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海辺 2018年8月15日


怪談をするために集まった四人。そのうちの一人が、「地獄の釜の蓋が開く」とされる、お盆の海辺を散歩した男の話をし始める……。怪談四部作、一つ目の物語。

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 真っ暗な部屋の中で、私たちは円を描くように向かい合っていた。それぞれの顔も体も見えない、声しか聞こえない空間。
 ふと息を吸うと、濃密な海のにおいが鼻に残る。海藻の乾いたような、体にまとわりつく塩気のある臭い。同時に空気が湿り気を帯びているように感じるのは、私たちがいる場所の近くに海があるからだろうか。
「じゃあ、だれから話す?」
 参加者の一人が、声変わり前のざらざらとした声で皆に呼びかける。すると、私の隣に座っていた男が「ならば、俺が話そうじゃないか」と声を上げた。
「では、一つ目の話ですね」
「これは、ある一人の男が体験した話なんだが──」

 盆の夜、親戚が集まって酒盛りをしている最中、俺は外に出てあたりをぶらぶらと散歩していた。
 というのも、俺の親戚というのはどうも酒癖が悪く、宴もたけなわになると下戸の俺にすら酒を飲ましてくるのだ。元より酒癖の悪い父親を見てきて、さらには酒も飲めないともなれば、飲まされるのを嫌うのも当然のことで。
 俺は一人宴会を抜け出して、こうやって夜風を浴びに来たのだった。
 ふと、前を見ると自転車の前照灯が見える。ほどなくして、俺と同級生だった美紀が自転車に乗っているのがわかった。
 自転車が俺の目の前で止まり、美紀が下りてくる。
「あれ、一郎。なんでこんなところにおるの?」
「なんだ、夜の散歩にすらお前の許可がおるのか。それに、お前も人のことは言えまい」
 暗くてよく見えないが、たいていこういう口の利き方をすると美紀は怒って頬を膨らませる。今日もきっと、そうだろう。
「叔父さんたちのお酒が無くなっちゃったから、鈴木さんのところで買い足しに行くんよ。そいで、あんたは何してんのさ」
 鈴木さんというと、商店街で酒を売っているあのおじさんのことか。確かに、ここで酒を買うとなるとあの人くらいしか思いつかない。
「おっさん達から逃げてきた。で、夜の海でも見に行こうかと思ってな」
 不自然な間。
「……やめたら? というより、買い物付き合ってくんない?」
 俺は顔をしかめる。自分のすることに口出しされたというのもあるが、美紀がこういう時は何かあるときなのだ。寺の娘だからというのもあるのだろうが、危ないことに対する嗅覚は、俺の知っている誰よりもよく利く。
「なにかあるんか?」
「あんたは信じない気がするけど、盆の海は地獄の釜の蓋が開くんよ。小さいころ言われんかった、『盆の最中は、海で泳ぐんでない』って」
「迷信だろう。確かに盆の最中に海で泳いで死んだやつは多いが……見に行くだけなら、危なくもなかろうよ」
「そうでもないんよ。檀家さんにもおるんよ、夜に海から腕が出てるの見たって人」
 俺は頬を掻く。美紀はうそをつくような子でもない、というよりは嘘が苦手だ。こいつのせいで、悪ガキだった俺は何度先生から殴られたことか。
「ふうん……」
「それにさ、うち一人で夜の街歩くの怖いからさ。あんたが一緒に来てくれりゃええかな、って」
 その言葉に思わず笑う。
「お前を見たら、どんな奴でも逃げるわい。露出狂を巴投げしたのは、どこの誰だった」
 怒ったような「あれはまた……」という声の後、「まあ、とりあえず止めたかんね。なんかあったら、うちのところ来るんよ」
「わかったわかった。なんもないとは思うがな」
 美紀が自転車にまたがり、俺に手を振ってから商店街の方に漕ぎ出す。俺はというと、その後ろ姿を見送った後、砂浜に向けて歩き出した。

 昼間には海水浴客であふれる砂浜も、今は人っ子一人おらず、聞こえてくるのは波の音だけだった。とはいえ遠くに目を凝らすと、貨物船かなにか、大型の船の常夜灯が見える。
 俺は砂浜に腰を下ろす。海風が気持ちいい。台風が通り過ぎたおかげで天気が良くなったからか、海の様子も穏やかだ。元より入る気はないが、泳いでも溺れるとは考えにくい。
 ぼんやりと見える地平線を見つめながら、俺は美紀の話を思いだしていた。
 確かに『盆の海には入るな』とは昔からよく言われ続けてきたのだ。いつもは飲んだくれている父親も、盆の時に海に行こうとした時だけは血相を変えて引き留めてきた。それに、盆が終わると必ずと言っていいほど、河口に水死体が流れ着いたというニュースを見てきた。
「盆には地獄の釜の蓋が開く、ねえ……」
 いくらでも科学的な説明はできる。盆の時はああやって宴会をするせいで、酒が入る。すると体温調節のタガが外れて熱くなった酔っぱらいは、海に泳ぎに行こうと言い出す。そうして泳ぎに行くのだが、アルコールは運動能力を低下させるのだ。さらに、夜は視界が利かないせいで、溺れていても気づかれにくい。
 だから幾ら泳ぎが得意でも、盆の海に繰り出してしまうと溺死する、というわけだ。
「簡単な話じゃないか」
 ぼそりと独り言つ。それでも美紀が檀家から聞いたという、海から出てきた手の話は説明がつかないのだが。酔っぱらいの見間違い、それだけで片づけていいものか。
 ふと、俺の目に何か白いものが写る。
 そっちの方を見ると、海からにょっきりと白い腕が生えていた。
「なんだ……?」
 もしかして、溺れた人かもしれない。だとしたら、助けに行かないと。
 そう思って立ち上がった瞬間、金縛りが俺を襲った。
 息ができない。指の一本も動かせない。ただ見開いた眼で、生えている白い腕を凝視することしかできない。
 そのまま白い腕を見つめていると、腕の近くから一本、また一本と腕が伸びる。どんどん、どんどんと何本も腕が生えてくる。
 さして時間もかからず、海から生えてきた腕は白波と取って代わる。その光景を息も出来ずに眺めて居た俺へ、白い腕は手招きし始めた。
 それと同時に、足だけが海に向かって勝手に動き始める。まるで、自分が操り人形になったかのような感覚。自分の意志に反して体が動く感覚を体験するのは、初めてだった。
──このままじゃ、海にはいっちまう。
 抵抗しようにも、体のどこも動かない。俺の足はすでに海の中に浸っていた。スニーカー越しに、夏なのに妙に冷たい水の感触を感じる。
──止まれ、とまってくれ。
 そう考える間に、すでに膝まで浸っていた。
 水の流れに足を取られ、バランスを崩す。溺れそうになりながら必死に海の中で目を開くと、水の中には、腕だけがミミズのように蠢いていた。
 泡沫と化した悲鳴が、口からあふれ出る。
 俺は腕に捉まれて、そのまま暗い海の底へと引きずり込まれていった。

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物売り 2018年7月29日


町に定期的に来る移動販売車。噂では、普通の店では手に入れられない『あるもの』を取り扱っているという。噂を聞き付けた彼は真偽を確かめようと、販売車のことを調べ始めるが……。

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 特徴的なアブラゼミとキジバトの鳴き声。まるでアニメのワンシーンかのような晴天。フライパンでも置けば目玉焼きが焼けそうなくらい、熱されたアスファルト。遠くには麦わら帽子を被ってタオルを首に巻いている、タンクトップ姿のおじいさんも見える。
 僕はそんな典型的な夏の中で、近くのスーパーで買ってきた安いスポーツドリンクをちびちびと飲みながら、日陰にあるベンチに座り込んでいた。
「おばちゃん、ジュースちょうだい」
 目の先にある移動販売車に、小学生と思わしき男子の集団が群がっている。そのうちの一人が販売車のカウンターに小銭を置くと、人がよさそうなおばちゃん──お婆さんでもお姉さんでもない、おばちゃんという表現が何よりに合いそうな中年の女性──が、ニコニコしながら男の子達に、栓を抜いた瓶入りのオレンジジュースを何本か手渡した。
「暑いからね、熱中症には気を付けるんだよ」
「ありがと、おばちゃん」
 わいわいと騒ぎながら、男子の集団は移動販売車から離れていく。僕はボケっとしながら、その様子を眺めていた。
 この暑い中、僕はなんと恐ろしく無意味なことをしているのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。けれど小学生の頃からオカルトハンターと呼ばれてきた僕の矜持は、この程度の暑さではへこたれそうもなかった。

 『あの訪問販売車では負の感情を売っている』、そんな有り得ない噂がいつから出てきたのかは分からない。というよりは、いつからあの訪問販売車がこの町に来ているのか、ほかにどの町に行っているのか、それすらも分かっていないのだけれど。
 とりあえず、良くある怪談話の例にもれず、この町ではいつの間にかそんな噂が立っていた。これが町の呪いだったり殺された妖怪の恨みだったりするのなら公民館にでも行けば資料があるのだけれど、そういうわけにもいかない類の噂だ。
 一度、ここにずっと住んでいるおじいさん──僕自身は別の町で幼少期を過ごしているため、昔のこの町については何も知らない──に、噂のことを聞いたことがある。でも返ってきたのは、「何時からかはわからないが、確かにそういう噂はある」という返事だった。
 以来、噂のルーツを辿るのは諦めていた。それで、実際に売買している所を押さえた方がいいだろうと考え、今みたいに来るか分からないお客さんを探しているのだった。
 ふと気づくと、若い男の人が訪問販売車の前に立っている。
──もしかして、噂を聞いた人かもしれない。
 たるんでいた気を引き締めた。
 ここら辺では僕含め珍しい、20代前半くらいの男。流行を取り入れた不透明な金髪を、下手なワックスとスプレーで固めている。肌が荒れているのか、指先が黄ばんでいる右手で頻繁に頬を掻いていた。なんとなく大学生っぽい感じがするのは気のせいだろうか。
「おばちゃん、タバコねえかな」
 にこにこしながら、おばちゃんは「有るよ、銘柄はなんだい」と男に尋ねる。男が銘柄をつぶやくと、ほどなくして棚の下からたばこの箱が出てきた。
「これで間違いないかい」
「ああ」
 男がぶっきらぼうに金を出して、たばこをひったくるように取る。すぐさまセロファンを破ってたばこを一本取り出した彼は、ポケットの中から100円ライターを取り出した。そのままたばこに火をつけ、歩きながら紫煙を吐き出して移動販売車から離れていく。
 どうも、僕の求めていたような人とは違うらしい。
──まあ、そんなすぐに見つかるわけもないだろう。
 僕はまた気を張るのを止めて、「こんな姿を彼女に見られたら、間違いなく別れることになるな」なんてことを考えながら、空を眺めていた。

