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F to F 2018年2月27日


誰もいないのに話し続ける青年。それを遠目から眺める老人。最後に待ち受ける二人の共通項。二人は何と顔を合わせたのか?

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 私は行きつけの喫茶店のお気に入りの席に座りながら、ある小説を読んでいた。年を取ってしまうと細かい字を読むのも難儀してしまうが、何十年と生きるうちに体に染み付いてしまった習慣というのをこそげ落とすのは、老人にはあまりに痛みを伴う行為だった。
 ページをめくる。店内には大学生かそれとも社会人か、若い男が一人いるだけだ。いつもこの時間なら顔なじみのマスターを除いて誰もいないのだが、今日は珍しい。
「あ、来た。……なるほど、準備に手間取ってたのか」
 男が誰かに向かって話し始める。はて、誰か席に座っていただろうか。否、ドアベルすら鳴っていない。誰か来たらカランカランと音が鳴るはずだ。
 違和感と少しの好奇心に駆られた私が文章から目を上げると、青年が目の前の空いた席に向かって笑いかけているのが見える。やはり、彼の目の前の席には誰も座っていない。
「本当綺麗な黒髪だよな。それだけ長いと、ケアも大変そうだが。……やっぱり慣れるんだな。注文は?」
 彼が手を上げてマスターを呼び、アイスコーヒーを一つ注文する。彼の前にはまだ湯気を上げているホットコーヒーが既にあるというのに。
 私は非日常感に飲まれ始めているのを感じていた。六十年以上生きているが、そんな光景は初めてのことだったからだ。
 マスターが注文のアイスコーヒーを持ってくる間にも、彼は誰もいない空間に向けて話しかけていた。歩いているマスターと目が合う。どうも、マスターも同じような違和感を覚えているようだ。
 私は本を閉じて、彼に感づかれないようにしながら彼の話を聞き始める。心の底では見慣れないものを見てしまった恐怖から、家に帰ってしまうという選択肢も考えた。だが、顔なじみのマスターをこの異様な空間に一人置いていくのはあまりに薄情だという声が、私をいつも座っているこの席にとどめていた。
「ありがとうございます」
 マスターが下がってカウンターの中へ戻っていく。その所作を見る限り、内心怯えているようだ。とはいえ、無理もない。いくらか距離の離れている私だって、怯えているのだから。
「そういえば、いつもその赤と黒のワンピースだよな。一体、何着持ってるんだ?」
 どうも彼にしか見えていないその人物は、長く綺麗な黒い髪を持ち、赤と黒のワンピースをいつも着ているらしい。今まで聞いてきたことを纏めてみると、私は彼が見ているのは女性ではないだろうかと考えていた。とはいえ私には見えていないのだから、年齢も顔も想像するしかないのだが。
「そういえば、今日はどうしようか。珍しく俺の家じゃないけど。……買い物か、何欲しいんだ? 服?」
 彼は不服そうに呟く。そういえば、私も女性の買い物についていくのは嫌いだったなんてことを思い出す。だが思い出をかき消すような光景が今この時、目の前に広がっている。
「唇が薄いこととか目が大きくないこととか、気にしなくていいと思うが……十分、今のままで美人だし、肌も白くてきれいだ」
 私は脳内の女性の姿に、彼の言ったことを付け加えていく。薄い唇、あまり大きくない目、そして白い肌の美人であるということ。少しずつ、私の中で目の前にいる『彼女』が像を結び始める。
「ごめん、気に障ったか」
 彼が謝るかのように、目の前の空間へ頭を下げる。その時、マスターが近寄ってきていつの間にか無くなっていたコーヒーをデキャンタからカップにほんの少し注ぐ。注ぎ終わると、短い鉛筆と紙を自分の体で隠しながら私へ差し出して、カウンターへ戻っていく。紙にはすでに、「彼は一体何をしているんだ」と書かれていた。
 なるほど。確かに声を出して話せば、彼に聞かれてしまうだろう。もし彼がなんらかの自分の意志ではない原因でああいうことをしているのであれば、何が引き金になって何が起きるか分かったものではない。
