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未来から来た男 2019年9月28日


大ヒットした新作モキュメンタリー・パニック映画、その監督兼脚本家が語るところにはある人物から聞いた妄想が元になっているというが……。

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  清浄な空気漂う会議室で、私は白い壁に囲まれながら座り心地のいい椅子に腰かけていた。汚い物などありはしない、清潔で正常な世界だ。

 今日は私が手掛けた映画の大ヒットを記念して、週刊誌からインタビューをしたいという依頼が来た。作品を作るのはもちろん人の注目を集めるのも好きな私は、それを好機と依頼を受けたのだった。十数年、下積みを積み重ねて続けてやっと得た名声。それを存分に使って、一体何が悪いというのか。

 ほどなくして、若い記者がメモ帳とICレコーダーを片手にもって会議室に入ってきた。

「こんにちは。映画のヒット、おめでとうございます」

 爽やかな声で記者が話しかけてくる。私は謙遜するように「いやいや、周りのスタッフのおかげですよ」

 椅子に座ったあとに、緊張をほぐすためなのか軽い世間話をしてから記者が「それではインタビューを始めさせていただきます。ICレコーダーで録音してもよろしいでしょうか?」と尋ねてくる。私は構わないという意志を込めて、首を縦に振った。

 それから十数分ほど製作の苦労や映画のコンセプトなどを事細かく聞かれ、存外色々な事を聞かれるのだなと考えながら、私は記者が投げかける質問に覚えている限りのことを話した。

「監督は脚本も手がけられていましたよね。近年では様々なパニック映画が出ていますが、監督の映画は驚くほど仔細な社会が描かれているために評価されたと言われています。それを考えるにあたっての苦労されたことをお聞きしたいのですが」

 私は少し頭を傾げて考える。ここで全て私の想像だといえば、希代のモキュメンタリー作家になれるだろう。ただ、周囲の期待を自分の実力以上に跳ね上げてしまえば後々創る作品の評価に落差を生み出してしまうし、あの男がいつ「これは私が考えたストーリーだ」といいだすか分かったものじゃない。

 それならば、真実を話してしまった方がいいだろう。

「実はこの話は一年ほど前に出会った、とある方からお聞きした話が元なのです。もちろん幾つかの点において脚色はしましたが、その方が思いついたストーリーが骨子となっています。要は原案者ですね」

 記者が興味をそそられたように前のめりで私に訊ねる。

「とある方、とは?」

「お名前などは分からないのですが、ある日私がバーで飲んでいるときに出会った方なのです」

 

 私は寂れたバーで一番安いブランディを飲みながら、なにか脚本のアイデアが思いつかないものかと酔った頭をフル回転させていた。ここ最近、書く脚本、書く脚本、すべて取り下げられていて、いい加減フラストレーションが溜まっていたのだ。

 しかしまあ、素面でも思いつかないのだから酔った頭でなど思いつくわけもなく。

 いっそ自主製作映画にでも手を出すべきか。スタッフやキャストは学校時代の知り合いやそこらへんをぶらついている役者のたまごを引っ張ってくればいい。問題は予算だ。いくら低予算でやるといっても、レンタル機材云々だけでも十数万。人件費まで含めれば数十万だ。長い映画を作るともなると、もう一桁は必要だ。

 斜陽化した映画業界とはいえ、アルバイト代も含めればとりあえず生活する分の稼ぎはある。とはいえ、ポンと数十万円を出せるほどの貯蓄は出来ていない。誰かから借りるとかプロデューサーを見つけるとか資金調達の方法は思いつくが、前者は映画がヒットしなければ借金を背負うだけだし、後者に至っては名の無いセカンドに目を付けてくれるプロデューサーなどいないだろう。

 私の慎重な性格も問題なのだ。確実にヒットすると分かっていれば借金の一つや二つ背負うものの、映画の世界はそれほど甘くはない。それをわかっているから、リスクを犯せないのだ。

