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ワード 2017年4月11日


恐怖と痛みを取り去り、人を自殺させる謎の『ワード』。それに遭遇した彼が書き遺した、真実と推測とは。

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 はじめは一人の男だった。
 彼は家の納屋で首を吊り、発見した家族に悲鳴を上げさせた。納屋の壁には、赤いペンキで遺書のようなものが描かれていた。ただ、遺書と異なる点を挙げるなら、支離滅裂で意味不明な文だったということだろう。
 もちろん、すぐに警察が来て現場検証や捜査を始めたが、その日のうちの結論は「自殺」ということだった。ロープも納屋にあったものだし、男は大した額ではないものの、返すのに時間がかかる額の借金を抱えていた。それを苦にして死んだのだ、と家族ならず警察もそう考えた。
 その翌日、男の家族は全員が車に乗り込み、近くの崖から身を投げた。数時間後、警察署では警官の一人が発狂して、自分の胸を拳銃で撃ちぬいた。それだけではない、ほかにも非番の警官から科学捜査班まで、何人もがその日のうちに命を絶った。
 またしても、家の車庫には赤いペンキで支離滅裂な文が書いてあった。胸を撃ち抜いた警官は、自らの血で支離滅裂な文……何度も繰り返すのはよくない、『ワード』という名前を付けようか。
 ともかく、警官は死にかけた体で力を振り絞り、自らの血で『ワード』を机に書いた。非番の警官はトマトジュースだったし、科学捜査班に至っては捜査に使う赤い染料で『ワード』を書いていたそうだ。ほかの人間たち、捜査にかかわった人間たち全員が、赤い何かで『ワード』を書いて、死んでいた。
 警察は当初、訳が分からずに混乱した。無理もない、こんな集団自殺を引き起こすものというと、カルトか何かだと考えるのが普通だろうから。
 思い悩んだ警察は『ワード』を暗号学者や言語学者に見せてみたそうだ。だが、その学者たちの見解はすべて、「よくわからない」だったらしい。
 そして、見た翌日に学者たちは『ワード』を書いて死んでいった。第一発見者たちである学生や警備員もまた、『ワード』を書いて亡くなった。
 いよいよ、警察の中で『ワード』が死を広めているなんて噂が立ち始めた。こうなると、噂はどんどん広がっていき、抑えきれなくなる。警察署や関係者の中だけで済まず、広がっていくのだ。
 ついには、ローカルニュース局が『ワード』をテレビで取り上げてしまった。それも、特番を作って「死を広げる!? 謎の『ワード』!」などという番組を大々的に報じてしまった。それも、『ワード』の本体付きで。
 その後のことは、言わなくてもわかるだろう。その番組を見た(視聴率が少なかったのは幸いかもしれないが、)人間が『ワード』を書いて死んだ。番組を作ったディレクターもキャスターも例外なくだ。
 収拾がつかなくなった警察は、ついに情報を公開し、『ワード』を見ないよう、『ワード』を広めないよう、公営放送や民放で呼びかけた。
 だが、彼らの働きむなしく、『ワード』は媒体を変えた。