 マスターの機転に感心しつつ、私は持ってきた数冊の本で鉛筆と紙を隠しながら、そこに彼女か女友達と話しているように見えるということとその外見を箇条書きにして書き連ねる。そして、カップに口をつけて飲むふりをしながら、彼の話に耳を傾けていた。高頻度でマスターを呼んでお代わりをしていては彼に疑われかねないことと、情報が欲しいと考えたこと故の行動だった。
 彼が「よく朴念仁と付き合う気になったもんだ」と自嘲気味に笑う。それを聞いた私は、メモに書いてあった女友達という部分を横棒で消す。
 私はその場の異様さに慣れてきているのを感じていた。彼を中心にして広がる狂気に私も少しずつ染められていくような、まるで彼と知識を共有しているかのような、そんな気持ちがしていた。それと共に、『彼女』の像がはっきりとしていく。
「相変わらず意図がつかみにくいな。感情なんて、人ならだれでもあるだろうに」
 そのとおりだ。私も丁度今、人間ならば持ち合わせているその感情──恐怖──に苛まれている。
「まさか自分がそうだ、なんてことは言わないよな? 変なこと言わないでくれよ。……待ってくれ、俺がまだ飲み終わってない。飲み終わったら行こう」
 彼はカップに口をつける。その文脈からして目の前にいる『彼女』はアイスコーヒーを飲み終えているのだろうが、当然ながら誰も口をつけていないコーヒーが減るわけはない。
 私は彼が見ている現実と私が見ている現実が異なるのではないかと気づいた。では、どちらが現実に沿っているのか。私とマスターが見ている彼の目の間に誰もいない現実か、それとも彼が見ている彼女が目の前にいる現実か。口の中が粘つき始めるのを感じる。どちらが正しく、どちらが間違いなのか。若しくはどちらとも間違いなのか。
 混乱し始めた思考をリセットしようとして、カップに口をつける。だが、すべて飲み干していたのを忘れていた。私はマスターを呼んで、コーヒーを注いでもらうと同時にメモをひそかに渡す。マスターはメモを一瞥して、またカウンターへ戻っていった。
 それからさほど時間もかからず、コーヒーを飲み終えた彼はカップをソーサーに置き──今まで気づかなかったが──椅子の下に置いてあったカバンを手に持つ。そして、「お会計お願いします」という声と共に立ち上がってレジへ向かう。
 マスターはレジに向かい、一人しかいないのに二人分のお金を支払う彼の精算をし始める。私は彼がこちら側を向いていないことを良いことに、椅子の背を手すりのようにして体をひねり、彼の背中を見つめて考えていた。
 一体どちらの現実が正しいのだろうか。私は何十年と過ごしてきて、奇怪なものも目にしてきている。多数の意見が正しいとも限らないということも知っている。そして、自らの見たものが必ずしも正しいとは限らないという経験もしてきた。とくに最近は自らの体の衰えのせいで、そういう経験がより増えてきたように感じる。
 では、この光景は?
 自分が立っている足場が崩れ去ってしまったかのような気持ちがする。自分を信じられないことがこれほど恐怖だとは知らなかった。
 支払いを終えた彼がドアを開けて──この時はドアベルが鳴った──外へ出ていく。彼はきっと、彼女と一緒に買い物に行くのだろう。
 緊張し平静でいられなくなった臓腑が、大量の血液を求める響きを感じる。私はもう閉まってしまったドアを見つめたまま、開いている右手でテーブルの上をまさぐりコーヒーカップを掴む。そうだ、こんな苦く受け入れがたい考えは、同じく苦いもので流し込んでしまえばいい。それに二度と彼と会うことはないのだから、彼と私の世界が混じり合ってしまうことはないのだ。
 変な体験は忘れてしまうに限る。それは私の生涯で見つけ出した処世術の一つだった。
 コーヒーを飲もうと正面を向いた私は、カップを取り落とす。少しだけ冷めてしまった黒い液体が腹にかかるのを感じ、白く無垢なカップが割れる音が耳に届く。けれど、目の前にいる存在がそれを忘れさせてしまった。
 私の前にある椅子に、私が想像していたよりも少し年を取ったように見える彼女が座っていた。漆黒の髪との対比が眩しい白い肌、少しだけ退屈そうに閉じられている目、黒い袖以外は血のような赤をしたワンピース、そして薄紅色をした唇。
「どちらの現実も正しいの」薄い唇を少しだけ持ち上げ、彼女がほほ笑む。「だって、あなたたち二人とも恐怖を抱いているから」
 その刹那、体の奥から響いていた血液の音は私の恐怖に耐えきれず、止んだ。

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