スパークリングホラー
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留守番電話 2018年3月25日


倉庫を整理しているときに見つけた、古い留守電録音機能付き固定電話。好奇心から録音データを再生してみるが……。

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 十月二十日。私は父の代から使わなくなったものを色々と突っ込んだ挙句に収拾がつかなくなり、戸を固く閉ざすことで見て見ぬふりに成功した倉庫の鍵を、封じていた錠前に差し込む。赤茶けた粉とともに古い南京錠が外れ、シャッターに手をかけて上へ押し上げると、耳障りな音とともに家族代々の罪──いささか大げさすぎるだろうか──と相見える。
 中には大量のガラクタが散らばっていた。中学生の半ばくらいで部活をやめた結果、日の目を浴びなくなった凸凹のアルミ製バット。小学生くらいまで乗っていた古く小さな自転車。大枚はたいて父が購入したものの使い方がわからず、ろくに触れもしなかったデスクトップパソコン。そのほか、シミやシバンムシが跋扈していると思われる日焼けしていない書籍や何が入っているかわからない段ボール箱などなど、家族の歴史の枝葉末節が積み重なっていた。
「懐かしいな」
 私が中に踏み込むと、ほこりっぽい臭いと古い紙の匂いが鼻を覆う。袖で口をふさいで、どこから手を付けようかと逡巡していると、仕事場が大阪のおかげで標準語と関西弁が中途半端に入り混じった──俗に言う似非関西弁だ──弟の声が後ろから聞こえてきた。
「兄ちゃん、こんなぐちゃぐちゃなもん放置してたんか?」
 流石に私一人では、こんな混沌としたものを片付けられないとわかっていたので、半ば巻き込む形で弟を呼ぶことにしたのだった。尤も、お礼としてこっちにいる間に飯をおごると言ったら、弟は喜んでいたのだが。
「マスク、あったか?」
「ほれ」すでにマスクを着け軍手をはめている弟が、私に紙マスクを差し出す。「それでどこから?」
 私がマスクを着けて棚の上を指さすと、弟は黙って棚の上の段ボール箱──小さな色々なものが蠢くのが見えたのは光の錯覚だろう──を床におろす。ふたには『雑貨』とフェルトペンで書かれていた。段ボール箱を持ち上げた私はそれを、倉庫の外に運び出した。
 
 何度もその作業を繰り返し、倉庫がほとんど空になった頃。弟の「兄ちゃん、これみてみい」という声が、外で捨てるものと保管するものを分別していた私の耳に届く。振り向くと、中くらいの大きさの段ボール箱を抱えている弟がいた。『みかん』と印刷されている箱だが、中身は違っていて欲しい。
「なんだ?」
「固定電話や。最近見いひんからな」
 そういって弟が段ボール箱を外に出して地面に置く。中を開けてみると、確かに昔使っていた記憶のある固定電話だった。使っていたといっても買ってすぐに壊れたか何かで、父親が倉庫にしまい込んでしまったものだったのだが。
「今じゃ、スマフォがありゃ何とでもなる。これも珍しいもんやないか」
「まあな」
 弟が思いついたかのように「せや、コンセント繋いだら留守電が録音されてたりせんかな?」と私に聞いてくる。こういう無駄な思い付きは弟の専売特許だ。
「聞いてどうする? というか、残っている保証もないだろう」
「まあまあ、物は試しってやっちゃ。もしかしたら、死んだお袋の声でも残っとるかも知らん」
 私はため息をついた。何年も一緒に過ごしてきて身に染みていることだが、弟は一度決めたらやるまでごね続ける。多分、今回も例外ではない。
「わかったわかった。その代わり、倉庫の整理が終わってからな」
「もちろん。さあ、ぱっぱと片付けんよ」

