながら彼の左隣の席に座った。
 あの人は群を抜いてかっこいいとも、アイドルのように整っているとも言えない。けれど、たくましい顔の骨格、ほんの少しだけ生やしている髭、少し縮れた髪の毛を軽くまとめただけの髪型。少し荒々しい感じを覚える外見は、やさしく開かれた目とすらりと伸びた鼻のおかげで中和し合い、とても魅力的だ。私の知り合いに見せたら、大抵の人がかっこいいというくらいには。
 いいところはそれだけじゃない。なにより気が利いて、やさしい人。自分でもくだらないと思うようなことを聞いても笑いながら教えてくれて、何度聞いても怒らない。あの人が彼氏だったら、毎日がとても楽しいだろう。
 ふと、彼の右隣の席に目を向ける。そこはいつも私の友人の指定席なのだけれど、まだ誰も座っていない。
 そういえば、昨日から彼女の姿を見ていない。よく授業をサボる子ではあったものの──そのせいでいつもノートを見せていた──二日連続でサボるというのはあまり見たことがなかった。あまりに続くようなら一度部屋を訪ねた方がいいかもしれない、そんなことをぼんやり考えていると、ドアを開けて教授が入ってきて教壇に荷物を置いた。
 あわててノートを開く。そして、先ほど考えていたことを頭の隅に追いやって、授業が始まるのを待った。
 
 空気が冷たい。空腹も相まって、宙づりになっている自分の裸体から冷たい空気へ、生きる気力が吸われていくような錯覚に陥る。
 金属パイプを挟むように縛られている両腕を、体重をかけて力いっぱい引っ張ってみる。手錠と金属がこすりあうけたたましい音こそ聞こえてくるものの、音が鳴るだけで外れそうもない。何回か繰り返していると、骨同士がこすれ合うような耳障りな音とともに手首から肩まで激痛が走った。
 痛みに耐えながら足を引っ張ってみるものの、なにか重いものが縛り付けられているらしく、何度か試してみたものの足は動きそうになかった。
 引っ張るのをやめて、叫んでみた。色々なものが混じってひどい悪臭の猿ぐつわと口に貼られたガムテープのせいでくぐもった、「誰か助けて!」という声は誰にも聞こえていないのか、暗く湿った地下室にくる人は誰もいない。
 その時だった。地下室のドアが開き、階段に光が差し込む。一抹の希望を胸に光へ目を向ける。ドアの前に立つ人影と地下室の闇が、光を縦に分割するかのように黒い仕切りを造っていた。
 精いっぱい叫んで、痛みを無視して何度かパイプを打ち鳴らす。人影が階段を下りる。電気がともり、乱雑な地下室の様相を映し出す。
 階段を下りてきたのはあの男だった。大学の同級生で、自分と仲がいいと思い込んでいた男。
 そうだ、一昨日のことだ。「家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」という誘いに乗らなければ、私はこんな目に合わなかった。あの時はデートの誘いに舞い上がっていたけれど、今は自分の不用心さに腹が立つ。
「たくましいな」
 男がぞっとするような低い声で私に話しかけながら、縛り付けられている私の前に立つ。タマを潰してやろうと足を振りかぶったけれど、動かないのを思い出した。
「あまり暴れないでくれ。掃除が大変なんだ」
 そういって男が近づいてくる。私がにらみつけると突然、不機嫌そうな顔になって腹を殴りつける。息が詰まるような感覚。少し遅れて、鈍くのしかかるような痛みが背筋からじわりじわりと体中へ広がる。空っぽの胃から出てきた胃液が舌の根にこびりついて唾液があふれ、猿ぐつわに染み込む。
 もう一発。男は私の目を見ない。容赦ない暴力が私を襲う。血の味が口に広がる。視界が暗くなる。
「おい、起きろよ」
 男が私の体を揺さぶる。けれど、闇に向かう流れに自分の体を横たえてしまいたかった。このまま目が覚めなければ、この地獄から逃げ出すことができるのに。闇に向かってしまえば、嫌な現実から逃げ出すことができるのに。
 私は自分の体を流れるままに任せようと、力を抜いた。
 その時、氷水を全身に浴びて一気に現実へ引き戻されたと同時に希望が打ち砕かれる。顔を上げると、目の前に空のバケツを持った男が立っていた。体を震えが駆け巡る。
「寝るんじゃねえ」
 空のバケツで私を殴りつける。頬に鋭い痛みが走る。
 男は顎の下に手を差し込み、項垂れている頭を持ち上げた。冷たい目をした男と目が合う。
「まだ、これからだからな」
 その顔は気味悪く笑っていた。

