スパークリングホラー
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ポストカード 2018年11月26日


ある日、郵便受けに入っていたのは、彼を被写体にした送り主不明のポストカード。初めは写真を見て懐かしんでいた彼だったが、あることに気が付いてから……。

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 週一回の買い物を終えて帰ってきた俺が荷物を置いてドアの裏側に付いている郵便受けを開けると、はがきが一枚滑り出てきた。
──なんだ?
 このご時世、はがきや手紙なんて送ってくる人が居るなんて。公共料金の領収書だとかダイレクトメールとかならわかるが。
 手に取って見ると、表には俺の住所と名前が綺麗な字で書かれていた。消印は昨日。文字の丸さから、なんとなく女性っぽい気がする。
 どこかでこの筆跡を見たことがあるような気もするが、どうにも思い出せない。さて、どこだったか。
「誰かに住所教えてたっけ……」
 女友達は居るものの、特に必要ないと思って住所は教えていない。唯一教えるとしたら彼女がいる場合だが、今の部屋を借りるようになってから彼女が出来たことはない。
 というよりは以前付き合っていた彼女の執着心や嫉妬心があまりに強すぎたせいでトラウマになってから、女性関係は持たないようにしている。その彼女とは俺が夜逃げする形で縁を切っているので、住所は知らないはずだ。
 とりあえず、裏を見よう。そう思ってひっくり返すと、半年ほど前に行われた河原でのバーベキュー大会──会社の部署ごとで開かれるレクリエーションという体で開催された──の写真だった。
 川原特有の丸い石が敷き詰められた地面と疎らな野草。そこに焼き台が横に三つ並んでおり、俺は中央の焼き台の近くでプラスチックコップに入ったビールを片手に、ぼけっと空を見ていた。周りにはほとんど人がおらず──確か肉が焼ける前だったので、誰もこっちに来ようとせずに俺が火の面倒を見ていたのだ──唯一、俺よりもカメラから離れた位置に立っていた同僚の佐藤がカメラの方を見ていた。しかし佐藤にはピントがあっていないので、被写体は俺らしい。
 多分、フレームの外では鈴木課長が女性社員をそばに侍らせ、他の男性社員がいそいそと面倒を見ているに違いない。ああいう上司にこびへつらうのが苦手な俺や佐藤は、二人寂しく賞与の値段を嘆きながら一緒に居る訳だが。
 まあ、そうは言いつつも懐かしい写真だ。課長のことが大嫌いというわけでもないし、レクリエーションのおかげで新入社員とも知り合えたし。
──しかし、誰が送ってきたんだ?
 裏にも表にも送り主の名前や住所は書かれていない。書かなくても届くものの、何かあったときのために大抵は書くものだと思うのだが。
 カードを指の間に挟んだまま廊下を歩き、キッチンを超えて居室に入る。机の前に置いた椅子に座ってから、机の上に電気スタンドをつけてもう一度、ポストカードを隅々まで確認してみた。
 やはり、何処にも送り主の名前や住所は書いていない。イニシャルや郵便番号すらも。
 何となく引っかかったものの、何か害があるというわけでもなさそうだ。もしかしたら、社員の誰かが撮った写真を、気を利かせて俺に送ってくれたのかもしれない。
 それでも手紙という手段を取るなんて、珍しいものだが。
「……まあ、いいか」
 俺はポストカードを机の引き出しに仕舞い、ストリーミングサービスで映画を観るためにラップトップを起動した。

 定時に仕事を終えてから──鈴木課長は苦手な上司ではあるものの、こういうルールに関しては厳しい人だから嫌いになれない──部屋に帰り、郵便受けを開ける。すると、またポストカードが滑り出てきた。
──このカードが来るのは一週間ぶりだな。
 今回も前と同じく、送り主の情報は一切ないようだ。裏を見ると、三か月くらい前にあった高校の同窓会の写真だった。今回も俺が主役になっているらしく、友達が中央にいる俺を取り囲んで笑っていた。
 ただ、この写真はおかしい。
──誰が撮ったんだ。
 生まれつき酒が強いおかげで、かなりの量を飲んでもそのときの状況をある程度思い出せる。
 だからこそ、確信を持って言える。あの時、誰も俺の写真を撮ってはいない。
 バーベキュー大会の時はカメラに気づかなかったのかもしれないが、室内であれば気づくはずだし、気づいていればそっちの方を見るはずだ。なのに、俺は笑ってはいるもののカメラの方を見ていない。
──流石におかしいぞ……。
 廊下を通ってワンルームに入り、シングルベッドに腰かける。消印を見ると、送り主はどうも近所のポストから俺に送っているらしい。というのも、書かれている郵便局の名前がここ一帯の集配郵便局だからだ。
 もちろん、逃げた身である俺に近所の知り合いなどいない。
──まさか……。
 俺はその考えを振り払う。まさか、あいつが俺を追ってこの町に来たわけではないだろう。何より、あいつは同窓会に参加していないのだ。あの写真を撮れるわけがない。
 とりあえず、こんなことを相談してまともに聞いてくれるのは佐藤だけだ。あいつは頭の回転も速いし冷静だ、なにか糸口を見つけてくれるかもしれない。
 俺は胃の上の辺りを掴まれるような感覚をこらえながら、佐藤にいくつか連絡を入れた。