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 夕闇が差し込むころになって、ようやっと倉庫の整理は終わった。結局ほとんどの物を捨てることとなり、そこには思い出が多少なりとある金属バットや自転車、デスクトップパソコンも含まれていた。予想通り虫の巣窟と化していた本は開くことも憚られたため、とりあえず雨のあたらないところに保管して、資源回収の日にまとめて捨てることになった。
 というわけで、家のコンセントに──幸か不幸か、電源コードから子機まで必要なものはすべて段ボール箱に入っていた──古い固定電話のACアダプターを接続すると、赤い留守電ランプが点滅し始める。子供のころの記憶を掘り返してみると、これは留守電が録音されているというサインだったはずだ。
「お、録音されとるみたいや」
 ご機嫌な声の弟が留守電ボタンを押すと、耳障りな電子音と〈八月二十一日〉という合成音声のアナウンスの後に『聡、おばあちゃんだよ。電話したのだけれど、忙しいみたいだね。あとでかけなおすよ』というゆがんだ声がスピーカーから流れ出てきた。
「聡やから……父方のばあちゃんやね」
「ばあちゃんか。懐かしいなあ」
 思わず言葉が口をつく。父方の祖母は私が十四歳、弟が十歳ころにひき逃げ事故で三日間ほど生死をさまよった後に、多臓器不全で亡くなった。遠くに住んでいてあまり会えなかったのもあって思い出は多くないが、会うときにはいつも親切にしてくれたので、葬式では大泣きしたのを覚えている。たしかあの日は、九月二十二日だったはずだ。
 また、スピーカーから電子音が聞こえてくる。
『〈九月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。孫たちは元気かい? ばあちゃん、体が痛くてねえ。また、暇を見て電話をおくれ』
「ばあちゃん、結構な頻度で電話かけてきていたんだな」
 私が懐かしむようにつぶやくと、弟も同意するように頷いた。
「せやなあ。あんまり覚え……」突然、弟の顔が青ざめる。「……まてや兄ちゃん。ばあちゃん、事故にあったの何月何日やった?」
 突然聞かれ、私はしどろもどろになりながら「え? 九月十九日だろ?」と答える。
「今の録音があったの、九月二十日やったぞ? おかしいと思わんか?」
 そう言われれば、確かにおかしい。事故があった後、祖母は意識不明だったのだから電話など掛けられるわけもない。だが、何年かというアナウンスがないことを考えると、もしかしたら事故に遭う前年の録音かもしれない。
「待て待て。何年の九月十九日かわからないだろ? もしかしたら、事故に遭う前の年かもしれないじゃないか」
「俺もあんまり記憶力がいいとは言えん方や。でもな、この電話買ったんは俺が九歳の時だったんは覚えとる。誕生日の日の前日にこの電話買って、翌日俺の誕生日プレゼントを買ったんやから。そいで、でけえ買い物を二回もしたのはあれが最初で最後なんや。よう考えてみ、俺の誕生日はいつや」
「十一月二十日……」
 サアッっという、血の気の引く音が耳の奥で聞こえる。その時、またしても電子音が聞こえてきた。
『〈九月二十三日〉聡、おばあちゃんだよ。妙に前が暗くてねえ、目も見えなくなったのかねえ。聡の方はどうだい? たまには電話してきておくれ』
 そうだ、確かに弟の言う通りだ、この電話はおかしい。
 あの時のことを思い出す。新しく買った電話を一年も使わずに倉庫へ仕舞った父の行動がおかしいと、当時中学生だった私は思っていた。それで仕舞い込んだ後の父を問い詰めようとしたものの、あまりにも顔が青ざめていたせいで尋ねることができなかったのだ。
「どうするんや兄ちゃん。コンセント抜くか」
 ただでさえ早い弟の口調がさらに早くなる。だが、私は怖いもの見たさと何が起きるかわからない恐怖が競り合った結果、「いや、最後まで聞くぞ」と呟いた。
「正気か? 何が起きるかわかったもんやない」
「あんな汚い倉庫にしまわれていたんだ、機械が壊れたっておかしくない。それにただの録音なんだ、何も起きはしないさ」正直な話、全くその言葉に自信はなく、声も震えていただろう。
 それでも、怖いもの見たさという名の好奇心が私の背中を押していた。
『〈十月十三日〉聡、おばあちゃんだよ。最近、電話くれなくなったねえ。会いに行ってもいいかい、都合の付く日を教えておくれよ』
 そのメッセージを聞いた後、弟はため息をついて「……なあ、兄ちゃん。父ちゃんが倉庫に電話仕舞ったん、いつやったっけ。確か、俺の誕生日には変わっとったよな」と尋ねる。
 私はというと、以前読んだW・W・ジェイコブズの『猿の手』を思い出していた。あれでは、死者が家に訪ねてきたではないか。
 何も答えずにいると、耳障りな電子音が、まるで誰かの来訪を知らせるチャイムのようにスピーカーから鳴り響く。私は思わず身を固め、出てくるメッセージを待ち受けた。
『〈十月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。お前たちの顔がみたくなったから、今日お前の家に──』
 その時、突然立ち上がった弟が固定電話を持ち上げ、勢いよく床にたたきつけた。ACアダプターが外れ、強い力で叩きつけられた電話機はバラバラに砕け散る。当然、電話機は沈黙した。
 突拍子もない弟の行動に、素っ頓狂な声で「いきなり何を?」と聞くと、弟がみたこともないような顔で私をにらみつけてきた。
「兄ちゃん、俺はあんまり心霊だとかオカルトだとかは信じへん。でもな、今回は物がちゃう。これはやらせだとかそういうもんやない、あかん奴や」その気迫に押された私は黙り込んでしまった。
 突然、段ボール箱に入っていた機能していないはずの子機に着信が入る。
 誰が出るか、予想はできていた。だからこそ、私は恐る恐るスピーカーを耳に当てた。
「もしもし」
『里麻かい?』ひずんではいたものの、スピーカーの向こうから聞こえてくる声は紛れもなく、父方の祖母の声だった。『大きくなったねえ、おばあちゃんだよ。さっきも言ったんだけどねえ、今からそっちに行くからねえ』
 そういって、電話が切れる。
 次は私が弟に叫ぶ番だった。
「玄関の鍵を閉めろ」
 叫ぶと同時に、玄関からみょうに湿ったようなドアをたたく音が響いてきた。思わず、私たち二人は顔を見合わせる。
「里麻、一馬、おばあちゃんだよ。開けておくれ」
 そのはっきりとした声は、玄関のドアの向こうから、聞こえてきた。