 翌日。いつも通りに購買で昼食のパンとコーヒーを買っていると、彼と彼の友人が言い争っているのが聞こえてきた。
 思わず耳をそばだてる。どうも、彼が友人へ貸したノートの内容がめちゃくちゃだったせいで、試験が散々だったらしい。
「お前のせいで試験に落ちたんだぞ、どうしてくれる」
 彼の友人が激しい口調で彼を責め立てる。すると、彼は微笑みながら「ノートをまともに取らなかったから悪いんだ。勉強ができなかった俺の身にもなってくれよ」と言い返す。
 その言葉が逆鱗に触れたらしく、彼の友人は「絶交だ」と叫びながら机を殴りつけて席を立ち、どこかへと行ってしまった。
 近寄ると、彼は私が手に持っていた袋を見て、先ほどと変わらない顔で「昼ご飯?」と尋ねる。
「うん。そこ、座っていい?」
 彼の友人が座っていた席を指さすと、彼は「いやいや、あいつが座った席なんて」と彼の隣を指さした。隣に座ると、彼は私を見ながら肩をすくめた。
「全く。ひどい言いがかりだとは思わないか?」
 きっと彼は先ほど話していたことを話しているのだろう。そう考えて、「そうかもしれないね」と答える。
「言われたからそうしただけで、見返りも何も求めなかったんだ。それに人間って、間違えるのが普通だろう? 間違えたことを責め立てられても、何もできないと思わないか?」
 彼の言うことも間違っていない。誰だって──私自身も含め──間違ってしまうものだし、彼が善意で貸したのだというのも事実だ。だからこそ、責められる筋合いはないということなのだろう。
 私が頷くと、彼は「わかってくれると思ったよ」と私の目を見る。まるで鋭い視線に射抜かれたような、身震いに近いぞわぞわする感覚が私の背筋を襲う。それは人の目を見てきて今まで体験したことのない、不思議な感覚だった。
 その時、彼がタイミング悪く腕時計に目を遣り、「あ、申し込みに行かないと」と椅子から立ち上がる。隣からいなくなってしまうという残念な気持ちを表に出さないようにしながら、「それじゃあ、またね」と声を絞り出した。
「じゃ。楽しんで」
 そういって、突然肩を軽く触る。不思議と、不快感はなかった。

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 もう、どうでもよくなってきた。震えもずいぶん前に止まってしまって、息をするのもつらくなってきた。今がいつなのかもわからない。誰か、お父さんかお母さんが、私を探し出してくれるだろうか。
 その時、顔に激痛が走る。
 落ち込んでいた意識がいきなり浮かび上がり、溺れかけた人が水面に顔を出した時のように、息を深く吸い込む。
「おい、まだ大丈夫だろ」
 あいつの声が聞こえる。顎の下に手を入れられて、顔が持ち上げられる。二度と見たくなかったあいつの顔が、目の前にあった。
「前は一日半も持たなかったんだ。お前なら、二日くらい持つだろ」
 腹にパンチが飛んでくる。もう染み込む余地もない猿ぐつわに胃液がまとわりついて、口の中を苦いような酸っぱいような味が満たす。もう、出てくる唾液は枯れていた。
「悲鳴は良かったが、体力がなあ……」わき腹に一撃を食らい、思わず息が詰まる。「そういえば、どんなふうに叫ぶんだ?」
 あいつが顎から手を外し、乱暴にガムテープを引き剥がして私の口に噛ませていた猿ぐつわを取りながら「うへえ、見ろよこれ」と嘲笑する。すかさず痛む腹に精一杯の力を込めて、助けを呼ぶために叫んだけれど、あいつはにやにや笑っていた。
「ここは空き家で近くに家はないんだ。誰も来ねえよ」またしても腹に一撃を食らい、制御できないうめき声が口から漏れ出す。「へえ、カエルのつぶれたような声だな」
 このままでは確実に私は死ぬ。そう思って反射的に足を動かそうとしたけれど、縛られているのを思い出す。ついでに吊るされているせいで、腕もまともに動かすことができないことも。
 なんとか働かない頭で考える。それで、一つだけ抵抗する方法を思いついた。
「本当根性あるよな」
 あいつがまた顎の下に手を入れようと手を伸ばす。
──今だ。
 あいつの手の動きをとらえ、私は首を伸ばして思いっきりかみついた。
 安っぽい牛肉のような筋張った食感と血の味が口の中に広がる。あいつの大きく開かれた口から悪魔のような悲鳴が聞こえてくる。
 脛を強か蹴りつけられ、痛みで手を口から放す。見ると、あいつの右手にはっきりとした歯型が刻まれていて、血が噛み跡から肘にかけて黒い筋を作っていた。
「この、クソアマ!」
 膝蹴りが脇腹にあたり、骨の折れる音が聞こえる。ほぼ同時に、今まで感じてきた痛みをすべて足したよりもひどいような痛みが体をかけぬけ、息ができなくなる。次いで左頬に拳が当たって、目の前に火花が飛んで視界が白む。
 ぼやけた頭をなんとか振る。その時、神経を焼くような痛みが左胸から広がって体中を駆け巡り、白んでいた視界が像を結ぶ。
 目を落とすと、裸の左胸にナイフが突き立っていて、その傷口からどくどくと赤黒い液体が噴き出していた。
 目が離せない。
「あ……ああ……」
 無意識に声が出た。
 血が噴き出す度に体温が失われ、命が流れ出すのを感じていた。
 それと同時に、私の意識もけずりとられていった。