 ため息をつく。映画業界に憧れて入ったものの、ここまで厳しい世界だとは。自分の想像を作品にするのがこんなに大変だとは。

 そのとき、ドアベルがカランカランと鳴る。こんな平日ど真ん中の深夜にここに来る客がいるなんて珍しい。

 ドアの方を見ると、ボロボロの服を着た如何にもホームレスという風貌の男が立っていた。

 意図せず男と目があう。関わりたくないという私の思いを無視して、男はおぼつかない足取りで歩いてきて、私の隣に座った。

 汗の饐えた臭いと何かが焦げた臭い。微かに肉を焼いたような美味しそうな臭いもする。

「……おい、あんた聞いてくれよ」

 逃げ腰になりながら、この場から逃げて変に男を刺激したくなかった私は「なんだ」と答えた。

 見た目とは裏腹に呂律も発音もはっきりしている男は、「二年後だ。二年後、世界が崩壊するんだよ」と言い始めた。

 ホームレスみたいな男のいうことだ、おそらく何かショックなことがあって冷静ではないのだろう。そう思って聞き流そうとした私は、メモも何も出さずにカウンターの頬杖を突いた。

「あれはオリガルヒが石油プラントの開発を続けているシベリア奥地に建設された石油採掘場で、倒れる従業員が続出したのが始まりだった。今から半年後の話だ」

 オリガルヒという聞き慣れない言葉に内心困惑しながら──後で調べたところによるとロシアの新興財閥だとか──私は妙に話が具体的だなと思いつつ、まだホームレスの妄想だと考えていた。

「当初、連中はそのことをロシア政府にも隠そうとしたんだ。なんせ、何億バレルもの石油が埋蔵されていると地震探鉱が告げていたからな。そいつの価値は計り知れないし、自分たちで何とかなると考えてもいたんだ。でも一年後、従業員の半数以上が倒れて、政府に頼らざる得なくなった」男が乾いた唇を舌で湿らす。「政府は保健・社会発展省から人員を派遣したが、その頃には周囲の村や別の採鉱会社にもその症状は広まっていた。状況を重く見た政府は管轄を民間防衛・緊急事態・危機管理局に移したうえで特別対応チームを結成した。それでもあいつらは封じ込めに失敗したんだ。石油採掘会社はシベリアの永久凍土で眠ってた古代のウイルスを掘り出しちまったんだよ」

 私は一旦彼の話を止めさせ、バーテンダーにウィスキーと軽食を注文し、ポケットにいつも入れているICレコーダーとメモ帳を取り出した。私の中のアンテナが、これはいいストーリーになるということを告げたからだ。

 とりあえず今まで聞いた話をメモに書き写し、録音していいかを聞いてからICレコーダーを起動する。男の方はというと、自分の話が後世に伝わるならどんなことをしてくれても構わないということだった。

 注文した軽食を食べるよう促すと、よほど腹が減っていたのかあっという間に皿の上の料理を平らげウィスキーを飲み干す。もっといるかと聞いたら、まずは話してしまいたいということだった。

「大監督として知られてるあんたにこの話が出来て良かったよ」

 軽食を食べ終わった男がそんなことを口走る。それが嫌味なのか誰かと勘違いしているのか判別がつかなかった私は、「とりあえず話を続けてくれ」と促した。

「WHOも動いて何とかしようとしたんだ。でも、飛沫感染もすれば潜伏期間も長いあのウイルスを封じ込めることはできなかった……」何かを思い出すように小刻みと震え始める。「飛行機に乗ったキャリアは世界中に飛んでいって、そこら中を血の海にした。あのウイルスは潜伏期間が長いのに発症後24時間で肺をぶっ壊す。だからあっという間に広がっては、辺りを血に染めるんだよ。口から血を溢れ出させるんだ」

 素人が考えた妄想にしては本当良く出来ている。技術的には映画で表現可能なのも尚の事都合がいい。

「それで何人も、何人も死んだ。ワクチンを作る間もなく、呼気に混ざって広がるウイルスを止めることも出来ず。国もあっぷあっぷしはじめて、ついに感染者を集めて生きたまま燃やし始めた」男が手で顔を覆う。「そんなことをしても感染拡大は抑えきれなかった……政府上層部も死にはじめて……ウイルス発掘から一年半後には世界中の殆どの人間が死んでいた……」