 日が傾いて、オレンジ色の光が周りを満たす時間になった頃。うだるような暑さはそのままに、温度が些か下がったせいで湿気がまとわりつく時間。僕の一番嫌いな時間帯だ。
 見ると、オレンジ色の光に肌を染められた男性が、訪問販売車の前に立っていた。しわだらけのスーツ姿とくすんだビジネスバッグ。会社帰りだろうか。
 そんな男を見ても、おばちゃんはニコニコしながら「ご用件は?」と尋ねる。彼はというと、言いにくそうに唇を舐めたり首を動かしたりしていた。
 ほどなくして、決心したように口が動いて何かをおばちゃんに伝える。声が小さすぎて、ここからでは彼の言葉は聞こえない。けれど、くしゃくしゃになった一万円札を取り出してカウンターに置いたのは見えた。
 あの移動販売車の価格帯は大体把握している。でも、一番高くて五千円くらいする懐中電灯だ。一万円近い商品はない。
「あいよ、分かったよ」
 おばちゃんには彼の声が聞こえていたようで、札をしまうと同時に棚の下に潜り込み、縄を取り出して彼に手渡す。彼はお礼を言うかのように、何度も頷いていた。
「ここから少し歩くと、いい場所があるから。頑張ってね」
 そうして、おばちゃんは小川のある方を指さした。彼は頭を下げながら、販売車の前から歩き去っていく。
 今まで見てきた数名の中では一番不可解な客だ。もしかしたら、彼が『負の感情を買った人』なのかもしれない。
 僕は彼と入れ替わるように、おばちゃんの前に立った。
「すみません、先ほどの男性は何を買われたのですか?」
 おばちゃんは相も変わらずニコニコしながら、「この移動販売車の売りだよ」と僕の質問に答える。でも、僕はそんな回答で満足するような人間じゃない。
「縄がですか?」
「いんや、違うよ。また別のものだよ」
「では、一体何ですか?」
「あんたは若いからねえ……いつか分かるよ」
 煙に巻かれたような気がして、僕は顔を顰める。もう一度聞こうとしたとき、おばちゃんが「さあ店じまいだ」と僕に笑いかけて、シャッターを下げた。
 不意を討たれた僕が固まっていると、トラックのエンジンがかかる音が聞こえ、訪問販売車が動き出した。
 そのまま、おばちゃんと共に、訪問販売車はどこかに去っていく。
 僕は腑に落ちない感覚と一体何を売ったのか分からないもやもやと、そして無為に時間を過ごしてしまった怒りを覚えながら、傾きながらも照り付ける陽光の中を家に向かって歩いていった。

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 次の日、僕が図書館で地元紙を読んでいると、ふとあのサラリーマンの顔が目に入った。尤も、僕が見た時より幾らも血色がよくて、元気そうだったけれど。
「ん?」
 記事を読むと、近くの小川で首を吊った状態のまま見つかったらしい。それで、警察が自殺と事件の両方から調べているそうだ。
「やっぱり……」
 直感的に、事件ではなくて自殺だと分かった。同時に、あの移動販売車が一枚嚙んでいるような気がしたけれど、どうして移動販売車で縄を買っただけの彼が自殺に追い込まれたのかはわからない。
 ともかく、もっと移動販売車について調べなければ。
 そう決意して、僕はいつも移動販売車が止まっている広場に向かうために、熱いアスファルトの上に足を踏み出した。

 広場に行くと、今日も変わらず移動販売車が停まっていた。おばちゃんの姿も変わらない。
 ただ、いつもと違うのは、おばちゃんが若い女性と言い合っているように見える──正確には、若い女性が怒鳴り散らしていておばちゃんはそれを躱している──ことだった。
「どうして売ってくれないの」
 高くてヒステリックな女性の声が、僕の耳に届く。おばちゃんは相変わらず優しい、けれど困ったような声で、「何に使うか分からないからねえ……だから、簡単には売れないのさ」と反論していた。
「さっきから言ってるじゃない。ともかく、あのセクハラ上司をなんとかできればいいの」
 困った表情のまま、おばちゃんは棚の下に潜り込む。ほどなくして、手に何か封筒のようなものをもって立ち上がった。
「本当だね、あんたを信じるけど……覚悟するんだよ」
 女性はおばちゃんの手から、もぎ取るようにしてその封筒を奪いさる。そして、「これでやっと……」とつぶやきながら、お礼も言わずにどこかへ歩き去っていった。
 すかさず僕がおばちゃんの元に走りよると、おばちゃんはまた困ったように「またあんたかい」と、僕をにらんだ。
「いったい何を売ったんですか」
「あんたにはまだ早い……いや、あんたの性格なら、分かるのにそう時間もかからないかもしれないねえ」
「どういうことですか?」
「はいはい、今日は疲れたからこれで店じまいだ」
 僕の目の前で、前と同じようにシャッターが閉まる。僕は「待て」と叫んだけれど、ほどなくしてエンジン音が響き渡り、移動販売車は走り去ってしまった。

 翌日。また情報収集のために新聞を読んでいると、男女二人が同時に会社の窓から落ち、頭を打って即死したという記事が載っていた。目撃者の話では当初二人は口論しているだけだったけれど、徐々にエスカレートして取っ組み合いになり、そのまま近くの窓から落ちたのだそうだ。
 どうも僕には──顔写真は載っていなかったけれど──その二人のうち、女性はあの移動販売車の前で見た人のような気がしてならなかった。名前とともに出ていた年齢と外見も近いし、男性側は女性の上司だったのだそうだ。
 やはり、あの移動販売車に関わって『何か』を買った人たちは、知っている限り全員が亡くなっているようだった。けれど、おばちゃんにそんなことが出来るのだろうか。
 その時、ポケットに入れておいたスマートフォンが震える。見ると、彼女からの『今日会える?』というような趣旨のメッセージだった。
 けれど、そのメッセージを当てた相手は僕じゃなかった。

「あら、いらっしゃい」
 おばちゃんが僕に話しかけてくる。そのトーンは、いつもと違ってお客さんへ向けた声のトーンだった。
 もとよりこうすれば、あの噂の真実が分かることにどうして気づかなかったのだろう。ついでに、浮気したあの女に復讐もできる。一石二鳥じゃないか。
「これで買えるもの、ありますか」
 僕が一万円札を差し出すと、おばちゃんは言外の意味をくみ取ったかのようににやりと笑う。
「ああ、もちろん売ってるよ」

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死出虫 2018年7月16日


目を覚ますと、暗く湿った空間に閉じ込められていた彼。暗闇の中で「何故閉じ込められたのか」を考え始めるが、体を這う虫達の感触に気が付き……?

 

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 息を吸うと、湿った土と肉が腐ったような甘ったるい臭いの混じった悪臭が鼻についた。
 重い瞼を開ける。目の前には何も見えない。
 身体を動かそうと身をよじると、肘や膝が木のような何か硬いものと当たり、鈍い音が反響しながら私の耳に届いた。
 限られた空間の中で両手を持ち上げる。
 また、同じような音が耳に届いた。
 訳の分からぬ状況にパニックを起こしそうになりながら、私は首を動かして周りを見回す。
 けれど、そこに求めていた光はない。
 足を曲げ伸ばしして、板のようなものを破れないか試みる。何度か試みた後、かかとの痛みに襲われた。
 悪臭が鼻腔を満たすのを我慢しながら数回深呼吸すると、少し落ち着いてきた。
 いったい私に何があったのだろうか?
 どうしてここにいるのかを思い出そうと、頭の中に思考を巡らせる。鉛の詰まったような頭の中をしばらく漁っていると、いくつか思い出してきた。
 むせび泣く母親の声。妙に冷たい身体。線香の匂い。読経。まるで葬式だ。
 しかし、私はこの通り生きている。
 もし本当に葬式をしたのなら私は参加する側のはずなのに、そんな記憶は一切ない。あるのは、まるで故人として悲しまれているような記憶だけ。
 さらに前の記憶を思い出せないかと思って頭を巡らせる。けれど、少しずつ薄くなっている酸素のせいか、はっきりしない。
 それでも、何か硬いものにぶつかられた衝撃と地面の上を転がる感覚を思い出した。その後、私はどうなったのだろうか。救急車の音、アルコール消毒のような匂いと車特有の揺れ、必死に私のことを呼ぶ男性の声……。ぶつかられた感覚はあるのに、不思議と痛みの記憶はなかった。
 私は狭い空間の中でかぶりを振った。ダメだ、思い出せない。思い出したくもない記憶を思い出そうとしているのか、それとも私に思い出す資格がないのか、何があったのかを思い出せない。
 ともかく、私は何故か知らないが、ここに閉じ込められている。確かなのはそれと踵に走る痛みだけだ。
「だれか、助けてくれ」
 叫んでみても、声は周りに吸い込まれるように反響すらしない。きっと、外に聞こえていないだろう。
 何か他に音を出せそうなものがないか、そう考えて狭い空間の中を手で探っていると、触り慣れたスマートフォンケースの感覚を覚えた。暗いせいでまともに何を持っているかも見えないまま、何とか持ち上げて電源ボタンを押す。
 スリープモードが解除されて仄かな明かりが周りを照らした。やはり、手の中にあったのは私のスマートフォンだった。
──これで助けを呼べる。
 動く片手でロックを解除しようとPINコードを打ち込もうと試みる。
 けれど、「早くこんなところから出ていきたい」という焦りといつも両手でロックを解除していたせいで手元が定まらず、まともに打ち込めない。それを何度か繰り返したものの、エラーメッセージが出て、30秒後にもう一度やり直しになってしまった。
 上手くいかない事にいらいらしながら時間が経つのを待っていると、電源が切れるポップアップとバイブレーションの後、スマートフォンの画面が消えた。
 慌てて電源ボタンを長押しすると、電池のグラフィックが現れて、またしても暗転した。
──電池切れだ。
 私は使い物にならなくなったスマートフォンを足元に投げ捨てる。鈍い音と共に、木が折れるような音が聞こえたような気がした。