 講堂に入ると、右手に包帯をした彼が授業の準備をしていた。
 おもわず早足になって、いつもの席に向かう。すると彼は、怪我しているのにもかかわらず「やあ、おはよう」と何もなかったかのように声をかけてくる。
「どうしたのその怪我?」
「ん?」彼が自分の右手を振る。「ああ、実家で飼っているペットに噛まれてね。全く、どこで躾を間違えたんだろうね」
 気が気でないまま席に座って「大丈夫なの?」と聞くと、彼は「心配しないでいいよ」と言って微笑んだ。
「そうならいいけど……」
「あ、そうだ」彼が思い出したように私のほうを見る。「今日の夜、暇かな?」
 突然変えられた話題に何とかついていこうと、頭の中を探る。特に予定はなかったはずだ。
「うん、特に何もないけど」
 そういうと、彼が珍しく首をかしげて私の目を見据えた。
「じゃあ、無理ならいいんだけどさ。家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」

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ループ 2017年8月18日


 見えないものが見えるようになった彼。それに恐怖し、彼はカウンセラーのもとへ相談に行くが……。

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 僕は最近見た映画に出てきた俳優に似ている初老のカウンセラーと、椅子に座って向かい合っていた。正確には、僕はソファに座っていたのだけれど。
「今日はどうされましたか?」
 カウンセラーが僕に問いかける。僕は意を決して、今まで体験したことを話すために口を開いた。
「変なものが……幻覚っていうんですか、そういうのが見えるんです」
「どのような幻覚ですか?」
「例えば、前を歩いていたはずの男性がいきなり消えてしまったり、首だけが空をふわふわと浮いていたり……おかしいですよね」
 カウンセラーはノートに筆を走らせる。
「その男性や首は、どのような姿ですか? 親戚の叔父さんやずいぶんあっていない祖父、若しくは亡くなってしまった曽祖父だとか」
 その質問に僕はびっくりした。親に言えば、「お祓いでも行ったら」と言われて蔑ろにされ、友人に言えば、「おかしいやつだ」と言われて距離を取られたというのに。
「あなたは私のことを疑わないんですか? こんな、変なことを言っているのに」
 彼はペンを置いて、首をかしげる。
「そうですね、少なくとも貴方には見えているが、私には見えていない。ということは、貴方の心の中にそのような何かがある、ということです。そして、私の仕事はそれと向き合えるように、貴方をサポートすることですから」
「そうでしたか……」僕は口にたまったつばを飲み込んだ。その言葉に救われたような気がした。「いえ、見たことのない人ばかりです」
 彼は頷き、何かを書きつける。
「では、最近読んだ小説や映画に、そのような登場人物が出てきたということはありませんか?」
 僕は首を振る。
「いえ、ありません。僕は洋画と洋書が好きですけど、出てくる幻覚はみんな日本人みたいな顔をしてますから」
「いつごろから見え始めましたか?」
「そうですね、つい最近まで一人暮らししてたんですけど、親から『帰ってこい』と言われたので、実家に帰ってきたあたりからですね」
 彼は首を傾げ、僕が一番して欲しくない質問をした。
「ご両親とは仲がいいですか?」
 僕は口をつぐむ。実は、親との仲は良くない。
 周りのみんなから「親と仲良くしないのは親不孝者」と言われ続けてきたけれど、どうやっても親と仲良くできなかった。子供のことはいつも成績のことで叱られてきたし、大学では「学費が高い」と常々言われ続けてきた。働き始めてからも、「金が足りない」と言われてきたから、給料の一部をいつも仕送りしてきた。
 それだけじゃない、もっとある。でも、思い出したくない。
「いえ……あまり」
 彼は頷き、またノートに書きこんだ。
「そうでしたか。家族構成をお聞きしても?」
「ええっと、母と父、あとは兄がいます。でも、高校生の頃に兄はどこかに行ったっきり、連絡が取れなくなってしまって」
「その時、貴方は何か思いましたか? 例えば、寂しいとか」
「いえ……兄との仲は良くなかったので、あまりそうは思いませんでした。むしろ、清々したというか、そんな感じです。でも、それから母と父は仲がもっと悪くなって……」僕は嫌な思い出を振り切るように、首を振った。「それからすぐ、僕は地方の私立大学に行って一人暮らしを始めたんです」
 彼は納得したように頷く。
「話は変わりますが、幻覚の中の『彼ら』は貴方に話しかけてくることがあるのでしょうか?」
「えっと、『君は悪くない』だとか『親がよくなかったんだ』だとか『ゆっくり生きるんだよ』だとか……ポジティブのことばかり、言ってくれるんです。でも、僕が目をそらすと、『彼ら』は居なくなってしまうんです」
「なるほど。子供のころに、そのような存在がいたことはありませんか? つらいときに励ましてくれるような存在です」
「いえ、いませんでした。友達もあんまり多くなかったですし、先生からも距離を取られていましたので」
「分かりました」彼はペンを置いた。「貴方はもしかしたら、虐待を受けていたのかもしれませんね」
 そう言われ、僕は驚いた。そんなこと、思ったこともないからだ。
「えっ?」
「この場合は心理的虐待というべきでしょう……常に叱られ、親同士の喧嘩を見せつけられる。それによって、貴方は自尊心を傷つけられながら、極度なストレスに晒されたのです」
 彼は座る姿勢を変え、僕を見据えた。
「ですから、そのような状況を改善できるようにしていきましょう。それで、きっと貴方にしか見えない『彼ら』は、また居なくなってしまうと思います」
 そんな希望に満ちた言葉を言われたことなんてない。僕は思わず、頭を下げた。
「ありがとうございます」久しぶりに笑ったせいで、ちょっとぎこちない笑顔になった。「治るかもしれないんですね」
「ええ、また来週、ここに来てください。もうすこし、いろいろ聞いてみないといけないことがありますので」
 僕は立ち上がって、改めて頭を下げた。
「もちろんです。ありがとうございました」
 彼もにっこりと笑う。僕も彼に笑い返した。