「そうかそうか」

 私は気のない返事をする。どうせ妄想ではあるのだが、慰めるくらいの事はしていてもいいだろう。といっても私は男の心情などに興味はなく、興味があるのはこの話を映画化していいのかどうかという話だけだった。

「俺は……俺は……」男がぶるぶると震え始める。「上に言われて、妻を、息子を、息子の友達を、妻の両親を……」両手で煤けた顔を覆う。「焼きただれて赤と黒の混じった肌、閉じなくなった瞳、髪の毛の焼ける臭い……」

 突然叫び声をあげた男は椅子を蹴るようにして立ち上がり、ドアへ向かってまるで獣のように走ってそのまま外に出ていった。

 残された私とバーテンダーは目を合わせたまま、目の前で起きた事態を飲み込めず、しばらく呆然としていた。

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「──という話があったのです。もちろん、彼には映画化していいかなんて聞けていません。だからこそいくらかオリジナリティを足し込んで、『私の物語』にしたのです」

 それからすぐさま脚本を書き上げた私はコネと信用を最大限に使って、多大な借金を背負いつつ映画を作った。結果は大成功、借金もあっという間に返済できた。それくらい、彼から聞いた話は大成功したのだ。

 熱心な記者は頷いて、「映画には元々会社員として働いていたものの、崩壊しつつある世界で遺体焼却のボランティアをさせられている男がいましたよね。もしかしてモデルはそのお話を聞いた方なのですか?」

「ええ。名前も知らないとはいえ原案者に近い彼に、せめてものリスペクトを示したかったのです」

「なるほど……」記者がメモ帳に何かを書く。「それで監督のことについてなのですが──」

 それからまた、私の出で立ちや映画作りにおいての考え方などを聞かれ、インタビュー開始から数時間後にやっと私は解放された。

「本日はありがとうございました」

 ICレコーダーを切り、メモ帳を仕舞った彼が座礼する。

「いえいえ。色々な話が出来て良かったですよ」

「記事になったら原稿を送りますので、確認をお願いします」

「よろしくお願いします。原稿が楽しみです」

 私たち二人は立ち上がり握手を交わしてから、一緒に会議室を出ていった。

 

 帰り道、私がスマートフォンでニュースを見ていると、『シベリア、謎の感染症発生』という記事が目に入った。

──まさか、偶然だろう。

 じっとりと冷や汗を掻きながら、気になった私はリンクをタップする。

──シベリアで謎の感染症が蔓延、ロシア政府は緊急事態を宣言……。

 そこには、あの男から聞いた話とほとんど同じ話が書いてあった。

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2017年11月26日


極寒の中、娘の誕生日に向かった彼は川に架かる橋の上で酷い渋滞にはまる。だが、その橋は車の重みに耐えきれず……。

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 あの日は今でも覚えている。忘れようにも、忘れられないあの日のことを。
 私がこのことを綴る意味は治療の一種なのだそうだ。正直、効果があるのか懐疑的なのだが……カウンセラーが言うのだから、そうなのだろう。
 あれは寒い、寒い夜のことだった。身を切るような寒さ……いや、切られたのは身だけではなかったのだが──。