 

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 しばらく無駄だと知りつつ声を出して助けを呼んでいると、動かせない手のひらの下をなにかツルツルしたものが通り過ぎるのを感じた。近い触感を持つものとしては、私が趣味で飼っていたコガネムシやシデムシのようだ。だが、コガネムシはまだしも、何故シデムシが此処にいるのだろうか。
 シデムシ、漢字では死出虫ないしは埋葬虫と書いてシデムシと読ませる甲虫の一種だ。彼らは発達した強靭な顎を用いて腐った肉やそれを餌にする蛆を主食にし、中には腐敗物を食するものもいる。種類によっては死体を埋めて──その様子から埋葬虫と名付けられたそうだ──幼虫に食べさせることもあるそうで、その姿は昔から興味を惹かれるものだったらしい。実際にそれを題材にした怪奇小説もあり、私も一度読んだことがある。
 彼らがいるということは、死体のような腐敗したものがあるということだ。きっとそれがこの甘ったるい肉の腐った臭いの原因なのだろう。
 つまり、私は遺骸と共にこの箱のような構造物に囚われている。
 その事を考えた瞬間、胃の上の辺りがきゅぅっと締め付けられるような感覚に襲われる。のどの上の辺りまでその感覚がじわじわと広がり、思わずえずく。幸運なことに、吐くようなものも胃に入っていなかったようで、口の中に胃酸の苦酸っぱい味が広がるだけだった。
 刺激に呼応するように溢れ出てきた唾液にも構わず、「誰か、助けてくれ」ともう一度叫ぶ。
 その声は前と同じように、周りに吸い込まれていった。
 シデムシの這いまわる感覚が私を襲い、痒い様な痛い様な刺激に体が覆われる。私はもぞもぞと体を動かして虫たちを振り払おうと試みるが、木の板が私の動きを邪魔する。
 何とか平常心を保ちながら、私はがむしゃらに体を動かして木の板を壊そうと試みた。
 虫達が潰れるクシャっという耳障りな音と服ごしに感じる漏れ出た体液。それでも、虫達は私を離そうとしない。
 しばらくして疲労困憊した私は、切れた息を整えるために深く息を吸い込んだ。甘ったるい死体の匂いが鼻腔を満たす。死体と一緒に居たくはなかったけれど、このままでは動けそうにない。
 その時、疲れて動かなくなった手のひらに、シデムシの感触を感じた。
 ほどなくして、虫が皮膚を食い破るような激痛が、私の手を襲った。

 

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黒い腕 2018年4月21日


事故や事件が起きたところに必ず現れるという、厄災を招く『黒い腕』。ふとしたことからその噂を調べだした彼は最期、あることに気が付くが……。

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「ふぅ」
 僕は椅子にもたれかかり、腕を横に振り回して伸びをする。その拍子に数枚の資料が机から落ちるが、どうせ認知心理学や色彩心理学関連の必要のない資料だ、無視しても良いだろう。そんな性格だからか、机の周りには大量に紙屑が散らばっているのだが。
「一体何なんだ、この『黒い腕』っていうのは」
 机上のマウスを掴み、ディスプレイに表示されるオカルト掲示板のスレッドをスクロールしていく。ホラーを取り扱う掲示板の特徴ともいうべき、黒い背景、赤い文字、読みにくいおどろおどろしいフォント。たまに、黒との対比を試みたのか白い文字や毒々しい感じを出したいのか紫の文字を使っているサイトもあるが、どちらにせよ購買意欲をそいでしまう暗色というのはマーケティング向きではない。
 意外にも、人間というのは色に左右されるのだ。プロパガンダに赤と黒が使われる理由や癒しを謳うものに青や緑が使われる理由はそういうところにある。
 と、いくらか頭の中で愚痴ったところで、僕はスレッドに目を通す。
 タイトルは『★あなたが体験した怖い話★壱壱話目』みたいな感じの奴で、良くある奴と言えば良くある奴……というよりは、定期的に立つスレの一つだ。
 とはいえ、その中に書き込まれた『黒い腕』というレスが僕をこんな風に家に閉じ込めている。事の発端は友人が「おい、これ見てみろよ」と言って僕に見せてきたのがこのレスで、何故か分からないが内容に惹かれてしまった僕は今、持ち前の好奇心と研究欲をいかんなく発揮しているというわけだ。
 概略はこうだ。書き込んだ主はある事故現場──その事故はガソリンスタンドにタンクローリーが突っ込んで死者12人負傷者34名を出した事故で、僕もニュースで見て覚えていた──の生存者だ。
 ガソリンスタンド前の歩道を歩いていた彼(彼女かもしれない)曰く、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込む前に、反対側の歩道に植わっている街路樹から黒い腕のようなものがぬるりと出ており、それに手招きされたのだそうだ。もちろん見間違いじゃないかと目をこすっていて見直したそうだが、やはり腕が手招きしていたらしく、興味を惹かれた彼は走る車の確認すら忘れて道路を横切った。
 そして無事反対側の歩道に着いて街路樹の裏を確認しようとした瞬間、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込み、爆発炎上。彼も負傷者の一人となった。
 彼の見解では、その『黒い腕』は事故現場に現れて事件を招いているのではないか、ということだ。とはいえ、初めの頃は他人のレスも付かず半ばネットの海に沈んでいた。
 しかし、つい一か月前くらいのことだ。同じような『黒い腕』を見たという人が現れた。その人は家が火事になる前に、窓の外から家の塀から突き出た『黒い腕』が手招きしているのが見えて、だれかと思い外に出たら給湯器から出火──原因は漏電だそうだ──家が全焼した。
 それからほぼ毎日、同じように『黒い腕』を見たという人が現れてレスが続々とついていき、今では独立したスレッドが建っている。とはいえ、独立したスレッドの方はというと、見た人間と見ていない人間の──いわば信じる者対信じない者の構図だ──宗教戦争の体を成しており、あまり具体的な話はされていないのだが。
 僕はスレには参加せず、主に元のスレに書き込まれた内容から「まずはその事件が本当に起きていたのか?」ということを探した。具体的には、ローカル紙からネットニュースまで該当しそうな事件を調べては、その事件が起きたかどうかの裏付けを取っていったのだ。
 さらにはその宗教戦争のおかげで、「みたことがある」という人のIPアドレスが何のカバーもされずに書き込まれていた。実はIPアドレスを使うとプロキシサーバーを経由していたりスマートフォンで書き込んだりしていない限りは、書き込んだ主の居住エリア──日本であればどこの都道府県に住んでいるか──が分かる。そこから書き込んだ主が同一人物かの判断をしていった。とくにこういうBBSでは、同一人物が別人に成りすましてそういう噂を作ることもあるからだ。
 当然、百近くあるすべてのレスを裏付けすることは叶わなかったものの、大体八十三のレスは事実確認が済み、内本当に起こったと思われるのは十五個。さらにその過程で、同じように『黒い腕』を見たというブログやSNSの書き込みも見つけて裏付けを行い、一割くらいの記事が本当と考えられるというのが分かった。
 そういうわけで認知心理学の端っこ1ピクセルを噛んでいる僕は、『黒い腕』が集団ヒステリーやフォークロアによる幻覚、便乗したジョークとは考えにくいという結論に至り、その正体を暴こうといろいろ探っているというわけだ。
 とはいえ、『黒い腕』という形に限らないのであれば、ああいう「事件の前に起こる前兆」的な何かはいくつも見つかる。死者が出る前の家に黒い煙が入っていった、リンカーン暗殺を予兆するかのような写真のノイズがある……などなど、玉石混交ではあるが。僕の見立てでは、『黒い腕』もそういうものの一つなのだろう。
 基本的に、科学者というのは幽霊や超常現象、神、死後の世界を信じない人が多く──アラン・チューリングは無神論者でありながら死後の生を信じていたそうだが──『心霊現象イコール似非科学』という数式が出来上がっている人も居る。とはいえ脳科学者や心理学者の一部には、一般的な意味での幽霊ではないものの心理学的・神経学的な意味での幽霊を信じている人が居る。
 そして、僕はどちらかといえば後者寄りの人間だ。
 僕はすっかり冷めたインスタントコーヒーに口をつけ、苦みより酸味が先行するその味に辟易しながら、また資料を探り始めた。

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 いったい誰に話しているのか分からないまま、長々と僕が徹夜している経緯を語ったあの夜から一週間後。あれから結局、調査は全く進んでいない。というよりは、家に資料といえるような資料が無くなってしまった。
 というわけで、今の僕は認知心理学や社会心理学──今はそっちの方面で仮説を立てられないかということを考えている──の本を借りるために図書館に行った帰りだ。
「これでだめなら、次は脳科学や神経科学あたりを漁ってみるか」
 そんなことを呟きながら、ガラス越しに賑わっているのが見えるスーパーマーケットの前を歩いていると、ガラスに反射した景色の中に何か黒いものが見えた。
 僕が目を向ける。すると、向かいにある月極駐車場の看板から黒い腕が出て、僕に手招きをしていた。
 思わず借りた本が入っているカバンを取り落とす。
「うそだろ?」
 目をこすってもう一度。紛れもなく、黒い腕が手招きしていた。
 その腕は良くホラー映画で描かれるような、煙っているように輪郭のはっきりしない腕ではなかった。周りから浮いてしまうほど輪郭がはっきりしており、動きも人間そっくりでおそろしく滑らかだ。一番近いのは、人間の腕にタールをぶちまけるか黒いペンキを塗りたくったものだろう。
 しかし、看板の下から下半身が出ていない。どんなに細い人間でも、看板を支える二本の支柱に体を隠すことはできないはずだ。
 だから、もし見ている光景が事実ならば。若しくは、遺伝子改変されたか傷を治すためにヤモリの体液を注射したヤモリ人間の存在を否定するのであれば。
──腕だけが看板から出ている……。
 どう考えてもあり得ない。僕が幻覚を見ているということでしか説明がつかないが、幻覚を見るようなものは摂取していないし、睡眠時間だって十二分にとっているし、そういうものを起こす要因は何一つないと自負している。 
 その時、腕が看板の裏に引っ込む。と、同時に妙に甲高いエンジン音が後ろから聞こえてきた。
 後ろを振り向くと、かなり大きなトラックが僕に向かってくるのが見えた。運転席には陸に上がったカニのごとく泡を吹いたドライバーが見える。かなりの速度だ。法定速度は軽々超えているだろうから、今から慌てて逃げたところで弾き飛ばされるのは避けられない。
 そういえば、人間は死ぬ寸前に生存本能が活性化して、死をもたらす状況から逃れるために頭をフル回転させるそうだ。
 だからなのか、僕には『黒い腕』の正体が分かった。いや、『黒い腕が厄災を起こす』という噂の正体が分かった。
 認知バイアスだ。
 あの黒い腕は死や災害をもたらすものではない。その状況に遭遇したことや防げなかったことから精神を守るため、無意識に「あれは厄災の腕だ」と考えたのだ。そうすれば、自分で自分を責める必要はなくなる。生物として当然の行為だ、誰も責められるものではない。
 だが、あの黒い腕、本当は──。