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 次にSNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービスを媒体に『ワード』は広まり始めた。のちの警察の捜査によると、一番初めにSNSに載せたのは特に特徴もない社会人だったらしく、「そんなもので死ぬわけない云々」ということで載せたそうだ。
 しかし、彼もまた自殺した。それも『ワード』を不特定多数の人間に送りつけ、自らの血で地面に大きく『ワード』を書きなぐった後に。
 唯一救いだったのは、その時に『ワード』が変異しているということに気づいた人間が警察の中にいたことだ。
 その一人は『ワード』をいくつかの写真に分け、それぞれを決して一度に見ないという方法で、SNSに載っている写真と元々の『ワード』とを見比べることに成功した。また、彼は『ワード』の事実を、言語学者のような言葉の専門家ではなく、病理学者に見せた。
 というのも、病理学にはSIRモデルという便利なモデルがある。SIRモデルは集団NをS(健常者)、I(感染者)、R(回復者)というように分け、微分方程式を用いることで感染症が時間経過でどうなっていくのかというのを力学的モデルでシミュレートできるものだ。これを応用すると、SNS上で拡散するデマや情報が沈静化する速度や情報拡散の型によって、どのように拡散が変化するのかを調べることができる。
 そして、彼らは今わかっている事実から、モデルを製作してみた。
 結果は最悪だった。
 このままでは100日ほどで、全人類が感染して死滅することが判明してしまった。『ワード』は言語の制約を受けないため、全世界とつながるインターネットでは、容易に国を超えてしまうのだ。
 彼はそのシミュレーション結果を本部に持ち寄った。
 事態を重く見た本部は政府の危機対策本部へそれを持ち寄り、政府もまた『ワード』の規制に全力を挙げた。
 政府は『ワード』対策班を作り、抑止に勤しんだ。だが、SNSという新しい媒体で広がる伝染病を止める方法はほとんどなく、最終的には運営会社と掛け合うことで国内のSNSを利用できなくした。
 それに加え、現実で書かれた『ワード』の処理は困難を極めた。なにしろ、一目見ただけで感染するため(そのころ、『ワード』は新種の感染症とされていた)、現場に立ち入ることは難しかったのだ。
 だが、それも水やアルコールなどであらかじめ洗浄──つまり、バケツに入ったそれらを現場にぶちまけることだが──することで、『ワード』の効力は無くなった。一部分でも欠けてしまえば、『ワード』は感染力を失う。証拠を洗い流してしまうものの、すでに管轄は警察ではなく対NBC部隊に移っていたため、そこは大きな問題にはならなかった。
 それらの努力のおかげか、国内における『ワード』の感染は終息に向かっているように思えた。また、外国にも同じような事例は報告されていないとのことで、なんとか国内に抑え込めたようだった。

 数年後。『ワード』の脅威が去ったと考えた政府はSNSを解禁した。また、『ワード』対策班も解体された。
 だが、その見立ては間違いだったと言わざる得ない。
 『ワード』は変異していたのだ。それも最悪な変異を遂げていた。
 SNSが解禁してからすぐさま、『ワード』が世界全土、同時多発的に投稿され、拡散された。また、『ワード』はテキストだけではなく音声でも伝染するように変異していたのだ。そのため、インターネットやテレビのない家庭にもラジオや放送を通じて伝染し始めた。
 他にも、感染者の多くは大物コメンテーターや司会者で、さらには潜伏期間まで『ワード』は会得していた。
 つまり、高視聴率の番組に感染した司会者が出て、番組中にいきなり『ワード』を話し始めたかと思えば、どこからかもってきた刃物やボールペンで自らの命を絶つという映像が全世界で放映されたのだ。
 さらには、普通の感染症とは違って、感染者と非感染者の区別は付けられない。血液からホルモンレベルまで、死ぬまでは全く同じなのだ。そして、これが最も恐ろしいことだが──死んでも同じなのだ。
 痛みを感じたり命の危機を感じたりすると増えるはずのアドレナリンもβ-エンドルフィンも全く増えていない。つまり、彼らは痛みを感じずに死んでいる。
 これは『ワード』が痛みを遮断する効果があるということでもあり、死ぬことへの恐怖を無くしているということでもあった。
 ただ、それがわかったからと言って、伝染を止めることはできない。世界中でマスメディアを通して『ワード』に感染した人間たちは、『ワード』を広めた後に自らの命を絶つ。そして、それを繰り返す。
 人間にはもう、止めることはできなかった。それもそうだ、六次の隔たりが証明するように、これを6回繰り返せば人類は消滅するのだから。

