スパークリングホラー
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2017年11月26日


極寒の中、娘の誕生日に向かった彼は川に架かる橋の上で酷い渋滞にはまる。だが、その橋は車の重みに耐えきれず……。

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 あの日は今でも覚えている。忘れようにも、忘れられないあの日のことを。
 私がこのことを綴る意味は治療の一種なのだそうだ。正直、効果があるのか懐疑的なのだが……カウンセラーが言うのだから、そうなのだろう。
 あれは寒い、寒い夜のことだった。身を切るような寒さ……いや、切られたのは身だけではなかったのだが──。

 厚い強化ガラスに阻まれても聞こえる、けたたましいクラクションがそこら中で鳴り響いていた。私は騒音と渋滞からくる苛立ち、約束に間に合わないのではないかと言う焦り、両方に苛まれて車のハンドルを指で叩いていたのを覚えている。
『──町では氷点下20℃を記録し、地元の水道局は水道管の凍結防止のために、水を流し続けることを推奨しています。また、電線への着氷により停電した地域への支援を行うと、政府は発表しました』
 ラジオからニュースが流れ、私はラジオの時計を見た。娘の誕生パーティまで、あと30分ほどしかない。この橋から家までは、運が良くても車で20分はかかるというのに。
「勘弁してくれよ……」
 ハンドルを叩くテンポが上がっていった。この橋がこんな風に渋滞するなんて珍しかった。ラジオ曰く、橋の出口で玉突き事故が起きて、その交通整理で渋滞しているとのことらしい。
「にしても、動かないな」
 回転する赤色灯がそこら中を赤く染め、私は車の暖房を強めた。
 その時、聞いたこともないような音が上から聞こえた。まるで──そんなことできる人間がいればの話だが──電線を両方から引っ張って、引きちぎったかのような音。
 風切り音。金属がひしゃげ、ガラスが飛び散る音。盗難警報。そして、悲鳴。
 シートに座ったまま、素早く辺りを見回した。
 すると、ドアミラーに信じられないものが見えた。自分の車からそう遠くないところに、何かに押しつぶされた銀色のセダンがあったのだ。それも押しつぶしたものは未だに左右に揺れている太い紐、橋を支える重要なケーブルの一本だった。
 その光景はあまりにも現実離れしていて、呆然と見つめるだけだった。
 また、あの引きちぎったような音が聞こえて音の方に目を向けると、黒いバンがケーブルとぶつかった勢いで高欄から飛び出したのが見えた。
『速報です。マーキュリーブリッジで、ケーブルが切れたという報告が入りました。近隣の住民及び橋の上にいる方は、すぐに退避してください。崩落の恐れがあります』
 ラジオから緊張したMCの声が聞こえ、それと同時に、またしてもケーブルが切れる音が聞こえた。
──逃げないと。
 そう思った私は先程とは打って変わって素早くドアを開け、出口に向かって走った。今思えば、娘のプレゼントを車の中に置きっぱなしだった。とはいえ、あの時はそんなことを考えている暇もなかったのだが。
 他の車から降りた人たちも出口に向かって走っていた。ある人は子供を抱きかかえながら、ある人は妻と思わしき女性の手を取りながら。
 橋の上は阿鼻叫喚の様相を呈していた。悲鳴がこだまし、ともかく逃げることだけが一番で、暗くてよく見えないものの所々に水たまりのような何かが見えた。
 その時、ケーブルの切れる音が連続して聞こえ、私の数メートル先の一団に直撃した。この時、出来れば一度も聞きたくなかった『ある音』を私の耳は初めて聞いた。
 その音と金属がひしゃげる音、悲鳴が入り混じって耳の中で反響し、私は吐き気を催して足を止めた。
 間髪入れず、後ろから悲鳴と車がぶつかり合う音が聞こえてきた。振り向くと、目を見開いて半狂乱になった中年の男が、SUVのハンドルを握り締めて渋滞の中を突き進んでいた。車のバンパーは見えず、ボンネットには赤黒くペイントがされ、凹んでいたように見えた。
 その車がほかの車にぶつかるたびに、また聞きたくもない音が耳に届き、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 すると、SUVの前方にあるアスファルトが、岩の割れるような音とともに盛り上がったのが見えた。だが、車はそれに気づかないのか間に合わなかったのか……真正面からぶつかった。空しくタイヤが空回りする音とともに、ぐるぐると回転しながら高欄から飛び出して闇に消えてしまった。
 その時、私の耳に「助けて」という声とガラスと叩くような音が聞こえたような気がした。
 辺りを見回すと、そう離れていないセダンの後部座席に娘と同じ年頃の少女が閉じ込められているのが見えた。そのセダンはいつの間にか切れていたケーブルに弾き飛ばされた自動車にぶつかられたようで、側面が凹んで彼女がいるドアの下には滴ってインクだまりが出来るほどべっとりと赤黒いペンキが塗られていた。
 駆け寄ると、彼女がリアガラスを平手でたたいていた。私はトランクルームのドアノブを引っ張ったが、びくともしなかった。ドアを開ける中の機構が壊れてしまったのだろう、これではガラスを割る以外に方法はない。
「少し待っていてくれ」
 以前、テレビで強化ガラスは尖ったもので割れると聞いたことがあった。私は崩落したアスファルトの近くへ走り、欲しいものをすぐに見つけた。少し大きめの、鋭く尖ったアスファルトの欠片だ。
 それを手に持ち、セダンに駆け寄り叫んだ。
「伏せてろ」
 リアガラスに尖った欠片をたたきつけた。二回叩いただけで、ガラスは砕け散った。
「出るんだ、急げ」
 彼女が手を伸ばす。私は手をしっかり握り、引きずり出した。二人が無様に橋の上に転がり落ちたが、私は橋の軋む音が少しずつひどくなる事の方が不安だった。この音が本格的に崩落する予兆なのは間違いないからだ。
 荒い息遣いのまま、彼女が途切れ途切れに「ありがとう、おじさん」と軋む音にかき消されそうなほど小さな声で呟く。私が頷くのも忘れて「立てるかい?」と早口で聞くと、彼女は頷いた。
「よし、早く逃げるんだ。時間がない」
「うん」
 彼女が立ち上がるのに手を貸し、二人で手を繋いだまま橋の出口に向かって走った。周りにはほとんど人がおらず、けたたましい盗難警報器の音と橋が軋んだりこすれたりする耳障りな音だけが響いていた。