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「──で、患者の様子は?」
 私は看護師とともに、モニターを眺めていた。それは部屋につけられたカメラから、画像をリアルタイムで送ってくる。
 ここの精神病棟では、このように患者と医者が必要以上に触れないように配慮されている。というのも、ここに来る患者のほとんどに自閉傾向がみられ、自分の世界を壊されるのを嫌がるからだ。
 それに、医者側や看護師側も怪我するようなリスクが減る。尤も、彼は攻撃性がほとんどないどころか、調子のいいときは社交的なのだが。
「改善の様子はありませんね。彼、なんでしたっけ」
「妄想型統合失調症だ。投薬は続けているのか?」
「とりあえずは。ですが、目立った効果はありません」
 彼がモニターを指さす。
「面会用の椅子を自分の前に設置し、ベッドに座りながら、居もしないカウンセラーといつも話し続けています。で、話疲れたらそのままベッドに横になって、目が覚めたらまたカウンセラーと話しています」
 私はため息をついた。妄想型統合失調症は投薬の効果が出やすいはずなのに、彼は慢性化してしまった。唯一、暴れることがないのが幸いか。
「食事はしっかり出しているのか?」
「ええ。食べているときはまともというか……私も食べているときに彼と話をするんですが、とても思索的で知的です。よく、映画の話とかするんですけど」
 きっと、それが本当の彼だろう。だが、妄想型統合失調症を患った人格が、その彼を押さえつけてしまっている。
「食べているときはまともか……。解離性障害のせいだな」
「彼、治るんですかね?」
 看護師が問う。私は「わからん」と言って首を振った。
「どうして、ここに来たんでしたっけ?」
「他人の家に入り込んで、ここと同じことをやった。で、通報されて警察が来たんだが、この通りだから責任能力がないとみなされ、ここに来たんだ。まあ、椅子の配置が変わっていたくらいで、家もほとんど荒らされてなかったらしい」
「そうでしたか……」
 私はまたモニターを見る。彼は、椅子に向かって話し始めていた。
──彼は常に日常をループしている。彼の日常は、ここにしかないということか。
 声がスピーカーから流れる。私と看護師は、別の患者を診るために部屋を後にしようとドアに向かう。
『変なものが……幻覚っていうんですか、そういうのが見えるんです』
『例えば、前を歩いていたはずの男性がいきなり消えてしまったり、首だけが空をふわふわと浮いていたり……おかしいですよね』
『あなたは私のことを疑わないんですか? こんな、変なことを言っているのに』
 ドアを閉めるまで、彼の言葉は空虚な部屋に響き続け、部屋の中を巡り回っていた。

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【R-15】インタビューアー 2017年8月5日


とある町で起きた最悪の殺人事件、『ナイトレーヴェン事件』。ある記者がその当時のことを、すでに引退した担当刑事に聞きに行く。だが、そこには真実が隠れていた──。

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【注意】この小説には過激な表現が含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 とある週刊誌の記者である私は、十数年前に発生した『ナイトレーヴェン事件』を振り返るという企画の元、その当時の担当刑事に話を聞きに来ていた。
 ナイトレーヴェン事件、別名、闇夜のカラス事件。10年間で130人が殺された事件だ。
 犯行は必ず新月の日の深夜、娼婦がこの地域一帯で場所を問わずに狙われた。手法はまず、後ろから頭を殴りつけて気絶させてから、人気のない路地裏へ引きずり込む。そして、足と手を──手は身体の前で合掌させてから――ダクトテープで縛りつけて、被害者を祈るように跪かせ、眉間を38口径で撃ち抜く。
 これだけ見るとただの猟奇殺人だが、特徴的な点として無造作に捨てられた遺体の髪にはカラスの風切り羽根が必ず挿されており、それがナイトレーヴェン(ワタリガラス)の由来になっている。
 ナイトレーヴェンに対して、当時最高峰の科学技術やプロファイリング技術、そして延べ何万人もの警察関係者が投入された。徹底的な聞き込みやマスコミを利用した情報提供の呼びかけ、目撃者の捜索などなど……彼らの労力は相当なものだった。
 しかし、彼はまるで闇夜のカラスのように見つけることはできなかった。
 だが、十数年前、彼の犯行はぴたりと止んだ。死んだという説や引っ越したという説が唱えられたが、どれも確実性に劣る仮説で、ナイトレーヴェン事件は少しずつ民衆の中から忘れ去られていった。