 さて、ここまで私が書いてきたことはすべて真実だが、次は私の推測を話したいと思う。
 もちろん、だれが作ったのかなんてことはわからない。なにせ、私が最後にメディアに触れた時に動いていたラジオ局は一つ。そして、MCがわけのわからない言語を話し始めた時点で、私はラジオを破壊した。
 『ワード』を話し始める直前、MCは「世界人口の90%が死んだ」というようなことを言っていたと記憶している。また、私の周りの人間も続々と自殺していった。きっと90%というのは嘘でも何でもなく、事実だったのだろう。
 それだけ人口が減少した状態で事実究明などできはしない。
 だから、これは私の推測だ。『ワード』の正体だが、人間が言語を得たのは30万から40万年前だそうだ。きっと、その時に存在した何らかの『特殊な言語』だったのだと思う。つまり、私たちの脳に生まれた時からあらかじめ刷り込まれていた言語で、それを見た人間は死に対しての恐怖心と痛覚を失い、死へと駆り立てられるのだと思う。だから、どんな言語でも通用し、誰もが同じ物を書けたのだろう。それを悪意ある何者かかもしくは狂信者が掘り出し、使ってしまったのだろう。
 もちろん、すべて推測であり、事実ではない。これだけではなぜ『ワード』が進化したのか、その当時存在していないSNSを使うことを思いついたのか、その説明はできないからだ。

 現在、私は何とか『ワード』に触れることなく、この納屋にこもっているが、喪失感に打ちひしがれていることは否定しない。
 私は、自分が病理学の権威へ『ワード』を持ち込んだことも、『ワード』が進化することを見つけたことも、政府が規制のためにSNSを停止したことも間違いだとは考えていない。ただ、一つだけ考えてしまうのは、「もっと何かできなかったのか」だ。
 とはいえ、一人の男ができることなど限られている。『ワード』の第一感染者である、あの男でさえ、殺せたのは精々10人なのだから。何の力もない私に何ができるというのか。
 だから、私はこの罪を、この手紙を次の世代に擦り付ける。次の世代が来るならば……だが。
 人はみな生まれながらに罪を背負う。哲学者のサルトルはそれを『自由』だとしたが、私はそう思わない。
 私が思うに、罪とは『次の世代への継承』なのではないだろうか。それの贖罪のために、私たちには『ワード』が刷り込まれていたのではないか? そう考えてしまうのだ。
 人間であるがためには、罪を次の世代へ継承しなくてはならない。だが、それに耐えられない人間達は、神が用意していた『ワード』を使って贖罪を行うために近親者や人類を殺していったのではないのかと。
 つまり、彼らは人間であることを止めようとして、人間であるために必要な罪を放棄しようとして死んだのだ。ならば、私は人間であるがために死を選ぶ。『ワード』に犯されていない、自らの意志で死を選ぼう。
 どちらにせよ、もうここに食料はない。外に出れば、『ワード』が間違いなく目に入るだろう。納屋の目の前で私の妻は心臓を引きちぎって死んでいるのだから。
 ……すでに縄は納屋の梁に掛けてある。あとは、台に乗って首をかけるだけだ。

 ここまで読んでくれた、私の第一発見者は約束してほしい。必ず、『ワード』の正体と対処法を見つけることを。
 人間は軽い生き物だ。重い罪がなくては、自ら上へあがってしまう。