 厚い強化ガラスに阻まれても聞こえる、けたたましいクラクションがそこら中で鳴り響いていた。私は騒音と渋滞からくる苛立ち、約束に間に合わないのではないかと言う焦り、両方に苛まれて車のハンドルを指で叩いていたのを覚えている。
『──町では氷点下20℃を記録し、地元の水道局は水道管の凍結防止のために、水を流し続けることを推奨しています。また、電線への着氷により停電した地域への支援を行うと、政府は発表しました』
 ラジオからニュースが流れ、私はラジオの時計を見た。娘の誕生パーティまで、あと30分ほどしかない。この橋から家までは、運が良くても車で20分はかかるというのに。
「勘弁してくれよ……」
 ハンドルを叩くテンポが上がっていった。この橋がこんな風に渋滞するなんて珍しかった。ラジオ曰く、橋の出口で玉突き事故が起きて、その交通整理で渋滞しているとのことらしい。
「にしても、動かないな」
 回転する赤色灯がそこら中を赤く染め、私は車の暖房を強めた。
 その時、聞いたこともないような音が上から聞こえた。まるで──そんなことできる人間がいればの話だが──電線を両方から引っ張って、引きちぎったかのような音。
 風切り音。金属がひしゃげ、ガラスが飛び散る音。盗難警報。そして、悲鳴。
 シートに座ったまま、素早く辺りを見回した。
 すると、ドアミラーに信じられないものが見えた。自分の車からそう遠くないところに、何かに押しつぶされた銀色のセダンがあったのだ。それも押しつぶしたものは未だに左右に揺れている太い紐、橋を支える重要なケーブルの一本だった。
 その光景はあまりにも現実離れしていて、呆然と見つめるだけだった。
 また、あの引きちぎったような音が聞こえて音の方に目を向けると、黒いバンがケーブルとぶつかった勢いで高欄から飛び出したのが見えた。
『速報です。マーキュリーブリッジで、ケーブルが切れたという報告が入りました。近隣の住民及び橋の上にいる方は、すぐに退避してください。崩落の恐れがあります』
 ラジオから緊張したMCの声が聞こえ、それと同時に、またしてもケーブルが切れる音が聞こえた。
──逃げないと。
 そう思った私は先程とは打って変わって素早くドアを開け、出口に向かって走った。今思えば、娘のプレゼントを車の中に置きっぱなしだった。とはいえ、あの時はそんなことを考えている暇もなかったのだが。
 他の車から降りた人たちも出口に向かって走っていた。ある人は子供を抱きかかえながら、ある人は妻と思わしき女性の手を取りながら。
 橋の上は阿鼻叫喚の様相を呈していた。悲鳴がこだまし、ともかく逃げることだけが一番で、暗くてよく見えないものの所々に水たまりのような何かが見えた。
 その時、ケーブルの切れる音が連続して聞こえ、私の数メートル先の一団に直撃した。この時、出来れば一度も聞きたくなかった『ある音』を私の耳は初めて聞いた。
 その音と金属がひしゃげる音、悲鳴が入り混じって耳の中で反響し、私は吐き気を催して足を止めた。
 間髪入れず、後ろから悲鳴と車がぶつかり合う音が聞こえてきた。振り向くと、目を見開いて半狂乱になった中年の男が、SUVのハンドルを握り締めて渋滞の中を突き進んでいた。車のバンパーは見えず、ボンネットには赤黒くペイントがされ、凹んでいたように見えた。
 その車がほかの車にぶつかるたびに、また聞きたくもない音が耳に届き、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 すると、SUVの前方にあるアスファルトが、岩の割れるような音とともに盛り上がったのが見えた。だが、車はそれに気づかないのか間に合わなかったのか……真正面からぶつかった。空しくタイヤが空回りする音とともに、ぐるぐると回転しながら高欄から飛び出して闇に消えてしまった。
 その時、私の耳に「助けて」という声とガラスと叩くような音が聞こえたような気がした。
 辺りを見回すと、そう離れていないセダンの後部座席に娘と同じ年頃の少女が閉じ込められているのが見えた。そのセダンはいつの間にか切れていたケーブルに弾き飛ばされた自動車にぶつかられたようで、側面が凹んで彼女がいるドアの下には滴ってインクだまりが出来るほどべっとりと赤黒いペンキが塗られていた。
 駆け寄ると、彼女がリアガラスを平手でたたいていた。私はトランクルームのドアノブを引っ張ったが、びくともしなかった。ドアを開ける中の機構が壊れてしまったのだろう、これではガラスを割る以外に方法はない。
「少し待っていてくれ」
 以前、テレビで強化ガラスは尖ったもので割れると聞いたことがあった。私は崩落したアスファルトの近くへ走り、欲しいものをすぐに見つけた。少し大きめの、鋭く尖ったアスファルトの欠片だ。
 それを手に持ち、セダンに駆け寄り叫んだ。
「伏せてろ」
 リアガラスに尖った欠片をたたきつけた。二回叩いただけで、ガラスは砕け散った。
「出るんだ、急げ」
 彼女が手を伸ばす。私は手をしっかり握り、引きずり出した。二人が無様に橋の上に転がり落ちたが、私は橋の軋む音が少しずつひどくなる事の方が不安だった。この音が本格的に崩落する予兆なのは間違いないからだ。
 荒い息遣いのまま、彼女が途切れ途切れに「ありがとう、おじさん」と軋む音にかき消されそうなほど小さな声で呟く。私が頷くのも忘れて「立てるかい?」と早口で聞くと、彼女は頷いた。
「よし、早く逃げるんだ。時間がない」
「うん」
 彼女が立ち上がるのに手を貸し、二人で手を繋いだまま橋の出口に向かって走った。周りにはほとんど人がおらず、けたたましい盗難警報器の音と橋が軋んだりこすれたりする耳障りな音だけが響いていた。