 私は思考の中から戻り、前に座っている老人に意識を向けた。彼は当時の担当刑事で、今でも独自に調べ続けているとの話だ。その熱意には、感心するほかない。
──初めまして。私はエイドリアン誌のテッド・リー・ルーカスと申します。
「初めまして、ルーカスさん。私はロバート・ウェブスター、ロバートと呼んでいただければ十分です」
 80代とは思えないほど、しっかりとした声と姿勢。これなら、話しかけるのも気を使う必要──尤も職業柄、人が聞きやすい話し方には慣れているが──はないだろう。私も年を取ったら、こんな風にしゃんとしていたいものだ。
──ロバートさん。これからインタビューをしたいのですが、ICレコーダーで録音することとメモを取ることを許可して頂けますか。
「もちろん」
 そういって、彼は微笑む。私はICレコーダーとメモ帳をポケットから取り出し、レコーダーを机の上においてスイッチを入れてから、メモ帳を開いてペンを持った。
──では、これから始めさせていただきます。
「ええ。何から話しましょうか。あの恐ろしいナイトレーヴェン事件の、何をお聞きしたいのでしょうか」
──そうですね……警察は、どこまでつかんでいたのですか。ナイトレーヴェンについて、どんな犯人像を描いていたのでしょうか。
 彼は私の質問に静かに頷き、言葉を選ぶように目を泳がしたあと、口を開いた。
「まず間違いなく、奴はシリアルキラーでしょう。サイコパスであり、洗練された手口から考慮して、当時30代半ばの知能指数が高い人間だったのではないかと。また、一種の狂信者だったものと思われます」
 狂信者というのは当時の資料になかった。私は興味を惹かれ、もう一度聞きなおす。
──どうして、そう思うのですか。なぜ、狂信者と。
「奴は娼婦だけを狙った。娼婦を狙う人間はいくつかのパターンに分けられます。
まずは社会的弱者を狙うほかない人間。この場合はホームレスやジャンキーも含まれますが、奴は娼婦だけを執拗に襲った。つまり、この可能性は低いのです。
 次に女性へのトラウマを持つ人間。ヘンリー・リー・ルーカスや、サイコパスとは異なりますがテッド・バンディが良い例です。前者は売春婦であった母親のヴィオラが狂人で、性的虐待を受けていた。後者は交際していたが破局した女性によく似た女性を狙った。これらは女性関係でトラウマを持っていたために、女性を狙い、残忍な方法で殺した。だが、奴は女性を狙うのは確かだったが、殺し方は残忍といいがたい。
 そして、性的不能者。自らの性欲を殺人という形で発散するタイプの人間です。その場合、刺すという行為を性行為と考えるために、彼らはナイフを用いて殺人を犯します。だが、奴は一度もナイフは使わなかった。
 そうなると、最後の可能性……自らを神の使いだと考え、神の意志に従っているという狂信者の可能性があるのです」
──だから、狂信者だと。
「ええ。奴は娼婦という存在が許せなかったのでしょう。実際に、キリスト教では妊娠目的以外の性行為を認めておりませんし、奴はまた処刑スタイルと呼ばれる、眉間を撃ち抜くやり方で彼女たちを殺した。ですから、私たちは熱心に日曜のミサへ行く信心深い人間を中心に調べを進めました。また、神学校を卒業した人間もその中に入れました」