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ダブル【R-15】


魅力的な男に好意を寄せる女性。しかし男の裏の顔は凄惨を極める、恐ろしい顔だった……。

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【注意】この小説には過激な表現・暴力表現などが含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 大講堂に入ると、いつも通りあの人が前の方の席に座ってノートを開いているのが見えた。私だって来るのが遅いわけではないはずなのに、あの人はいつも私よりも早く椅子に座っている。
「おはよう」
 後ろから声をかけると彼が体を捻って私のほうに向きなおる。彼の低く、心に響くような「やあ、おはよう」という声が耳に届く。私はというと、そのなんともないやりとりがうれしくて、舞い上がるような気持ちを抑えながら彼の左隣の席に座った。
 あの人は群を抜いてかっこいいとも、アイドルのように整っているとも言えない。けれど、たくましい顔の骨格、ほんの少しだけ生やしている髭、少し縮れた髪の毛を軽くまとめただけの髪型。少し荒々しい感じを覚える外見は、やさしく開かれた目とすらりと伸びた鼻のおかげで中和し合い、とても魅力的だ。私の知り合いに見せたら、大抵の人がかっこいいというくらいには。
 いいところはそれだけじゃない。なにより気が利いて、やさしい人。自分でもくだらないと思うようなことを聞いても笑いながら教えてくれて、何度聞いても怒らない。あの人が彼氏だったら、毎日がとても楽しいだろう。
 ふと、彼の右隣の席に目を向ける。そこはいつも私の友人の指定席なのだけれど、まだ誰も座っていない。
 そういえば、昨日から彼女の姿を見ていない。よく授業をサボる子ではあったものの──そのせいでいつもノートを見せていた──二日連続でサボるというのはあまり見たことがなかった。あまりに続くようなら一度部屋を訪ねた方がいいかもしれない、そんなことをぼんやり考えていると、ドアを開けて教授が入ってきて教壇に荷物を置いた。
 あわててノートを開く。そして、先ほど考えていたことを頭の隅に追いやって、授業が始まるのを待った。
 