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不老 2017年4月10日


怪しい店に売られていた『不老の薬』。それを試してみた彼は、翌日から若返ったことを感じたが……。

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 私は今日、なにやら怪しい店にいた。というのも、なんともなしに表の商店街をぶらついていると、奥まったところにあったその店が目に入ったのだ。
 はじめは気にならなかったのだが、近づいていくたびにどんどん心がそそられ、ついに私はその店のドアを開けてしまったのだった。
 中は黴臭く、ほこりが舞っている。がらんとした店の壁に棚があり、そこには褐色から透明、大から小まで、ありとあらゆるガラス瓶が並んでいた。中身も様々で、水のようなものが入っているかと思えば、粉のようなものも入っていた。
「なんだ、ここは」
 私はつぶやく。すると、奥から若い女が出てきた。雪のように白い肌とつややかな黒髪をもち、目鼻立ちのはっきりとした顔に、小さいながらもぷっくりとした唇がついていた。その女が黒いワンピースを着ている。女は私を見やると、音もたてずに私の前に来た。
「なにか、ご用ですか?」
 蚊が泣くような、か細い声が耳に届く。私は一歩あとずさり、「いや……ちょっと寄っただけだ。此処は何の店だ?」と女に聞いた。
 女は妖しく微笑む。今気づいたが、結構背が高い。ざっと見て、170cmちかくはあるのではないだろうか。
「ちょっと、変わったものを置いています。見てみますか……?」
 そういって、女は右の棚まで歩き、茶色い瓶を手に取る。そして、また私の前まで来て、その瓶を差し出した。
「なんだ?」
「見てみてください」
 いわれるがままに、私はその瓶を手に取る。ラベルには擦れた字で『不老』の文字があった。
「『不老』……?」
「ええ。これは年を取らなくなる薬……初めてのお客様なので、お代金はいりません。試してみますか?」
「何かあるんじゃ? 副作用とかそういうの」
 私の問いに、女は静かに首を横に振る。
「いいえ……そんなことはありませんよ。一口なめるだけで、あなたは全盛期まで若返ってから、年を取らなくなるんです。それも、その一口だけでずうっと、効果が続きますよ」
 女は私の手から瓶を取り戻し、ふたを開ける。私の鼻に、嗅いだことのないにおいが届いた。あえて言うならば、枯れ葉とレモンを混ぜたような、さわやかなのだが鼻に残る……そんな匂いだ。
 そして、女はどこからか取り出した綿棒を瓶の中に差し入れ、中身をかきまぜた後、引き出した。
「さあ、どうぞ……」
 私は一瞬帰ろうと考えた。こんな怪しい商売をしている店を信用できないし、訳のわからない薬に手をだすなんて、愚行にもほどがある。
 だが、私のなかで囁き声が聞こえた。
──本当に毒なのか? もし、飲めば若返ることができるんじゃないか?
 その声が、今の理不尽な現実を思い出させる。
 今はどうだ。転職したいのにもかかわらず、会社から帰れば疲れて寝に落ち、目が覚めれば会社に行かなくてはならない。そして、会社に行けば、上司からは叱責されて部下からは見下される。それだけやっても、生活はギリギリだ。そんな生活をいつまで続けるのか。
 そして、楽しかった過去を思い出す。
 それに比べれば、昔はもっと活気に溢れていたじゃないか。その当時に戻れるなら、私はもっといい生活ができるんじゃないか。新しい仕事を探し、そこでいい上司に恵まれるかもしれないじゃないか。もっと給料も上がって、生活がよくなるかもしれないじゃないか。
「どういたします……?」
 女のか細い声が聞こえる。
 私の頭はせめぎ合う。怪しい薬を舐め、一か八かの賭けに出るか。それとも、このまま店を去って、こんな苦しい生活に耐えつづけるのか。
 かぶりを振った私は、女から綿棒を受け取った。
──あんな生活、もういやだ。
 女は微笑む。私は綿棒を口に含んだ。鼻を駆け抜ける不快な臭い、舌に広がる苦い味。
「……ええ、それくらいで結構ですよ」
 その声に従い、口から綿棒を取り出す。それを女は受け取り、近くにあった容器に入れた。
「本当に、副作用はないんだろうな。安全なんだろうな?」
「ええ……ただ、効果を実感するには1日ほど必要ですので……明日の朝、あなたはきっと効果を感じるはずですよ……」
 そういって、女は怪しく微笑んだ。私は背筋に走るものを感じながら、「手を出してはいけなかったのではないか」という後悔を振り切るために、女に軽く会釈してから、慌てて店を出た。
 家に帰ってから、私はパソコンで店の辺りを調べてみた。だが、該当する店舗は存在しなかった。