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 しばらく走ってパトカーや救急車が止まっている出口が見えてきたころ、今まで聞いたことの無いような音が聞こえ、ふと足場が無くなったか自分の体が浮いたような感じに襲われた。空っぽの胃から胃液が口にせりあがってくるような──思えば、あの時はのどの渇きも忘れていた──感覚、陰嚢がせりあがるあの感覚、その二つに襲われた。何とか地に足をつけようと力を入れると、足が宙を切る。嫌な予感がして下を見ると、橋桁が斜めになっていた。
 振り向くと、橋は黒い水を湛えた極寒の地獄に餌を与える漏斗のように、川に落ちていた。
 橋桁に彼女と一緒にたたきつけられた。その衝撃で手を放してしまいそうになったが、私は彼女の手を放すわけにはいかなかった。橋の下に待ち構えているのは地獄だ。私の娘と同じような年頃のこの子を、地獄に送り込むわけにはいかなかった。
 悲鳴が聞こえて彼女の方を見ると、寒さのせいで突っ張っていた口の端が切れて、血がにじんでいた。背中がアスファルトとこすれ合うのを感じ、自分が少しずつ滑り落ちていると気づいて近くの車のホイールに指をかけたが、あの時は車も一緒に滑り落ちていたからなのだろう、いくら力を入れても私たちは滑り落ちていった。川まであと十何メートルもなかった。
 その時、橋桁にできた割れ目を見つけ、何とか手をかけた。これでようやっと、滑り落ちることはなくなった。殆ど時間を置かず、先ほどまでしがみついていた車は派手な水しぶきを上げて、川へと滑り落ちていった。
 だが、寒さと二人分の重さを支える疲労で、私の腕は悲鳴を上げ始めた。
 このままでは、そう時間もかからず二人で極寒の川に滑り込むことになるだろう。しかし手を放せば、もう片手を使って自分の体を持ち上げれば、助かるかもしれない。
 だが、彼女を殺すことになる。
 逡巡している間に、指が一本、また一本と私の意思を拒み始めたのを感じた。
 今動く指は二本だけ。もし不意に放してしまえば、息も吸えずに冷たい水の中に入ることになり、おぼれ死んでしまうと考えていたのを覚えている。
 私は覚悟を決め、彼女に向かって叫んだ。
「息を吸い込んで、止めるんだ」
 彼女が息を吸い込んで、口を閉じる。それを見て、私も同じように肺一杯に冷たい空気を吸い込んだ。その空気はあまりにも冷たく、喉が切れそうなほどだった。
 そして、私は力を抜いた。