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 しばらく走ってパトカーや救急車が止まっている出口が見えてきたころ、今まで聞いたことの無いような音が聞こえ、ふと足場が無くなったか自分の体が浮いたような感じに襲われた。空っぽの胃から胃液が口にせりあがってくるような──思えば、あの時はのどの渇きも忘れていた──感覚、陰嚢がせりあがるあの感覚、その二つに襲われた。何とか地に足をつけようと力を入れると、足が宙を切る。嫌な予感がして下を見ると、橋桁が斜めになっていた。
 振り向くと、橋は黒い水を湛えた極寒の地獄に餌を与える漏斗のように、川に落ちていた。
 橋桁に彼女と一緒にたたきつけられた。その衝撃で手を放してしまいそうになったが、私は彼女の手を放すわけにはいかなかった。橋の下に待ち構えているのは地獄だ。私の娘と同じような年頃のこの子を、地獄に送り込むわけにはいかなかった。
 悲鳴が聞こえて彼女の方を見ると、寒さのせいで突っ張っていた口の端が切れて、血がにじんでいた。背中がアスファルトとこすれ合うのを感じ、自分が少しずつ滑り落ちていると気づいて近くの車のホイールに指をかけたが、あの時は車も一緒に滑り落ちていたからなのだろう、いくら力を入れても私たちは滑り落ちていった。川まであと十何メートルもなかった。
 その時、橋桁にできた割れ目を見つけ、何とか手をかけた。これでようやっと、滑り落ちることはなくなった。殆ど時間を置かず、先ほどまでしがみついていた車は派手な水しぶきを上げて、川へと滑り落ちていった。
 だが、寒さと二人分の重さを支える疲労で、私の腕は悲鳴を上げ始めた。
 このままでは、そう時間もかからず二人で極寒の川に滑り込むことになるだろう。しかし手を放せば、もう片手を使って自分の体を持ち上げれば、助かるかもしれない。
 だが、彼女を殺すことになる。
 逡巡している間に、指が一本、また一本と私の意思を拒み始めたのを感じた。
 今動く指は二本だけ。もし不意に放してしまえば、息も吸えずに冷たい水の中に入ることになり、おぼれ死んでしまうと考えていたのを覚えている。
 私は覚悟を決め、彼女に向かって叫んだ。
「息を吸い込んで、止めるんだ」
 彼女が息を吸い込んで、口を閉じる。それを見て、私も同じように肺一杯に冷たい空気を吸い込んだ。その空気はあまりにも冷たく、喉が切れそうなほどだった。
 そして、私は力を抜いた。

 結局、私たちが警察のボートによって水から引き上げられたのは、二人して川に飛び込んでから15分後だったそうだ。私たちは低体温症をおこしていて、すぐさま救急搬送されて手当てを受けた。だが、手当の甲斐なく、彼女は助からなかった。彼女の体にとってはあまりにも冷たすぎる川の水は、彼女を地獄に引きずり込んでしまったのだった。
 今も彼女の最後の顔を、ポートフォリオを描けるくらい覚えている。しかし、彼女のあの顔を見ることはもうできないのだ。
 私を苛むものはまだある。回復してから、私は警察に簡単な事情聴取を受けた。そこで聞いたのは、彼女の親のことだった。
 警察が川の底を浚うと、老若男女問わない遺体とともに彼女の母親と思わしき遺体が出てきたそうだ。思わしきということはつまり、体の上半分が見わけもつかないほど潰れていたから、指紋で照合するのがやっとだったからだそうだ。
 たぶん、あのセダンについていたペンキは、彼女の母親の血だったのだろう。そして、ドアの前に付いていたということは、彼女を助けるためにドアを開けようとしたところを、ケーブルに襲われてしまったということなのだろう。
 次いで、父親のことも聞いた。父親は今から数年前に、病気で亡くなっていたのだそうだ。だから、彼女は母親しか身寄りがなかった。
 なのに、その母親が目の前で死んだ。
 彼女に聞くことはもうできない。だが、彼女は一体何を考えていたのだろうか。それを思うと、私は夜も眠れなくなってしまった。
 それに、私は結局彼女を救うことができなかった。娘と同じ年頃で将来の夢を抱いていたあの時に、彼女は命を奪われた。私にもう少し力があれば、彼女を救うことができたかもしれない。警察のボートが到着するまでしがみつけていれば、彼女は死ななかったかもしれない。
 かもしれない、かもしれない。可能性が私を苛む。苛んで苛んで、私はもうまともではいられなくなってしまった。
 妻や子供はそんな私を支えてくれる。けれど、私は二人を見るたびに、彼女とその母親のことを思い出してしまう。文字を紡ぐたび、目を動かすたびに、彼女の面影が私の目の前をよぎる。
 私は今もあの橋にいるのだ。つりさげているケーブルが切れて子供を殺した私が地獄に落ちるのは、何時になるのだろう。

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