 私はメモにそのことを書きとる。面白い視点だ。
──では、カラスの風切り羽根は一体。
「奴は狂信者であり、演出家なのです。カラスにどのような意味があるか、ご存知でしょうか?」
──不吉な存在、悪の使いという解釈がありますね。
 彼は首を振った。
「確かにそれもあります。しかし、奴は自らを『神の使い』だと考えたのです。ギリシア神話、北欧神話、ケルト神話、旧約聖書……カラスが神の使いとされている神話や宗教は、意外と多いのですよ」
──興味深いですね。自らを『神の使い』と考えるなんて。
 私は彼に失礼だとは思いながら、義足の付け根を擦る。たまにここが痛んで、擦らずにはいられないことがある。全く、十数年前の事故を未だに引きずることになるなんて。
「ええ。自らは神の使いであり、現世から不浄なものを始末している。それが奴の持つ妄想なのです」
──なるほど。
 彼は神妙な面持ちで頷く。参考になる話は十分に聞くことができたし、この話はこれくらいでいいだろう。
私はメモを捲り、用意していた質問を読み上げた。
──興味深いお話、ありがとうございます。では、今、彼は何処にいると思いますか。
 その質問に、彼は顔をしかめた。
「難しい質問ですね。どうして、十数年前から事件を起こしていないのかも分かりませんから……とはいえ、近くに居るものと思われます」
──どうしてですか。
「奴の犯行場所から割り出した地理的プロファイリングでは、奴は地元の人間です。また、ここは治安があまりよろしくない。犯罪者には格好の隠れ場ですし、標的も多く居る。奴は自信家ですから、警察は捕まえられないと考え、慣れたこの場所にとどまっているものと、私は考えています」
──死んだ可能性は考えないのですか。
 そう聞くと、彼は笑った。だが、すぐに「失礼」といって、真顔に戻った。
「もし、奴が死んでいたとするなら、遺品整理の時に大量のカラスの羽が家にあるという通報が来ることでしょう。『動物虐待ではないか?』という通報が」
──なるほど、そのような通報はなかったのですね。
「ええ、今まで一度も来たことはありません。奴のカラスの羽はすべて生きたカラスからむしり取ったもので、家にはその痕跡が残っていることでしょう。で、それを見た親族が何を考えるか、容易に想像がつきます」
──興味深いですね。とはいえ、彼がどうして犯行を止めたかはわからない。
 私はそう言いながら、義足の付け根をさする。
「ええ。私は交通事故か何かで、体の自由を奪われたのではないかと思っています。それで、天から与えられた任務を果たせなくなった。もちろん、同僚の中には死亡説を唱える者や引っ越しして別の場所で殺し続けていると考える者もいますが、あくまで私はそう考えておりません」
 私はメモ帳にそれらのことを書きとめる。
──ありがとうございます。
彼はにこやかに笑い、「いえいえ。このような犯罪が、記憶に埋もれてしまうのはよろしくありませんから」と言った。