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留守番電話 2018年3月25日


倉庫を整理しているときに見つけた、古い留守電録音機能付き固定電話。好奇心から録音データを再生してみるが……。

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 十月二十日。私は父の代から使わなくなったものを色々と突っ込んだ挙句に収拾がつかなくなり、戸を固く閉ざすことで見て見ぬふりに成功した倉庫の鍵を、封じていた錠前に差し込む。赤茶けた粉とともに古い南京錠が外れ、シャッターに手をかけて上へ押し上げると、耳障りな音とともに家族代々の罪──いささか大げさすぎるだろうか──と相見える。
 中には大量のガラクタが散らばっていた。中学生の半ばくらいで部活をやめた結果、日の目を浴びなくなった凸凹のアルミ製バット。小学生くらいまで乗っていた古く小さな自転車。大枚はたいて父が購入したものの使い方がわからず、ろくに触れもしなかったデスクトップパソコン。そのほか、シミやシバンムシが跋扈していると思われる日焼けしていない書籍や何が入っているかわからない段ボール箱などなど、家族の歴史の枝葉末節が積み重なっていた。
「懐かしいな」
 私が中に踏み込むと、ほこりっぽい臭いと古い紙の匂いが鼻を覆う。袖で口をふさいで、どこから手を付けようかと逡巡していると、仕事場が大阪のおかげで標準語と関西弁が中途半端に入り混じった──俗に言う似非関西弁だ──弟の声が後ろから聞こえてきた。
「兄ちゃん、こんなぐちゃぐちゃなもん放置してたんか?」
 流石に私一人では、こんな混沌としたものを片付けられないとわかっていたので、半ば巻き込む形で弟を呼ぶことにしたのだった。尤も、お礼としてこっちにいる間に飯をおごると言ったら、弟は喜んでいたのだが。
「マスク、あったか?」
「ほれ」すでにマスクを着け軍手をはめている弟が、私に紙マスクを差し出す。「それでどこから?」
 私がマスクを着けて棚の上を指さすと、弟は黙って棚の上の段ボール箱──小さな色々なものが蠢くのが見えたのは光の錯覚だろう──を床におろす。ふたには『雑貨』とフェルトペンで書かれていた。段ボール箱を持ち上げた私はそれを、倉庫の外に運び出した。
 
 何度もその作業を繰り返し、倉庫がほとんど空になった頃。弟の「兄ちゃん、これみてみい」という声が、外で捨てるものと保管するものを分別していた私の耳に届く。振り向くと、中くらいの大きさの段ボール箱を抱えている弟がいた。『みかん』と印刷されている箱だが、中身は違っていて欲しい。
「なんだ?」
「固定電話や。最近見いひんからな」
 そういって弟が段ボール箱を外に出して地面に置く。中を開けてみると、確かに昔使っていた記憶のある固定電話だった。使っていたといっても買ってすぐに壊れたか何かで、父親が倉庫にしまい込んでしまったものだったのだが。
「今じゃ、スマフォがありゃ何とでもなる。これも珍しいもんやないか」
「まあな」
 弟が思いついたかのように「せや、コンセント繋いだら留守電が録音されてたりせんかな?」と私に聞いてくる。こういう無駄な思い付きは弟の専売特許だ。
「聞いてどうする? というか、残っている保証もないだろう」
「まあまあ、物は試しってやっちゃ。もしかしたら、死んだお袋の声でも残っとるかも知らん」
 私はため息をついた。何年も一緒に過ごしてきて身に染みていることだが、弟は一度決めたらやるまでごね続ける。多分、今回も例外ではない。
「わかったわかった。その代わり、倉庫の整理が終わってからな」
「もちろん。さあ、ぱっぱと片付けんよ」

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 夕闇が差し込むころになって、ようやっと倉庫の整理は終わった。結局ほとんどの物を捨てることとなり、そこには思い出が多少なりとある金属バットや自転車、デスクトップパソコンも含まれていた。予想通り虫の巣窟と化していた本は開くことも憚られたため、とりあえず雨のあたらないところに保管して、資源回収の日にまとめて捨てることになった。
 というわけで、家のコンセントに──幸か不幸か、電源コードから子機まで必要なものはすべて段ボール箱に入っていた──古い固定電話のACアダプターを接続すると、赤い留守電ランプが点滅し始める。子供のころの記憶を掘り返してみると、これは留守電が録音されているというサインだったはずだ。
「お、録音されとるみたいや」
 ご機嫌な声の弟が留守電ボタンを押すと、耳障りな電子音と〈八月二十一日〉という合成音声のアナウンスの後に『聡、おばあちゃんだよ。電話したのだけれど、忙しいみたいだね。あとでかけなおすよ』というゆがんだ声がスピーカーから流れ出てきた。
「聡やから……父方のばあちゃんやね」
「ばあちゃんか。懐かしいなあ」
 思わず言葉が口をつく。父方の祖母は私が十四歳、弟が十歳ころにひき逃げ事故で三日間ほど生死をさまよった後に、多臓器不全で亡くなった。遠くに住んでいてあまり会えなかったのもあって思い出は多くないが、会うときにはいつも親切にしてくれたので、葬式では大泣きしたのを覚えている。たしかあの日は、九月二十二日だったはずだ。
 また、スピーカーから電子音が聞こえてくる。
『〈九月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。孫たちは元気かい? ばあちゃん、体が痛くてねえ。また、暇を見て電話をおくれ』
「ばあちゃん、結構な頻度で電話かけてきていたんだな」
 私が懐かしむようにつぶやくと、弟も同意するように頷いた。
「せやなあ。あんまり覚え……」突然、弟の顔が青ざめる。「……まてや兄ちゃん。ばあちゃん、事故にあったの何月何日やった?」
 突然聞かれ、私はしどろもどろになりながら「え? 九月十九日だろ?」と答える。
「今の録音があったの、九月二十日やったぞ? おかしいと思わんか?」
 そう言われれば、確かにおかしい。事故があった後、祖母は意識不明だったのだから電話など掛けられるわけもない。だが、何年かというアナウンスがないことを考えると、もしかしたら事故に遭う前年の録音かもしれない。
「待て待て。何年の九月十九日かわからないだろ? もしかしたら、事故に遭う前の年かもしれないじゃないか」
「俺もあんまり記憶力がいいとは言えん方や。でもな、この電話買ったんは俺が九歳の時だったんは覚えとる。誕生日の日の前日にこの電話買って、翌日俺の誕生日プレゼントを買ったんやから。そいで、でけえ買い物を二回もしたのはあれが最初で最後なんや。よう考えてみ、俺の誕生日はいつや」
「十一月二十日……」
 サアッっという、血の気の引く音が耳の奥で聞こえる。その時、またしても電子音が聞こえてきた。
『〈九月二十三日〉聡、おばあちゃんだよ。妙に前が暗くてねえ、目も見えなくなったのかねえ。聡の方はどうだい? たまには電話してきておくれ』
 そうだ、確かに弟の言う通りだ、この電話はおかしい。
 あの時のことを思い出す。新しく買った電話を一年も使わずに倉庫へ仕舞った父の行動がおかしいと、当時中学生だった私は思っていた。それで仕舞い込んだ後の父を問い詰めようとしたものの、あまりにも顔が青ざめていたせいで尋ねることができなかったのだ。
「どうするんや兄ちゃん。コンセント抜くか」
 ただでさえ早い弟の口調がさらに早くなる。だが、私は怖いもの見たさと何が起きるかわからない恐怖が競り合った結果、「いや、最後まで聞くぞ」と呟いた。
「正気か? 何が起きるかわかったもんやない」
「あんな汚い倉庫にしまわれていたんだ、機械が壊れたっておかしくない。それにただの録音なんだ、何も起きはしないさ」正直な話、全くその言葉に自信はなく、声も震えていただろう。
 それでも、怖いもの見たさという名の好奇心が私の背中を押していた。
『〈十月十三日〉聡、おばあちゃんだよ。最近、電話くれなくなったねえ。会いに行ってもいいかい、都合の付く日を教えておくれよ』
 そのメッセージを聞いた後、弟はため息をついて「……なあ、兄ちゃん。父ちゃんが倉庫に電話仕舞ったん、いつやったっけ。確か、俺の誕生日には変わっとったよな」と尋ねる。
 私はというと、以前読んだW・W・ジェイコブズの『猿の手』を思い出していた。あれでは、死者が家に訪ねてきたではないか。
 何も答えずにいると、耳障りな電子音が、まるで誰かの来訪を知らせるチャイムのようにスピーカーから鳴り響く。私は思わず身を固め、出てくるメッセージを待ち受けた。
『〈十月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。お前たちの顔がみたくなったから、今日お前の家に──』
 その時、突然立ち上がった弟が固定電話を持ち上げ、勢いよく床にたたきつけた。ACアダプターが外れ、強い力で叩きつけられた電話機はバラバラに砕け散る。当然、電話機は沈黙した。
 突拍子もない弟の行動に、素っ頓狂な声で「いきなり何を?」と聞くと、弟がみたこともないような顔で私をにらみつけてきた。
「兄ちゃん、俺はあんまり心霊だとかオカルトだとかは信じへん。でもな、今回は物がちゃう。これはやらせだとかそういうもんやない、あかん奴や」その気迫に押された私は黙り込んでしまった。
 突然、段ボール箱に入っていた機能していないはずの子機に着信が入る。
 誰が出るか、予想はできていた。だからこそ、私は恐る恐るスピーカーを耳に当てた。
「もしもし」
『里麻かい?』ひずんではいたものの、スピーカーの向こうから聞こえてくる声は紛れもなく、父方の祖母の声だった。『大きくなったねえ、おばあちゃんだよ。さっきも言ったんだけどねえ、今からそっちに行くからねえ』
 そういって、電話が切れる。
 次は私が弟に叫ぶ番だった。
「玄関の鍵を閉めろ」
 叫ぶと同時に、玄関からみょうに湿ったようなドアをたたく音が響いてきた。思わず、私たち二人は顔を見合わせる。
「里麻、一馬、おばあちゃんだよ。開けておくれ」
 そのはっきりとした声は、玄関のドアの向こうから、聞こえてきた。