 結局、私たちが警察のボートによって水から引き上げられたのは、二人して川に飛び込んでから15分後だったそうだ。私たちは低体温症をおこしていて、すぐさま救急搬送されて手当てを受けた。だが、手当の甲斐なく、彼女は助からなかった。彼女の体にとってはあまりにも冷たすぎる川の水は、彼女を地獄に引きずり込んでしまったのだった。
 今も彼女の最後の顔を、ポートフォリオを描けるくらい覚えている。しかし、彼女のあの顔を見ることはもうできないのだ。
 私を苛むものはまだある。回復してから、私は警察に簡単な事情聴取を受けた。そこで聞いたのは、彼女の親のことだった。
 警察が川の底を浚うと、老若男女問わない遺体とともに彼女の母親と思わしき遺体が出てきたそうだ。思わしきということはつまり、体の上半分が見わけもつかないほど潰れていたから、指紋で照合するのがやっとだったからだそうだ。
 たぶん、あのセダンについていたペンキは、彼女の母親の血だったのだろう。そして、ドアの前に付いていたということは、彼女を助けるためにドアを開けようとしたところを、ケーブルに襲われてしまったということなのだろう。
 次いで、父親のことも聞いた。父親は今から数年前に、病気で亡くなっていたのだそうだ。だから、彼女は母親しか身寄りがなかった。
 なのに、その母親が目の前で死んだ。
 彼女に聞くことはもうできない。だが、彼女は一体何を考えていたのだろうか。それを思うと、私は夜も眠れなくなってしまった。
 それに、私は結局彼女を救うことができなかった。娘と同じ年頃で将来の夢を抱いていたあの時に、彼女は命を奪われた。私にもう少し力があれば、彼女を救うことができたかもしれない。警察のボートが到着するまでしがみつけていれば、彼女は死ななかったかもしれない。
 かもしれない、かもしれない。可能性が私を苛む。苛んで苛んで、私はもうまともではいられなくなってしまった。
 妻や子供はそんな私を支えてくれる。けれど、私は二人を見るたびに、彼女とその母親のことを思い出してしまう。文字を紡ぐたび、目を動かすたびに、彼女の面影が私の目の前をよぎる。
 私は今もあの橋にいるのだ。つりさげているケーブルが切れて子供を殺した私が地獄に落ちるのは、何時になるのだろう。

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ワード 2017年4月11日


恐怖と痛みを取り去り、人を自殺させる謎の『ワード』。それに遭遇した彼が書き遺した、真実と推測とは。

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 はじめは一人の男だった。
 彼は家の納屋で首を吊り、発見した家族に悲鳴を上げさせた。納屋の壁には、赤いペンキで遺書のようなものが描かれていた。ただ、遺書と異なる点を挙げるなら、支離滅裂で意味不明な文だったということだろう。
 もちろん、すぐに警察が来て現場検証や捜査を始めたが、その日のうちの結論は「自殺」ということだった。ロープも納屋にあったものだし、男は大した額ではないものの、返すのに時間がかかる額の借金を抱えていた。それを苦にして死んだのだ、と家族ならず警察もそう考えた。
 その翌日、男の家族は全員が車に乗り込み、近くの崖から身を投げた。数時間後、警察署では警官の一人が発狂して、自分の胸を拳銃で撃ちぬいた。それだけではない、ほかにも非番の警官から科学捜査班まで、何人もがその日のうちに命を絶った。
 またしても、家の車庫には赤いペンキで支離滅裂な文が書いてあった。胸を撃ち抜いた警官は、自らの血で支離滅裂な文……何度も繰り返すのはよくない、『ワード』という名前を付けようか。
 ともかく、警官は死にかけた体で力を振り絞り、自らの血で『ワード』を机に書いた。非番の警官はトマトジュースだったし、科学捜査班に至っては捜査に使う赤い染料で『ワード』を書いていたそうだ。ほかの人間たち、捜査にかかわった人間たち全員が、赤い何かで『ワード』を書いて、死んでいた。
 警察は当初、訳が分からずに混乱した。無理もない、こんな集団自殺を引き起こすものというと、カルトか何かだと考えるのが普通だろうから。
 思い悩んだ警察は『ワード』を暗号学者や言語学者に見せてみたそうだ。だが、その学者たちの見解はすべて、「よくわからない」だったらしい。
 そして、見た翌日に学者たちは『ワード』を書いて死んでいった。第一発見者たちである学生や警備員もまた、『ワード』を書いて亡くなった。
 いよいよ、警察の中で『ワード』が死を広めているなんて噂が立ち始めた。こうなると、噂はどんどん広がっていき、抑えきれなくなる。警察署や関係者の中だけで済まず、広がっていくのだ。
 ついには、ローカルニュース局が『ワード』をテレビで取り上げてしまった。それも、特番を作って「死を広げる!? 謎の『ワード』!」などという番組を大々的に報じてしまった。それも、『ワード』の本体付きで。
 その後のことは、言わなくてもわかるだろう。その番組を見た(視聴率が少なかったのは幸いかもしれないが、)人間が『ワード』を書いて死んだ。番組を作ったディレクターもキャスターも例外なくだ。
 収拾がつかなくなった警察は、ついに情報を公開し、『ワード』を見ないよう、『ワード』を広めないよう、公営放送や民放で呼びかけた。
 だが、彼らの働きむなしく、『ワード』は媒体を変えた。