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──では、最後に。一つお聞きしたいことがあります。オフレコでもよろしいですか。
「ええ、構いませんが……何でしょうか?」
 彼は私の質問に快く答えてくれた。そのお返しをしないといけない。
 私はICレコーダーを切り、メモ帳とともにポケットにしまった。そして、椅子から立ち上がり、ポケットから.38スペシャル弾を装填した小型のリヴォルヴァーを取り出して彼に向けた。
 それは、130人の命を吸った拳銃。
 そして、131人目の命を吸い取るであろう拳銃。
 彼がまるで化け物を見たかのような、口をポカンと開け、目を落ちんほどに見開いた顔で私を見る。
 こんな顔を見たのは、私が母親に銃を向けて殺した時以来だ。あのクソアマは、無力で男に体を売るしかなかった自分ではどうにもできないフラストレーションを私にぶつけ、それでストレスを発散していた。
 それだけじゃない、あのイカレポンチは実の息子である私すら金儲けの道具にした。全く、あれがいなければ、私はもう少し幸せだっただろう。尻のヴァージンもまだ守られていたかもしれない。
「まさか……」
 人間というのは面白いもので、銃を向けられていると体が硬直するらしい。全く共感はできないが、そういうものなのだろう。
──ええ、私がナイトレーヴェンです。あなたの捜査は素晴らしい。一つも、外れていなかったのですから。
 彼が「記者だったのか?」と声を絞り出す。
──死にゆくあなたにはお答えいたしましょう。いいえ、私は記者ではありませんでしたよ。とある方が『快く』私に身分を貸していただけたのでね。本職は司祭ですよ。
 ナイトレーヴェン事件の真相を知りたいというネタを流して、のこのことついてきたエイドリアン誌の記者には感謝しなくてはならない。尤も、彼は私の感謝の言葉を聞くこともできなければ、返事をすることもできないだろうが……。それに、そろそろ角膜が白濁して、私の顔も見えなくなっている頃だろう。
「君は神のもとに生きるのではないのか?」
 私に対して神の教えを説くとは。思わず、私は笑ってしまった。
──申命記22章では、処女でない女はすべて死刑にするべきと。私は神に従い、代行しただけです。
 彼は力なく首を振る。
「だが、モーセの十戒では『汝、殺すなかれ』と……」
──『汝、罪のない人間を殺すなかれ』ですよ。姦淫は罪であり、死に値するのです。
「君は何故、十数年前に殺しを止めた? そして、何故また始めようとしているのだ?」
 私は頬の筋肉を引き上げた。
──神が私に交通事故という試練を課し、それに十年ほど取り組んでおりましたのでね。二番目の質問には、世の中には不浄が多すぎるから……そうお答えしておきましょう。神は私に世の中を浄化せよと告げたのです。
 彼はため息をついた。
「確かに、君は狂信者のようだ」
──誉め言葉を、どうもありがとう。
 乾いた銃声。久しぶりに感じるリコイル。崩れ落ちる刑事の亡骸。
 近寄って眺めると、生きていた時とは全く違う、力の抜けた遺体があった。これで、神からの使命を妨害しようとした異教徒は、神の祝福によって居なくなった。
 しかし、亡骸がまるで糸の切れた操り人形だ。確かに私が彼を20年近くも操り、捜査をかく乱したことは間違いようもないことだが……まあいい、用の済んだ人形は片付けなければ。
 私は漂白剤を探すため、物置に向かう。今夜どこで肉欲に塗れた異教徒を探そうか、そんなことを考えながら。

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