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ダブル【R-15】


魅力的な男に好意を寄せる女性。しかし男の裏の顔は凄惨を極める、恐ろしい顔だった……。

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【注意】この小説には過激な表現・暴力表現などが含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 大講堂に入ると、いつも通りあの人が前の方の席に座ってノートを開いているのが見えた。私だって来るのが遅いわけではないはずなのに、あの人はいつも私よりも早く椅子に座っている。
「おはよう」
 後ろから声をかけると彼が体を捻って私のほうに向きなおる。彼の低く、心に響くような「やあ、おはよう」という声が耳に届く。私はというと、そのなんともないやりとりがうれしくて、舞い上がるような気持ちを抑えながら彼の左隣の席に座った。
 あの人は群を抜いてかっこいいとも、アイドルのように整っているとも言えない。けれど、たくましい顔の骨格、ほんの少しだけ生やしている髭、少し縮れた髪の毛を軽くまとめただけの髪型。少し荒々しい感じを覚える外見は、やさしく開かれた目とすらりと伸びた鼻のおかげで中和し合い、とても魅力的だ。私の知り合いに見せたら、大抵の人がかっこいいというくらいには。
 いいところはそれだけじゃない。なにより気が利いて、やさしい人。自分でもくだらないと思うようなことを聞いても笑いながら教えてくれて、何度聞いても怒らない。あの人が彼氏だったら、毎日がとても楽しいだろう。
 ふと、彼の右隣の席に目を向ける。そこはいつも私の友人の指定席なのだけれど、まだ誰も座っていない。
 そういえば、昨日から彼女の姿を見ていない。よく授業をサボる子ではあったものの──そのせいでいつもノートを見せていた──二日連続でサボるというのはあまり見たことがなかった。あまりに続くようなら一度部屋を訪ねた方がいいかもしれない、そんなことをぼんやり考えていると、ドアを開けて教授が入ってきて教壇に荷物を置いた。
 あわててノートを開く。そして、先ほど考えていたことを頭の隅に追いやって、授業が始まるのを待った。
 
 空気が冷たい。空腹も相まって、宙づりになっている自分の裸体から冷たい空気へ、生きる気力が吸われていくような錯覚に陥る。
 金属パイプを挟むように縛られている両腕を、体重をかけて力いっぱい引っ張ってみる。手錠と金属がこすりあうけたたましい音こそ聞こえてくるものの、音が鳴るだけで外れそうもない。何回か繰り返していると、骨同士がこすれ合うような耳障りな音とともに手首から肩まで激痛が走った。
 痛みに耐えながら足を引っ張ってみるものの、なにか重いものが縛り付けられているらしく、何度か試してみたものの足は動きそうになかった。
 引っ張るのをやめて、叫んでみた。色々なものが混じってひどい悪臭の猿ぐつわと口に貼られたガムテープのせいでくぐもった、「誰か助けて!」という声は誰にも聞こえていないのか、暗く湿った地下室にくる人は誰もいない。
 その時だった。地下室のドアが開き、階段に光が差し込む。一抹の希望を胸に光へ目を向ける。ドアの前に立つ人影と地下室の闇が、光を縦に分割するかのように黒い仕切りを造っていた。
 精いっぱい叫んで、痛みを無視して何度かパイプを打ち鳴らす。人影が階段を下りる。電気がともり、乱雑な地下室の様相を映し出す。
 階段を下りてきたのはあの男だった。大学の同級生で、自分と仲がいいと思い込んでいた男。
 そうだ、一昨日のことだ。「家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」という誘いに乗らなければ、私はこんな目に合わなかった。あの時はデートの誘いに舞い上がっていたけれど、今は自分の不用心さに腹が立つ。
「たくましいな」
 男がぞっとするような低い声で私に話しかけながら、縛り付けられている私の前に立つ。タマを潰してやろうと足を振りかぶったけれど、動かないのを思い出した。
「あまり暴れないでくれ。掃除が大変なんだ」
 そういって男が近づいてくる。私がにらみつけると突然、不機嫌そうな顔になって腹を殴りつける。息が詰まるような感覚。少し遅れて、鈍くのしかかるような痛みが背筋からじわりじわりと体中へ広がる。空っぽの胃から出てきた胃液が舌の根にこびりついて唾液があふれ、猿ぐつわに染み込む。
 もう一発。男は私の目を見ない。容赦ない暴力が私を襲う。血の味が口に広がる。視界が暗くなる。
「おい、起きろよ」
 男が私の体を揺さぶる。けれど、闇に向かう流れに自分の体を横たえてしまいたかった。このまま目が覚めなければ、この地獄から逃げ出すことができるのに。闇に向かってしまえば、嫌な現実から逃げ出すことができるのに。
 私は自分の体を流れるままに任せようと、力を抜いた。
 その時、氷水を全身に浴びて一気に現実へ引き戻されたと同時に希望が打ち砕かれる。顔を上げると、目の前に空のバケツを持った男が立っていた。体を震えが駆け巡る。
「寝るんじゃねえ」
 空のバケツで私を殴りつける。頬に鋭い痛みが走る。
 男は顎の下に手を差し込み、項垂れている頭を持ち上げた。冷たい目をした男と目が合う。
「まだ、これからだからな」
 その顔は気味悪く笑っていた。

 翌日。いつも通りに購買で昼食のパンとコーヒーを買っていると、彼と彼の友人が言い争っているのが聞こえてきた。
 思わず耳をそばだてる。どうも、彼が友人へ貸したノートの内容がめちゃくちゃだったせいで、試験が散々だったらしい。
「お前のせいで試験に落ちたんだぞ、どうしてくれる」
 彼の友人が激しい口調で彼を責め立てる。すると、彼は微笑みながら「ノートをまともに取らなかったから悪いんだ。勉強ができなかった俺の身にもなってくれよ」と言い返す。
 その言葉が逆鱗に触れたらしく、彼の友人は「絶交だ」と叫びながら机を殴りつけて席を立ち、どこかへと行ってしまった。
 近寄ると、彼は私が手に持っていた袋を見て、先ほどと変わらない顔で「昼ご飯?」と尋ねる。
「うん。そこ、座っていい?」
 彼の友人が座っていた席を指さすと、彼は「いやいや、あいつが座った席なんて」と彼の隣を指さした。隣に座ると、彼は私を見ながら肩をすくめた。
「全く。ひどい言いがかりだとは思わないか?」
 きっと彼は先ほど話していたことを話しているのだろう。そう考えて、「そうかもしれないね」と答える。
「言われたからそうしただけで、見返りも何も求めなかったんだ。それに人間って、間違えるのが普通だろう? 間違えたことを責め立てられても、何もできないと思わないか?」
 彼の言うことも間違っていない。誰だって──私自身も含め──間違ってしまうものだし、彼が善意で貸したのだというのも事実だ。だからこそ、責められる筋合いはないということなのだろう。
 私が頷くと、彼は「わかってくれると思ったよ」と私の目を見る。まるで鋭い視線に射抜かれたような、身震いに近いぞわぞわする感覚が私の背筋を襲う。それは人の目を見てきて今まで体験したことのない、不思議な感覚だった。
 その時、彼がタイミング悪く腕時計に目を遣り、「あ、申し込みに行かないと」と椅子から立ち上がる。隣からいなくなってしまうという残念な気持ちを表に出さないようにしながら、「それじゃあ、またね」と声を絞り出した。
「じゃ。楽しんで」
 そういって、突然肩を軽く触る。不思議と、不快感はなかった。

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 もう、どうでもよくなってきた。震えもずいぶん前に止まってしまって、息をするのもつらくなってきた。今がいつなのかもわからない。誰か、お父さんかお母さんが、私を探し出してくれるだろうか。
 その時、顔に激痛が走る。
 落ち込んでいた意識がいきなり浮かび上がり、溺れかけた人が水面に顔を出した時のように、息を深く吸い込む。
「おい、まだ大丈夫だろ」
 あいつの声が聞こえる。顎の下に手を入れられて、顔が持ち上げられる。二度と見たくなかったあいつの顔が、目の前にあった。
「前は一日半も持たなかったんだ。お前なら、二日くらい持つだろ」
 腹にパンチが飛んでくる。もう染み込む余地もない猿ぐつわに胃液がまとわりついて、口の中を苦いような酸っぱいような味が満たす。もう、出てくる唾液は枯れていた。
「悲鳴は良かったが、体力がなあ……」わき腹に一撃を食らい、思わず息が詰まる。「そういえば、どんなふうに叫ぶんだ?」
 あいつが顎から手を外し、乱暴にガムテープを引き剥がして私の口に噛ませていた猿ぐつわを取りながら「うへえ、見ろよこれ」と嘲笑する。すかさず痛む腹に精一杯の力を込めて、助けを呼ぶために叫んだけれど、あいつはにやにや笑っていた。
「ここは空き家で近くに家はないんだ。誰も来ねえよ」またしても腹に一撃を食らい、制御できないうめき声が口から漏れ出す。「へえ、カエルのつぶれたような声だな」
 このままでは確実に私は死ぬ。そう思って反射的に足を動かそうとしたけれど、縛られているのを思い出す。ついでに吊るされているせいで、腕もまともに動かすことができないことも。
 なんとか働かない頭で考える。それで、一つだけ抵抗する方法を思いついた。
「本当根性あるよな」
 あいつがまた顎の下に手を入れようと手を伸ばす。
──今だ。
 あいつの手の動きをとらえ、私は首を伸ばして思いっきりかみついた。
 安っぽい牛肉のような筋張った食感と血の味が口の中に広がる。あいつの大きく開かれた口から悪魔のような悲鳴が聞こえてくる。
 脛を強か蹴りつけられ、痛みで手を口から放す。見ると、あいつの右手にはっきりとした歯型が刻まれていて、血が噛み跡から肘にかけて黒い筋を作っていた。
「この、クソアマ!」
 膝蹴りが脇腹にあたり、骨の折れる音が聞こえる。ほぼ同時に、今まで感じてきた痛みをすべて足したよりもひどいような痛みが体をかけぬけ、息ができなくなる。次いで左頬に拳が当たって、目の前に火花が飛んで視界が白む。
 ぼやけた頭をなんとか振る。その時、神経を焼くような痛みが左胸から広がって体中を駆け巡り、白んでいた視界が像を結ぶ。
 目を落とすと、裸の左胸にナイフが突き立っていて、その傷口からどくどくと赤黒い液体が噴き出していた。
 目が離せない。
「あ……ああ……」
 無意識に声が出た。
 血が噴き出す度に体温が失われ、命が流れ出すのを感じていた。
 それと同時に、私の意識もけずりとられていった。