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 次にSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスを媒体に『ワード』は広まり始めた。のちの警察の捜査によると、一番初めにSNSに載せたのは特に特徴もない社会人だったらしく、「そんなもので死ぬわけない云々」ということで載せたそうだ。
 しかし、彼もまた自殺した。それも『ワード』を不特定多数の人間に送りつけ、自らの血で地面に大きく『ワード』を書きなぐった後に。
 唯一救いだったのは、その時に『ワード』が変異しているということに気づいた人間が警察の中にいたことだ。
 その一人は『ワード』をいくつかの写真に分け、それぞれを決して一度に見ないという方法で、SNSに載っている写真と元々の『ワード』とを見比べることに成功した。また、彼は『ワード』の事実を、言語学者のような言葉の専門家ではなく、病理学者に見せた。
 というのも、病理学にはSIRモデルという便利なモデルがある。SIRモデルは集団NをS(健常者)、I(感染者)、R(回復者)というように分け、微分方程式を用いることで感染症が時間経過でどうなっていくのかというのを力学的モデルでシミュレートできるものだ。これを応用すると、SNS上で拡散するデマや情報が沈静化する速度や情報拡散の型によって、どのように拡散が変化するのかを調べることができる。
 そして、彼らは今わかっている事実から、モデルを製作してみた。
 結果は最悪だった。
 このままでは100日ほどで、全人類が感染して死滅することが判明してしまった。『ワード』は言語の制約を受けないため、全世界とつながるインターネットでは、容易に国を超えてしまうのだ。
 彼はそのシミュレーション結果を本部に持ち寄った。
 事態を重く見た本部は政府の危機対策本部へそれを持ち寄り、政府もまた『ワード』の規制に全力を挙げた。
 政府は『ワード』対策班を作り、抑止に勤しんだ。だが、SNSという新しい媒体で広がる伝染病を止める方法はほとんどなく、最終的には運営会社と掛け合うことで国内のSNSを利用できなくした。
 それに加え、現実で書かれた『ワード』の処理は困難を極めた。なにしろ、一目見ただけで感染するため(そのころ、『ワード』は新種の感染症とされていた)、現場に立ち入ることは難しかったのだ。
 だが、それも水やアルコールなどであらかじめ洗浄──つまり、バケツに入ったそれらを現場にぶちまけることだが──することで、『ワード』の効力は無くなった。一部分でも欠けてしまえば、『ワード』は感染力を失う。証拠を洗い流してしまうものの、すでに管轄は警察ではなく対NBC部隊に移っていたため、そこは大きな問題にはならなかった。
 それらの努力のおかげか、国内における『ワード』の感染は終息に向かっているように思えた。また、外国にも同じような事例は報告されていないとのことで、なんとか国内に抑え込めたようだった。

 数年後。『ワード』の脅威が去ったと考えた政府はSNSを解禁した。また、『ワード』対策班も解体された。
 だが、その見立ては間違いだったと言わざる得ない。
 『ワード』は変異していたのだ。それも最悪な変異を遂げていた。
 SNSが解禁してからすぐさま、『ワード』が世界全土、同時多発的に投稿され、拡散された。また、『ワード』はテキストだけではなく音声でも伝染するように変異していたのだ。そのため、インターネットやテレビのない家庭にもラジオや放送を通じて伝染し始めた。
 他にも、感染者の多くは大物コメンテーターや司会者で、さらには潜伏期間まで『ワード』は会得していた。
 つまり、高視聴率の番組に感染した司会者が出て、番組中にいきなり『ワード』を話し始めたかと思えば、どこからかもってきた刃物やボールペンで自らの命を絶つという映像が全世界で放映されたのだ。
 さらには、普通の感染症とは違って、感染者と非感染者の区別は付けられない。血液からホルモンレベルまで、死ぬまでは全く同じなのだ。そして、これが最も恐ろしいことだが──死んでも同じなのだ。
 痛みを感じたり命の危機を感じたりすると増えるはずのアドレナリンもβ-エンドルフィンも全く増えていない。つまり、彼らは痛みを感じずに死んでいる。
 これは『ワード』が痛みを遮断する効果があるということでもあり、死ぬことへの恐怖を無くしているということでもあった。
 ただ、それがわかったからと言って、伝染を止めることはできない。世界中でマスメディアを通して『ワード』に感染した人間たちは、『ワード』を広めた後に自らの命を絶つ。そして、それを繰り返す。
 人間にはもう、止めることはできなかった。それもそうだ、六次の隔たりが証明するように、これを6回繰り返せば人類は消滅するのだから。