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 翌日、私は目が覚めると、自分の体に違和感を覚えた。
 いつもなら、こんなにすっきりと目が覚めることはない。もっと、ベッドで横になって、ぐずぐずと燻っていることが多いのに。それに、職業病である腱鞘炎と関節炎の痛みも引いている。
 試しに起き上がってみると、どうだろう。とてつもなく体が軽い。まるで自分を覆っていた硬い殻を脱いだような、そんな気持ちになった。
──これが、若返りの効果か!
 そう思った瞬間、自分の中で活力があふれるのを感じた。
 洗面所に行ってみると、そこには数日前の私と同一人物とは思えないほど、若返って血色がよくなり、ドライアイで充血していた目もきれいな白目になっている私がいた。舌の色まで綺麗で、むくんだ舌のせいでついていた歯形は綺麗に無くなっていた。
 その時、私の腹で虫が鳴いた。今まで、朝起きてから腹の虫が鳴くことは一度もなかった。それだけ疲れて、食欲がなくなっていたのだ。
「さあ、朝飯でも作るか」
 私はひとりごち、久しぶりに朝食を作るために使っていないキッチンへ足を向けた。
 それから1時間後──朝食はまともな買い置きもしていなかったので、カップ麺だけだった──私は電車に揺られていた。
 いつもなら優先的に座る席を確保し、そこで終点である自分の降りる駅まで寝て過ごすのだが、今日はそんなことをしなくても問題ない。むしろ、座らずに立っていたい気分だった。
 寝て過ごしていたのではわからない外の景色や電車の中の喧騒を楽しみながら、私は会社へ向かう。この時間は学生が多い。というのも、沿線に高校がいくつかあるかららしい。
 私は周りを見まわし、学生の若い姿を横目で見ながら、立ち並ぶビルの灰色と空の水色、それにいくつかの広告からなる色彩を目に焼き付けていた。
──こんな風に景色を楽しんだのはいつ以来だったか。若いとは、こんなに素晴らしいことだったのか。
 そう思いながら、私は微笑んだ。電車が止まり、学生の多くが降りる。終点まで数駅だった。
 終点についてから少し歩くと、私が勤める会社のビルが見えてきた。嫌な上司に縛られ、大量の事務仕事を押し付けられる、この会社だ。
 だが、いつもの憂鬱さはなかった。この若さゆえの勢いさえあれば、私にはなんだってできる気がした。だから、憂鬱を投げ捨てつつ、私はタイムカード代わりのIDカードをリーダーに通して、会社の中に入った。
 会社に入ってデスクまでの廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「おい、鈴木」
 振り向くと、天敵である私の上司が資料をもって立っていた。だが、その顔には驚愕が張り付いている。
「……誰だ、お前は」
 私は上司の顔を見て、ほくそ笑む。
「鈴木ですよ。部下の顔ですら、お忘れですか?」
 上司が苦虫を噛み潰したような顔で私を睨むが、私はそんなこと気にならなかった。そして、その顔のまま、用件を思い出したように私に資料を投げつけた。いつもなら床にはいつくばって拾わないといけないのだが、若返った私にとって、受け取るのは造作ないことだ。
 上司は怒りを抑え込んだ、押し殺した声で私に言った。
「その資料、フォントが見辛いからやり直せ」
 私は「わかりました。すぐ終わらせますよ」と言い、踵を返して自分のデスクに向かった。後頭部に睨むような視線を感じたが、そんなことは気にならない。
 デスクについた私は、大量に積み上げられていた資料と仕事を一瞥してから席に着いた。周りの部下たちが若返った私の顔を見て、ひそひそと何かを話していたが、そんなことは気にせずに、私は仕事にとりかかった。
 それから数時間が経ったころ。
 10分程度の昼休憩をはさんだ以外、私はほとんどぶっ続けで仕事をこなした。そのおかげか、いつも通り上司に仕事を押し付けられたにもかかわらず、初めて残業することなく退社することができた。周りの部下は嫉むような視線を浴びせかけてきたし、上司に至っては「定時退社は許さない」などと脅してきたが、やる仕事がなければ引き留めることはできない。
 私は帰りがけに、近くの本屋で公務員試験対策用の問題集といくつか資格用の本を買った。元々覚えはいい方だから──今ではすっかり、あの店員と薬を信用していた──今のままの状態が続くのなら、簡単に受かるだろうと考えたからだ。それに公務員なら、今ほど過酷な生活ではないはずだ。
 もちろん、もっと調べないといけない。それに、公務員が過酷ならまた別の職を探せばいい。
 そんなことを考えつつ、私は両手に荷物を持ちながら最寄り駅から帰りの電車に乗った。今日はいつものような死んだ顔の人間はいない。ほとんどが学生か生き生きとした会社の社員だった。