 講堂に入ると、右手に包帯をした彼が授業の準備をしていた。
 おもわず早足になって、いつもの席に向かう。すると彼は、怪我しているのにもかかわらず「やあ、おはよう」と何もなかったかのように声をかけてくる。
「どうしたのその怪我?」
「ん?」彼が自分の右手を振る。「ああ、実家で飼っているペットに噛まれてね。全く、どこで躾を間違えたんだろうね」
 気が気でないまま席に座って「大丈夫なの?」と聞くと、彼は「心配しないでいいよ」と言って微笑んだ。
「そうならいいけど……」
「あ、そうだ」彼が思い出したように私のほうを見る。「今日の夜、暇かな?」
 突然変えられた話題に何とかついていこうと、頭の中を探る。特に予定はなかったはずだ。
「うん、特に何もないけど」
 そういうと、彼が珍しく首をかしげて私の目を見据えた。
「じゃあ、無理ならいいんだけどさ。家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」

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F to F 2018年2月27日


誰もいないのに話し続ける青年。それを遠目から眺める老人。最後に待ち受ける二人の共通項。二人は何と顔を合わせたのか?

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 私は行きつけの喫茶店のお気に入りの席に座りながら、ある小説を読んでいた。年を取ってしまうと細かい字を読むのも難儀してしまうが、何十年と生きるうちに体に染み付いてしまった習慣というのをこそげ落とすのは、老人にはあまりに痛みを伴う行為だった。
 ページをめくる。店内には大学生かそれとも社会人か、若い男が一人いるだけだ。いつもこの時間なら顔なじみのマスターを除いて誰もいないのだが、今日は珍しい。
「あ、来た。……なるほど、準備に手間取ってたのか」
 男が誰かに向かって話し始める。はて、誰か席に座っていただろうか。否、ドアベルすら鳴っていない。誰か来たらカランカランと音が鳴るはずだ。
 違和感と少しの好奇心に駆られた私が文章から目を上げると、青年が目の前の空いた席に向かって笑いかけているのが見える。やはり、彼の目の前の席には誰も座っていない。
「本当綺麗な黒髪だよな。それだけ長いと、ケアも大変そうだが。……やっぱり慣れるんだな。注文は?」
 彼が手を上げてマスターを呼び、アイスコーヒーを一つ注文する。彼の前にはまだ湯気を上げているホットコーヒーが既にあるというのに。
 私は非日常感に飲まれ始めているのを感じていた。六十年以上生きているが、そんな光景は初めてのことだったからだ。
 マスターが注文のアイスコーヒーを持ってくる間にも、彼は誰もいない空間に向けて話しかけていた。歩いているマスターと目が合う。どうも、マスターも同じような違和感を覚えているようだ。
 私は本を閉じて、彼に感づかれないようにしながら彼の話を聞き始める。心の底では見慣れないものを見てしまった恐怖から、家に帰ってしまうという選択肢も考えた。だが、顔なじみのマスターをこの異様な空間に一人置いていくのはあまりに薄情だという声が、私をいつも座っているこの席にとどめていた。
「ありがとうございます」
 マスターが下がってカウンターの中へ戻っていく。その所作を見る限り、内心怯えているようだ。とはいえ、無理もない。いくらか距離の離れている私だって、怯えているのだから。
「そういえば、いつもその赤と黒のワンピースだよな。一体、何着持ってるんだ?」
 どうも彼にしか見えていないその人物は、長く綺麗な黒い髪を持ち、赤と黒のワンピースをいつも着ているらしい。今まで聞いてきたことを纏めてみると、私は彼が見ているのは女性ではないだろうかと考えていた。とはいえ私には見えていないのだから、年齢も顔も想像するしかないのだが。
「そういえば、今日はどうしようか。珍しく俺の家じゃないけど。……買い物か、何欲しいんだ? 服?」
 彼は不服そうに呟く。そういえば、私も女性の買い物についていくのは嫌いだったなんてことを思い出す。だが思い出をかき消すような光景が今この時、目の前に広がっている。
「唇が薄いこととか目が大きくないこととか、気にしなくていいと思うが……十分、今のままで美人だし、肌も白くてきれいだ」
 私は脳内の女性の姿に、彼の言ったことを付け加えていく。薄い唇、あまり大きくない目、そして白い肌の美人であるということ。少しずつ、私の中で目の前にいる『彼女』が像を結び始める。
「ごめん、気に障ったか」
 彼が謝るかのように、目の前の空間へ頭を下げる。その時、マスターが近寄ってきていつの間にか無くなっていたコーヒーをデキャンタからカップにほんの少し注ぐ。注ぎ終わると、短い鉛筆と紙を自分の体で隠しながら私へ差し出して、カウンターへ戻っていく。紙にはすでに、「彼は一体何をしているんだ」と書かれていた。
 なるほど。確かに声を出して話せば、彼に聞かれてしまうだろう。もし彼がなんらかの自分の意志ではない原因でああいうことをしているのであれば、何が引き金になって何が起きるか分かったものではない。
 マスターの機転に感心しつつ、私は持ってきた数冊の本で鉛筆と紙を隠しながら、そこに彼女か女友達と話しているように見えるということとその外見を箇条書きにして書き連ねる。そして、カップに口をつけて飲むふりをしながら、彼の話に耳を傾けていた。高頻度でマスターを呼んでお代わりをしていては彼に疑われかねないことと、情報が欲しいと考えたこと故の行動だった。
 彼が「よく朴念仁と付き合う気になったもんだ」と自嘲気味に笑う。それを聞いた私は、メモに書いてあった女友達という部分を横棒で消す。
 私はその場の異様さに慣れてきているのを感じていた。彼を中心にして広がる狂気に私も少しずつ染められていくような、まるで彼と知識を共有しているかのような、そんな気持ちがしていた。それと共に、『彼女』の像がはっきりとしていく。
「相変わらず意図がつかみにくいな。感情なんて、人ならだれでもあるだろうに」
 そのとおりだ。私も丁度今、人間ならば持ち合わせているその感情──恐怖──に苛まれている。
「まさか自分がそうだ、なんてことは言わないよな? 変なこと言わないでくれよ。……待ってくれ、俺がまだ飲み終わってない。飲み終わったら行こう」
 彼はカップに口をつける。その文脈からして目の前にいる『彼女』はアイスコーヒーを飲み終えているのだろうが、当然ながら誰も口をつけていないコーヒーが減るわけはない。
 私は彼が見ている現実と私が見ている現実が異なるのではないかと気づいた。では、どちらが現実に沿っているのか。私とマスターが見ている彼の目の間に誰もいない現実か、それとも彼が見ている彼女が目の前にいる現実か。口の中が粘つき始めるのを感じる。どちらが正しく、どちらが間違いなのか。若しくはどちらとも間違いなのか。
 混乱し始めた思考をリセットしようとして、カップに口をつける。だが、すべて飲み干していたのを忘れていた。私はマスターを呼んで、コーヒーを注いでもらうと同時にメモをひそかに渡す。マスターはメモを一瞥して、またカウンターへ戻っていった。
 それからさほど時間もかからず、コーヒーを飲み終えた彼はカップをソーサーに置き──今まで気づかなかったが──椅子の下に置いてあったカバンを手に持つ。そして、「お会計お願いします」という声と共に立ち上がってレジへ向かう。
 マスターはレジに向かい、一人しかいないのに二人分のお金を支払う彼の精算をし始める。私は彼がこちら側を向いていないことを良いことに、椅子の背を手すりのようにして体をひねり、彼の背中を見つめて考えていた。
 一体どちらの現実が正しいのだろうか。私は何十年と過ごしてきて、奇怪なものも目にしてきている。多数の意見が正しいとも限らないということも知っている。そして、自らの見たものが必ずしも正しいとは限らないという経験もしてきた。とくに最近は自らの体の衰えのせいで、そういう経験がより増えてきたように感じる。
 では、この光景は?
 自分が立っている足場が崩れ去ってしまったかのような気持ちがする。自分を信じられないことがこれほど恐怖だとは知らなかった。
 支払いを終えた彼がドアを開けて──この時はドアベルが鳴った──外へ出ていく。彼はきっと、彼女と一緒に買い物に行くのだろう。
 緊張し平静でいられなくなった臓腑が、大量の血液を求める響きを感じる。私はもう閉まってしまったドアを見つめたまま、開いている右手でテーブルの上をまさぐりコーヒーカップを掴む。そうだ、こんな苦く受け入れがたい考えは、同じく苦いもので流し込んでしまえばいい。それに二度と彼と会うことはないのだから、彼と私の世界が混じり合ってしまうことはないのだ。
 変な体験は忘れてしまうに限る。それは私の生涯で見つけ出した処世術の一つだった。
 コーヒーを飲もうと正面を向いた私は、カップを取り落とす。少しだけ冷めてしまった黒い液体が腹にかかるのを感じ、白く無垢なカップが割れる音が耳に届く。けれど、目の前にいる存在がそれを忘れさせてしまった。
 私の前にある椅子に、私が想像していたよりも少し年を取ったように見える彼女が座っていた。漆黒の髪との対比が眩しい白い肌、少しだけ退屈そうに閉じられている目、黒い袖以外は血のような赤をしたワンピース、そして薄紅色をした唇。
「どちらの現実も正しいの」薄い唇を少しだけ持ち上げ、彼女がほほ笑む。「だって、あなたたち二人とも恐怖を抱いているから」
 その刹那、体の奥から響いていた血液の音は私の恐怖に耐えきれず、止んだ。