 空気が冷たい。空腹も相まって、宙づりになっている自分の裸体から冷たい空気へ、生きる気力が吸われていくような錯覚に陥る。
 金属パイプを挟むように縛られている両腕を、体重をかけて力いっぱい引っ張ってみる。手錠と金属がこすりあうけたたましい音こそ聞こえてくるものの、音が鳴るだけで外れそうもない。何回か繰り返していると、骨同士がこすれ合うような耳障りな音とともに手首から肩まで激痛が走った。
 痛みに耐えながら足を引っ張ってみるものの、なにか重いものが縛り付けられているらしく、何度か試してみたものの足は動きそうになかった。
 引っ張るのをやめて、叫んでみた。色々なものが混じってひどい悪臭の猿ぐつわと口に貼られたガムテープのせいでくぐもった、「誰か助けて!」という声は誰にも聞こえていないのか、暗く湿った地下室にくる人は誰もいない。
 その時だった。地下室のドアが開き、階段に光が差し込む。一抹の希望を胸に光へ目を向ける。ドアの前に立つ人影と地下室の闇が、光を縦に分割するかのように黒い仕切りを造っていた。
 精いっぱい叫んで、痛みを無視して何度かパイプを打ち鳴らす。人影が階段を下りる。電気がともり、乱雑な地下室の様相を映し出す。
 階段を下りてきたのはあの男だった。大学の同級生で、自分と仲がいいと思い込んでいた男。
 そうだ、一昨日のことだ。「家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」という誘いに乗らなければ、私はこんな目に合わなかった。あの時はデートの誘いに舞い上がっていたけれど、今は自分の不用心さに腹が立つ。
「たくましいな」
 男がぞっとするような低い声で私に話しかけながら、縛り付けられている私の前に立つ。タマを潰してやろうと足を振りかぶったけれど、動かないのを思い出した。
「あまり暴れないでくれ。掃除が大変なんだ」
 そういって男が近づいてくる。私がにらみつけると突然、不機嫌そうな顔になって腹を殴りつける。息が詰まるような感覚。少し遅れて、鈍くのしかかるような痛みが背筋からじわりじわりと体中へ広がる。空っぽの胃から出てきた胃液が舌の根にこびりついて唾液があふれ、猿ぐつわに染み込む。
 もう一発。男は私の目を見ない。容赦ない暴力が私を襲う。血の味が口に広がる。視界が暗くなる。
「おい、起きろよ」
 男が私の体を揺さぶる。けれど、闇に向かう流れに自分の体を横たえてしまいたかった。このまま目が覚めなければ、この地獄から逃げ出すことができるのに。闇に向かってしまえば、嫌な現実から逃げ出すことができるのに。
 私は自分の体を流れるままに任せようと、力を抜いた。
 その時、氷水を全身に浴びて一気に現実へ引き戻されたと同時に希望が打ち砕かれる。顔を上げると、目の前に空のバケツを持った男が立っていた。体を震えが駆け巡る。
「寝るんじゃねえ」
 空のバケツで私を殴りつける。頬に鋭い痛みが走る。
 男は顎の下に手を差し込み、項垂れている頭を持ち上げた。冷たい目をした男と目が合う。
「まだ、これからだからな」
 その顔は気味悪く笑っていた。

 翌日。いつも通りに購買で昼食のパンとコーヒーを買っていると、彼と彼の友人が言い争っているのが聞こえてきた。
 思わず耳をそばだてる。どうも、彼が友人へ貸したノートの内容がめちゃくちゃだったせいで、試験が散々だったらしい。
「お前のせいで試験に落ちたんだぞ、どうしてくれる」
 彼の友人が激しい口調で彼を責め立てる。すると、彼は微笑みながら「ノートをまともに取らなかったから悪いんだ。勉強ができなかった俺の身にもなってくれよ」と言い返す。
 その言葉が逆鱗に触れたらしく、彼の友人は「絶交だ」と叫びながら机を殴りつけて席を立ち、どこかへと行ってしまった。
 近寄ると、彼は私が手に持っていた袋を見て、先ほどと変わらない顔で「昼ご飯?」と尋ねる。
「うん。そこ、座っていい?」
 彼の友人が座っていた席を指さすと、彼は「いやいや、あいつが座った席なんて」と彼の隣を指さした。隣に座ると、彼は私を見ながら肩をすくめた。
「全く。ひどい言いがかりだとは思わないか?」
 きっと彼は先ほど話していたことを話しているのだろう。そう考えて、「そうかもしれないね」と答える。
「言われたからそうしただけで、見返りも何も求めなかったんだ。それに人間って、間違えるのが普通だろう? 間違えたことを責め立てられても、何もできないと思わないか?」
 彼の言うことも間違っていない。誰だって──私自身も含め──間違ってしまうものだし、彼が善意で貸したのだというのも事実だ。だからこそ、責められる筋合いはないということなのだろう。
 私が頷くと、彼は「わかってくれると思ったよ」と私の目を見る。まるで鋭い視線に射抜かれたような、身震いに近いぞわぞわする感覚が私の背筋を襲う。それは人の目を見てきて今まで体験したことのない、不思議な感覚だった。
 その時、彼がタイミング悪く腕時計に目を遣り、「あ、申し込みに行かないと」と椅子から立ち上がる。隣からいなくなってしまうという残念な気持ちを表に出さないようにしながら、「それじゃあ、またね」と声を絞り出した。
「じゃ。楽しんで」
 そういって、突然肩を軽く触る。不思議と、不快感はなかった。