 さて、ここまで私が書いてきたことはすべて真実だが、次は私の推測を話したいと思う。
 もちろん、だれが作ったのかなんてことはわからない。なにせ、私が最後にメディアに触れた時に動いていたラジオ局は一つ。そして、MCがわけのわからない言語を話し始めた時点で、私はラジオを破壊した。
 『ワード』を話し始める直前、MCは「世界人口の90%が死んだ」というようなことを言っていたと記憶している。また、私の周りの人間も続々と自殺していった。きっと90%というのは嘘でも何でもなく、事実だったのだろう。
 それだけ人口が減少した状態で事実究明などできはしない。
 だから、これは私の推測だ。『ワード』の正体だが、人間が言語を得たのは30万から40万年前だそうだ。きっと、その時に存在した何らかの『特殊な言語』だったのだと思う。つまり、私たちの脳に生まれた時からあらかじめ刷り込まれていた言語で、それを見た人間は死に対しての恐怖心と痛覚を失い、死へと駆り立てられるのだと思う。だから、どんな言語でも通用し、誰もが同じ物を書けたのだろう。それを悪意ある何者かかもしくは狂信者が掘り出し、使ってしまったのだろう。
 もちろん、すべて推測であり、事実ではない。これだけではなぜ『ワード』が進化したのか、その当時存在していないSNSを使うことを思いついたのか、その説明はできないからだ。

 現在、私は何とか『ワード』に触れることなく、この納屋にこもっているが、喪失感に打ちひしがれていることは否定しない。
 私は、自分が病理学の権威へ『ワード』を持ち込んだことも、『ワード』が進化することを見つけたことも、政府が規制のためにSNSを停止したことも間違いだとは考えていない。ただ、一つだけ考えてしまうのは、「もっと何かできなかったのか」だ。
 とはいえ、一人の男ができることなど限られている。『ワード』の第一感染者である、あの男でさえ、殺せたのは精々10人なのだから。何の力もない私に何ができるというのか。
 だから、私はこの罪を、この手紙を次の世代に擦り付ける。次の世代が来るならば……だが。
 人はみな生まれながらに罪を背負う。哲学者のサルトルはそれを『自由』だとしたが、私はそう思わない。
 私が思うに、罪とは『次の世代への継承』なのではないだろうか。それの贖罪のために、私たちには『ワード』が刷り込まれていたのではないか? そう考えてしまうのだ。
 人間であるがためには、罪を次の世代へ継承しなくてはならない。だが、それに耐えられない人間達は、神が用意していた『ワード』を使って贖罪を行うために近親者や人類を殺していったのではないのかと。
 つまり、彼らは人間であることを止めようとして、人間であるために必要な罪を放棄しようとして死んだのだ。ならば、私は人間であるがために死を選ぶ。『ワード』に犯されていない、自らの意志で死を選ぼう。
 どちらにせよ、もうここに食料はない。外に出れば、『ワード』が間違いなく目に入るだろう。納屋の目の前で私の妻は心臓を引きちぎって死んでいるのだから。
 ……すでに縄は納屋の梁に掛けてある。あとは、台に乗って首をかけるだけだ。

 ここまで読んでくれた、私の第一発見者は約束してほしい。必ず、『ワード』の正体と対処法を見つけることを。
 人間は軽い生き物だ。重い罪がなくては、自ら上へあがってしまう。

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