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2018年2月13日


電車の中で出会った少女に見つめられてから、 異様な光景を目にするようになった彼。最後に彼を待ち受けるものとは……。

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 ほとんど人のいない穏やかに揺れる電車の中で、僕は見ていたスマートフォンからなんともなしに目を上げる。窓の外はもう宵闇にのまれており、時たま映る街灯や踏切の信号が殺虫灯に飛び込む蛾のように僕の目に入ってきた。
 いつも読んでいるペーパーバックを持ってくるのを忘れた僕は、ただただ流れる外の景色を見ながら他愛もないこと──バイトが面倒だとか家族は何しているだろうとか──を、ぼうっと考えていた。
 ふと周りを見渡すと、中学生くらいだろうか、化粧をしているわけではないけれど整った顔の女の子と目が合う。
 長い黒髪を綺麗に梳き、大きな目が少しだけ眠たげに閉じられている、鼻筋の通った人形のような白い顔。この時期に似合わない、黒い袖をした赤いワンピースと黒いストッキング、赤いパンプスを履いた少女。その周りに親のような人の姿はない。
 そんな子が薄い唇をほんの少しだけ曲げて、微笑みながらずっと僕を見つめている。僕が顔を少し動かすと、彼女の黒目も一緒に付いてくる。
 僕は思わず顔をしかめる。そんなに不審者みたいな服装はしていないはずだが、なにか気になることがあるのだろうか。とはいえ妙な動きをしたらこのご時世、本当に不審者になるか捕まることだろう。僕は無視して下を向き、待ち受け画面を家族写真にしているスマートフォンのロックを外す。
 そして、僕はそのまま固まった。
 待ち受け画面に映る家族みんなが僕を見つめていたからだ。写真の中に映る僕自身でさえも。もちろん、そんな風に撮った覚えはない。第一、顔を動かせば黒目も一緒に動く写真なんて、そうそうあるもんじゃない。
 僕は思わず目をつぶる。これは幻覚だ、頭の中の何処かがおかしくなったかなんかで、見えないものが見えてしまうのだろう。
 目を開いてもう一度写真を見る。
 家族全員から見られていた。
 幻覚を振り払うように頭を振ってもう一度。
 見られている。それどころか、皆の目が気味の悪いほどに見開かれている。こんな写真じゃなかった、それだけは確かだ。
 その様子があまりにも不気味で、僕はスリープモードにするのも忘れてスマートフォンをポケットに突っ込む。その時、ちょうど電車が駅で止まってドアが開き、何人かがガヤガヤと騒ぎ立てながら乗り込んできた。
 僕は思わず後ずさろうとして、電車のガラス窓に頭を強か打ち付ける。
 乗客全員に見られている。楽しそうに話す大学生や高校生も、一人寂しく乗り込んでいる高齢者も、皆が皆僕の方を見て薄ら笑いを浮かべていた。学生に至っては、話している相手じゃなくて僕を見ている。
 おかしい、こんなことがあるわけない。
 僕が誰もいない真正面を見ると、ガラス窓に座っている僕の姿が映る。
 その『僕』も、僕の目を見て薄ら笑いを浮かべていた。
 僕は床に目を落とす。すると誰かの靴跡と思わしき泥の跡が、顔のようになっていた。その目にあたる部分が僕の目を捕らえるかのように動く。僕がすかさず上を見ると、電車の天井に健康食品の広告が貼りだされていた。
 女性がサプリメントの容器を持って笑っている、良くあるタイプのあれだ。でも、その目はやはり僕を見つめていた。慌てて目を背けると、次は週刊誌の広告が目に入る。最近話題になった俳優の特集を組んでいるようで、その俳優の写真がでかでかと掲げられていた。
 そして、その目は、僕を見ていた。
 目から逃れられないと悟った僕は目をつぶる。こうすれば目の前にあるのは闇だけだ。そこに目は存在しなくなる。
 そう思っていた。
 けれど、最近見た映画のワンシーンが何ともなしに頭をよぎる。その登場人物はこちらを見つめては、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべていた。僕は首を振って頭に浮かんでいた映像を振り払う。すると、次は最近聞いた音楽のプロモーションビデオが目に浮かんできた。それはよくあるタイプの歌手のライブ映像を切り取った物だったけれど、やはり歌手も僕を見ては笑っていた。
 瞼は僕を守ってくれない。そう気づいて目を開ける。
 半狂乱になりそうな自分を抑えつつ──こんな公共の場で暴れれば間違いなく迷惑だという思考はまだ残っていた──僕は出来る限り誰とも目を合わせないように下を向きながら、僕は椅子から立ち上がって歩き始める。
 何処かに人が居ない車両があるはず。そんな微かな期待を抱きながら。

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 なんとか揺れる電車の中を歩き通して一号車までくると、そこには誰もいなかった。上手く場所さえ選べば広告も目に入らないし、ブラインドを下げれば窓に映る僕の姿も見えなくなる。
 ほっと胸をなでおろし、いやいやながら目を広告に合わせつつ歩いていくと、ただの風景が書いてある広告が貼られている場所を見つけた。僕はすかさず対面にある窓のブラインドを下げ、ため息をついてからシートに腰かける。
 やっと冷静になった僕は、バイト先に休みの連絡を入れようかと迷っていた。こんな状況じゃバイトもままならないのは明らかだ。一日寝れば少しは気分も良くなるかもしれない。
 結局、休むことに決めた僕は指の動きだけでロックを外し、出来る限り家族写真を見ないようにしながら──その間も目は合っていたけれど──電話アプリを開いて、登録してあるバイト先に電話を掛ける。電車の中で電話を掛けるのはマナー違反だが、切羽詰まっているこの状況でやむを得ない。
 自分をそうやって正当化しつつ数コール後に出た店長に具合が悪いことを伝えると、店長は「ゆっくり休め、何とか回すから。別の日にシフトを入れておく」と言ってくれた。僕は感謝の言葉を告げてから電話を切ってスマートフォンをポケットに仕舞う。
 少ししたら停車駅だ。そこで降りて、下りの電車に乗り換えて人の顔を見ないようにしながら部屋に帰って横になろう。そうすれば誰とも目を合わせずに済む。明日になれば、きっと誰とも目が合わなくなることだろう。なに、一日寝れば大抵の問題は解決するんだ。
 しかし、いったいどうしてこんなことになったのか。あの少女と目を合わせて以来こうなってしまったが、彼女がきっかけなのだろうか。それとも、僕が元々おかしくてこうなったのか。
 少し考えてみて、結論が出なかった僕は考えるのを止めた。どうでもいい、とりあえずは人の顔を見なければこんな不気味な経験をせずに済む。それに電話なら目を合わせずに済むのだから、お母さんに相談してみよう。こんなことを終わらせる、いい方法を知っているかもしれない。
 電車が速度を落とす。そろそろ目的の停車駅だ。
 ホームに入り、窓の外が明るくなってゆるやかに流れていく。僕はポールを掴んで、手近なドアの前に立つ。ホームにほとんど人はいないようだ。
 エアコンプレッサーの音が聞こえてドアが開く。僕が降りると、ほどなくドアが閉まる。そして、あの不気味な電車が去っていく風切り音が後ろから聞こえた。
 僕はあたりを軽く見まわした。なにせほとんど使ったことのない駅だ。時刻表を見ないと、何時来るのかさっぱりわからない。広告やポスターに目を向けないように注意しつつ時刻表を探すと、ほどなく目的のものを見つけた。
 近くまで歩き、腕時計と照らし合わせながら僕はいつ下り電車が来るのかを見ていると、不意に後ろから「ねえねえ、お兄さん」という可愛い声が聞こえてきた。声からして中学生くらいの透き通った声。
 僕が振り向くと、電車の中に居た彼女が気配もなく僕の後ろに立っていた。僕の胸くらいの身長と見間違いようのないあの顔、そして服装。
 その目は、僕を見ていた。
 ヒューヒューという息遣いが聞こえて、心臓から送り出される血液が耳の奥でうなりを上げ、脇の下や手のひらがじっとりと湿るのを感じる。彼女は「そんなに目を合わせるのが怖いの?」と子供らしい声で僕に訊ねる。その質問に何も言えないまま、僕は彼女を見つめる。けれど、頭の中では色々なものが駆け巡っていた。
 なぜここに彼女がいる? なぜ僕が人と目を合わせたくないと知っている? 一体いつから後ろに立っていた?
 そして、彼女は一体何者だ?
「そんなに怖いなら──」彼女が不気味な顔でにやりと笑う。その顔は人間とは思えないほど口角が吊り上がっていて、ともすれば引きつっているようだった。「──誰とも目を合わせないで済むようにしてあげるよ」
 その瞬間、彼女の目がすべて白く染まる。いや、彼女が目をぐるりと回して、僕に白目を剥く。
 同時に、周りのポスターや広告の人間たちの目も、一斉に白く染まった。

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[怖い話]第11話 三ツ辻 2018年1月6日


これは知人の体験談…
※文章で頂いたので原文のままです

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 私の家の近くには、外出するときは大体通ることになる三ツ辻がある。

 ある晴れた日。周りに人がほとんどいないとき。

 その三ツ辻を通ったとき、ふと寒気がした。

 私には霊感なんてものはなく、せいぜい『なにかいる』と思ったら毛が逆立つ程度しかない。

 だが、その時の寒気は、『なにかいる』ときの寒気だった。

──あ、不味い。

 そう思った刹那、自分の左側から声が聞こえた。

「こっちきてえ」

 女の声だった。か細いがはっきりした声。

 声が聞こえた瞬間、私の肌はまるで毛をむしった後の鳥のように逆立つ。
 
 当然ながら、横目で見ても隣に人などいない。

 気づいたと同時に襲う寒気。背筋に冷や水を浴びせかけられたような、そんな寒気。

 すぐに歩幅を大股にして、その辻から逃げ去る。その私の体は汗で湿っていた。

 以来、何度か辻を通っているが、同じような現象には会っていない。

 しかし、辻は魔物をとどめると言う。ならば、今もまだあの女は辻にいるのだろうか……? できれば、二度と会いたくはない。

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パラレル 2017年12月27日


待ち合わせ場所の駅で降りた彼は、目の前に広がる街並みに違和感を覚える。その街から出ようとする彼だが……?