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 もう、どうでもよくなってきた。震えもずいぶん前に止まってしまって、息をするのもつらくなってきた。今がいつなのかもわからない。誰か、お父さんかお母さんが、私を探し出してくれるだろうか。
 その時、顔に激痛が走る。
 落ち込んでいた意識がいきなり浮かび上がり、溺れかけた人が水面に顔を出した時のように、息を深く吸い込む。
「おい、まだ大丈夫だろ」
 あいつの声が聞こえる。顎の下に手を入れられて、顔が持ち上げられる。二度と見たくなかったあいつの顔が、目の前にあった。
「前は一日半も持たなかったんだ。お前なら、二日くらい持つだろ」
 腹にパンチが飛んでくる。もう染み込む余地もない猿ぐつわに胃液がまとわりついて、口の中を苦いような酸っぱいような味が満たす。もう、出てくる唾液は枯れていた。
「悲鳴は良かったが、体力がなあ……」わき腹に一撃を食らい、思わず息が詰まる。「そういえば、どんなふうに叫ぶんだ?」
 あいつが顎から手を外し、乱暴にガムテープを引き剥がして私の口に噛ませていた猿ぐつわを取りながら「うへえ、見ろよこれ」と嘲笑する。すかさず痛む腹に精一杯の力を込めて、助けを呼ぶために叫んだけれど、あいつはにやにや笑っていた。
「ここは空き家で近くに家はないんだ。誰も来ねえよ」またしても腹に一撃を食らい、制御できないうめき声が口から漏れ出す。「へえ、カエルのつぶれたような声だな」
 このままでは確実に私は死ぬ。そう思って反射的に足を動かそうとしたけれど、縛られているのを思い出す。ついでに吊るされているせいで、腕もまともに動かすことができないことも。
 なんとか働かない頭で考える。それで、一つだけ抵抗する方法を思いついた。
「本当根性あるよな」
 あいつがまた顎の下に手を入れようと手を伸ばす。
──今だ。
 あいつの手の動きをとらえ、私は首を伸ばして思いっきりかみついた。
 安っぽい牛肉のような筋張った食感と血の味が口の中に広がる。あいつの大きく開かれた口から悪魔のような悲鳴が聞こえてくる。
 脛を強か蹴りつけられ、痛みで手を口から放す。見ると、あいつの右手にはっきりとした歯型が刻まれていて、血が噛み跡から肘にかけて黒い筋を作っていた。
「この、クソアマ!」
 膝蹴りが脇腹にあたり、骨の折れる音が聞こえる。ほぼ同時に、今まで感じてきた痛みをすべて足したよりもひどいような痛みが体をかけぬけ、息ができなくなる。次いで左頬に拳が当たって、目の前に火花が飛んで視界が白む。
 ぼやけた頭をなんとか振る。その時、神経を焼くような痛みが左胸から広がって体中を駆け巡り、白んでいた視界が像を結ぶ。
 目を落とすと、裸の左胸にナイフが突き立っていて、その傷口からどくどくと赤黒い液体が噴き出していた。
 目が離せない。
「あ……ああ……」
 無意識に声が出た。
 血が噴き出す度に体温が失われ、命が流れ出すのを感じていた。
 それと同時に、私の意識もけずりとられていった。

 講堂に入ると、右手に包帯をした彼が授業の準備をしていた。
 おもわず早足になって、いつもの席に向かう。すると彼は、怪我しているのにもかかわらず「やあ、おはよう」と何もなかったかのように声をかけてくる。
「どうしたのその怪我?」
「ん?」彼が自分の右手を振る。「ああ、実家で飼っているペットに噛まれてね。全く、どこで躾を間違えたんだろうね」
 気が気でないまま席に座って「大丈夫なの?」と聞くと、彼は「心配しないでいいよ」と言って微笑んだ。
「そうならいいけど……」
「あ、そうだ」彼が思い出したように私のほうを見る。「今日の夜、暇かな?」
 突然変えられた話題に何とかついていこうと、頭の中を探る。特に予定はなかったはずだ。
「うん、特に何もないけど」
 そういうと、彼が珍しく首をかしげて私の目を見据えた。
「じゃあ、無理ならいいんだけどさ。家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」

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