 私は家に帰ってから問題集をパラパラとめくり、スマートフォンで公務員試験のことや公務員のことを調べ、近くのコンビニで買った弁当を食べた後、いくつか簡単に解けそうな問題に手を出してみた。
 こんなに悠々自適な生活は大学以来なものだ。社会人になってから、こんな生活は送れていない。日も沈んでいないころに家に帰り、食事をとって、ちょっと勉強してから寝る。こんなありふれた生活が、最高だとは知らなかった。
 珍しく、シャワーではなく湯船に湯を張って肩まで浸かる。いつもなら、疲れてシャワーを浴びることさえ億劫なのに、今日はそんなことを少しも思わなかった。
「ああ、こんな生活を毎日続けられるようにしないとな……」
 私は湯船につかりながら、長く息を吐いた。

 翌日。風呂から上がった後、心地よい疲れに襲われて寝床に入った私は、あっという間に眠りに落ちた。そして、またしてもすっきりと目覚める。私はそのことに、思わず笑みがこぼれた。
 前日に買っていたコンビニ弁当を温め、朝食にする。今日は休日だが、いつものように出勤しなくてはいけない。
「まあ、少しくらい……」
 そう呟き、私はスーツを着込んで駅に向かった。
 電車に乗ると、休日だからというのもあるが、ほとんど人はいない。そのため、私は広々と座席につくことができた。
 そして、鞄からハンディサイズの資格用の本を取り出す。終点に着くまではまだまだ時間があるため、しばらく勉強できるだろう。
 10分ほどたったころだろうか。不意に、弱い胸の痛みに襲われた。
──ん?
 ズキンとくる、弱い痛みだ。
──たぶん慣れないことをして、体が追い付いていないんだろう。放っておけば、少しは良くなるはずだ。
 そう考え、私は本に目を戻す。
 数分経った頃、先ほどより強い痛みが胸に走った。思わず胸をさする。いったん痛みは引き、また、胸に痛みが走る。
──なんだ、いったい?
 本を鞄に仕舞う。次の駅で降りて薬局にでも駆け込もうと考えた時、いきなり胸をハンマーで殴られるような痛みに襲われた。
 息が詰まり、呼吸ができない。ワイシャツを鷲掴みにして、苦しみに耐える。スマートフォンを取り出すことも、歩いて非常ベルを鳴らすこともできず、体の末端からしびれていくのを感じた。
 足から力が抜け、座席から滑り落ちる。うつぶせのまま私は喘いだが、口に空気は入らない。
 頭の奥にブチブチと、毛細血管が切れる音が響く。体がひきつり、うつぶせの状態から仰向けへ、勝手に変わった。鷲掴みにした手は、すでにどうにも動かせないほど膠着し、私は片手でのどをかきむしった。
 体が生を求め、死に抗おうと必死に抵抗したにもかかわらず、私の体から力が抜けていくのを感じた。
 経験したことのない快感が頭を支配する。すべてが空っぽになる。生きていては到底体験できそうにない極上の快感だった。
 その時、ふと女の言っていたことが頭をよぎる。
──「全盛期まで若返ってから、年を取らなくなるんです」……なるほど。確かに、死んでしまえば年は取らないな……。
 私の目は、電車の天井を見るのをやめた。

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