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『──駅。左側のドアが開きます』
 僕は読んでいた小説を閉じてカバンに仕舞う。電車が止まると同時に僕は立ち上がり、今までいた見慣れた電車の床から、くすんだような灰色と黄色いラインが引かれている駅のホームに立ち位置を移す。ホームの柵の向こうに見える駅の前には、青色や黄色のライトがまぶしい、イルミネーションが見えた。
 電光掲示板に次の電車の到着時間が表示されているのが見える。19:24、ここは一時間に一本くらいしか電車が来ないようだった。僕は周りを見回して、改札につながる階段を見つけた。初めて降りる駅だと、勝手がわからなくて時たまこういうことがある。
 今日は久しぶりに会う友人と一緒に食事をするということで、友人曰く「今まで食ってきた中で一番うまい店」に近い、この駅に来ることになった。予定では友人が駅の西口で待っていてくれるそうだが、果たして遅刻癖のあるあの子が時間通りにいるのやら。
 そんなことを考えつつ改札を抜けて西口に降りると、案の定、友人の姿はなかった。
「やっぱりか」
 この時期にしては冷たい風が頬を切りつける。思わず、コートの襟をあげた。
 ふと違和感を覚えて、周りを見回す。
「あれ……? まだ、18時なのに」
 駅前にある明かりと言うと、目の前に広がるイルミネーションと街灯しかない。普通この時間帯なら、駅前にある飲食店なりコンビニエンスストアなり、別の明かりも見えるはずなのに。それに、街灯に照らされているほとんどの店のシャッターが閉まっていた。確かに日曜ではあるけれど、閉まるにはあまりにも早すぎる。
 駅の近くのコンビニを見ると、やはり電気が消えていた。近寄って営業時間を見ると、閉店の時間はAM 0:00。僕はいつもしているデジタル腕時計のバックライトをつける。そこに表示される時間は18:12。
「おかしいな……」
 停電だろうか? しかし、それなら街灯はついていないはずだ。イルミネーションだって消える。
 安物の時計だから時間がずれているのかもしれないと思い、スマートフォンの時計を見ると18:14と表示されていた。
 何かあって突然閉店したのだろうか? しかし、それなら張り紙くらいしておくだろう。
「どういうことだ……?」
 何とも言えない不安に襲われる。明らかに何かがおかしい。僕は友人に電話しようと、電話帳を開いて友人の電話番号をタップする。スマートフォンを耳に当てると、そこから聞こえるのは「ツーツーツー」という音だった。
──電話がつながらない……?
 もう一度かけなおす。
 ツーツーツー。
 もう一度。
 ツーツーツー。
 僕はスマートフォンを耳に当てたまま、電源ボタンを押す。手が震え始めたのは、寒さのせいじゃなかった。尋常じゃない寒気が背筋を撫でる。明らかに、今の状況はおかしい。第一、なぜ「おかけになった電話番号は~」とか「ただいま電話に出ることが~」とか「現在圏外で~」なんて文言が流れない? なぜ、通話終了ボタンを押したときの「ツーツーツー」なんだ?
 我を忘れそうになるのを必死で堪え、僕はスマートフォンをポケットにしまう。あることを思いついて、すぐさま取り出してマップアプリを起動した。
 まさか、現在営業時間の店全部が閉まっているわけはないはずだ。マップアプリを使えば、現在営業時間内の店をピンポイントで探せる。そこで固定電話でも借りれば、どこかにつながるはずだ。それにあと一時間もすれば、また帰りの電車が来る。友人には悪いが、この妙な空間から逃げ出すには約束を反故にしたっていい。あとで詫びを入れればいいだけの話だ。
 ともかく、今はこの状況から逃げること。
 僕は手早くマップアプリに営業時間中の店を探すように要求する。ほどなくして、いくつかの店にピンが立てられる。GPSをオンにして、僕は一番近い店に走った。
 
 荒い息のまま、僕は手近な電柱に片手をつけた。
「どこも開いてないなんて……」
 10か所は回った。総計すれば、5 kmくらいにはなるはずだ。なのに、どこもシャッターが閉まっていたりドアを開けようとしても鍵がかかっていたりして、開いていなかった。途中であった交番も電気がついていなかった。
 走ったせいで掻いた汗を、寒風が舐める。僕は首を数回振って、ディスプレイを眺めてみた。あと行っていない店はここから2 kmもある。でも、その店はこの地域でもよく見るスーパーマーケット・チェーンだ。開いている可能性は十分ある。
 行くべきか行かないべきか? 電車の時間まではあと30分。走れば、2 kmくらい15分もしないで着く。でも、もし間に合わなければ、僕はもう一時間この状況に取り残されることになる。
 その時、車のクラクションが前の方から聞こえてきた。見ると、ハイビームのヘッドライトが僕を照らし、思わず腕で目を覆う。小鹿のように固まってしまった僕の近くまでその車は来て、目の前で止まる。
「兄さん、大丈夫かい?」
 優しそうな声がする方を見ると、止まったのはタクシーのようだった。会社の表示やロゴがないあたり、個人営業だろう。運転手のおじさんがタクシーの運転席から身を乗り出し、僕の方を不安そうに見ていた。
 僕は初めて会った人を見て驚き半分嬉しさ半分のまま、上ずった声で運転手に訊ねた。
「すみません、ここは何処ですか?」
「ここが何処か? ここは──」この場所の地名を運転手は口にする。「──だよ。どうしたんだい?」
「なんで、この町はこんなに早いのに全部店が閉まっているんです?」
「え?」運転手が驚いたように周りを見回す。すこしして、合点がいったように頷いた。「……ともかく、君を駅に送ろう」
 そういえば、あまりの非現実さに友人の存在を忘れていた。もしかしたら、友人が駅で待っているかもしれない。電話がつながらない今の状態じゃ、本当にいるかどうかなんてわからないけれど。
「すいません、お願いできますか」
「もちろんだ」
 運転手が降りて、ドアを開ける。僕は後部座席に座ってシートベルトを着けた。ドアを閉めた運転手は運転席に戻り、シートベルトを締めてメーターを回しはじめた。
「じゃあ行くよ」
「お願いします」
 そういって、電気のついていない町をタクシーは進んでいった。
 少し走ったところで、運転手が興味深そうに聞いてきた。
「また、どうしたんだい。こんな街の中で一人なんて」
「それが──」
 僕はここに至る経緯を運転手に説明した。待ち合わせ場所に来たのは良いものの友人が居なかったこと、街に感じた違和感の正体のこと、友人への電話が通じなかったこと、なんとか連絡を取ろうと町中を徘徊していたこと。
 すべて聞いた運転手は頷いて、「そいつは大変だったねえ……でも、遭難したときはあまり下手に動き回らない方がいいんだよ」と教えてくれた。
「遭難?」
「そう。君の状況はまるで遭難じゃないか、未知の場所で外と連絡を取れずに彷徨うなんて、遭難以外の何物でもないよ」
 言われてみれば、確かにそうだ。まさか、街中でこんな風に遭難することになるとは思ってもみなかったが。
「遭難して、友人の肉を食った登山グループの話もあるし……下手に動くのは良くないよ。今回は私が君を拾えたからいいけれど、そうじゃなかったらどうなっていたか」
「そうですね……」
 駅のイルミネーションが見えてくる。タクシーは駅前のロータリーを回って、タクシー乗り場に車をつけた。

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 僕が料金を支払いながら──友人とはいつも割り勘でたまにおごるため、今日も余分にお金は持ってきていた──運転手にお礼を告げると、「そんな。君こそ大変そうだったからね、気にしないで良いよ」とほほ笑んだ。
 開いたドアから僕は降りる。ドアの側に立っていた運転手さんに、改めて僕はお礼を言った。
「運転手さんが拾ってくれないと、何してたかわかりませんし。ありがとうございました」
「いいんだよ。じゃあ、気を付けるんだよ」
 そういって、運転手さんはドアを閉めて運転席に座る。そして僕が見送る中、タクシーを駆って街の闇の中に消えていった。
 今の時間は19:18。帰りの電車に乗るにはちょうどいいくらいの時間だ。安心感からゆっくりと改札をくぐって駅のホームに降りると、いきなりスマートフォンのけたたましい着信音が鳴り響いた。
 あわててスマートフォンをポケットから取り出し、受信ボタンをスライドさせて耳に当てる。すると、電話越しでも分かるほどの喧騒と友人の苛ついたような声が耳をつんざいた。
「おい、どこにいんだよ」
 その言葉に苛立ち、「おまえこそどこにいるんだよ。こっちは一時間も待ち合わせ場所の西口に居たんだぞ」ととげとげしい口調で返す。
「はあ? そっくりそのままそのセリフを返すぞ、畜生。何度電話しても出やしねえし、やっとつながったと思ったら嫌味か?」
「なんだって? こっちだってな……」その時、嫌な考えが頭をよぎる。「おい、今何時だ」
 いきなりそんなことを聞かれた友人は、虚をつかれたように変な声を出す。それでも、「19:24だ」と答えた。
 僕も腕時計を見る。19:24、間違いない。なのに、電車はおろかアナウンスすらない。遅延の連絡もない。そういえば、駅員は何処に行った? なんでこんなに電話越しに喧騒が聞こえるのに、僕は誰一人としてすれ違わなかった?
 嫌な予感に包まれる。僕は恐る恐る、口に出したくないことを口に出した。
「なあ、お前今どこに居るんだ」
「はあ?」友人は怪訝な声で「──駅の西口だけど」と言った。

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