 翌日。吐き気と頭痛、そして右手に持っていたウォッカの空瓶と共に目覚めた俺は、よろよろと立ち上がってトイレに行き、便器に顔を突っ込んで盛大に吐いた。
 吐きながら、昨日のことを思い出していた。あまりの恐怖と不快感で冷蔵庫に入れておいた缶チューハイでも酔いきれなかったため、足りない酒を近くのコンビニで買い足したのを最後に俺の記憶は飛んでいる。
 幾ら酒に強いと言え、近くに転がっているものから見て、缶チューハイ五本にウィスキーとウォッカをそれぞれ一本ずつ飲んだようだ。それだけ飲めば、こうもなるだろう。
 一頻り吐いて落ち着いてからシンクで口をゆすいで何杯か水を飲んだ後、若干の気持ち悪さを抱えつつスマートフォンを取りにワンルームに戻った俺は、ベッドの近くに転がっていた目覚まし時計を見て驚いた。
「やべ……」
 佐藤と約束した時間まで一時間とない。待ち合わせ場所まで行くのに、ここから五十分はかかるっていうのに。
──まともに身だしなみ整えている時間はなさそうだな。
 シンクへとんぼ返りして、片手で歯を磨きながらもう一方の手で櫛を掴み、髪を適当になでつける。髪を梳き終わったら歯ブラシの代わりにマウスウォッシュを口に含んで、顔を簡単に洗って干してあったバスタオルで顔を拭い、終わったら口からマウスウォッシュを吐き出す。
 近くにあった私服を着てから、今まで送られてきたポストカード含め必要なものだけ持って玄関に行くと、郵便受けに何か入っていた。
──嘘だろ……?
 郵便受けを開ける。
 ポストカードだ。手に取ると、いつも通り俺の住所と名前しか書いていない。裏を見ようとひっくり返そうとして、不意に思いとどまった。
──いや。これを見るのは、あいつに会ってからだ。
 そう思い直してカバンにポストカードを突っ込んでから、俺はドアを開けて──もちろんカギは忘れずに──駅に向かって走りだした。

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 ぎりぎり佐藤と時間通り落ち合うことが出来た俺は、近くのファミレスのボックス席に座って、それぞれ飲み物を注文した。
 落ち着いてから、こいつが口を開いて俺に尋ねた。
「……で、やばいポストカードが届いたって?」
「ついでに言うと、今日の朝も届いた」
「オーケー、整理しよう。送り主不明のポストカードが撮影者不明の写真付きで、お前のところに送られてくる、間違いは?」
「ない」
 俺たちが注文した飲み物がテーブルに届けられる。俺は吐き気もあって口をつけなかったが、こいつはコーヒーを一口飲んだ。
「今まで送られてきたカードは?」
 俺がカバンから二枚のポストカードを取り出して手渡すと、こいつが怪訝な顔をした。
「おかしいな。同窓会の方は分からないが、バーベキュー大会の写真はおかしい」
「そうなのか?」
「この写真が撮られたと思われる時間に俺が見てたのは川なんだよ。それに俺は酒が飲めないから、この時も素面だった」こいつが腕を組んで背もたれに寄りかかる。「断言できる。あの時、誰も俺たちを撮ってない。なんなら、あの時カメラを持ってたのは課長だけだ」
「……これもか」
「ああ。川の中から隠し撮りしてたってなら、辻褄も合いそうなものだが……まさか冷戦時代のスパイ映画でもないだろう」背もたれに寄りかかるのを止めたこいつが、テーブルに肘をついて俺を見る。「で、今日送られてきたカードってのは。見たのか?」
「時間がなくて見てない」
「見せろ」
 俺がカバンから今朝届いたポストカードを表にしてこいつに渡す。なんだか、裏にするのが怖かった。
 裏を見た瞬間、まるで血の気が引いたようにこいつの顔が青ざめる。どんなオプティミストでも、裏の写真が良くないものだってわかりそうなくらいに。
「……なんだったんだ」
 ポストカードを表にしてテーブルに置いたこいつが俺に尋ねてきた。
「お前、ストーカーされたことは。いや、ストーカーだってわからなくてもいい。元カノ以外に執着心や嫉妬心を向けられたことはないか」
「いや、そういう話は出来るだけ避けてきた。お前だって、俺がEカップで容姿端麗、社長令嬢の彼女がいるって嘘ついて、女性社員と女友達の興味逸らしてるの知ってるだろう。第一、出会い系にすら登録してないってのに」
「だよな……」こいつが歯をぎりぎりと鳴らす。歯ぎしりするのは、無理難題に直面したときの癖だ。「じゃあ、元カノか……いや、まさかな」
 サアッという血の引く音が耳の中で聞こえ、心臓が早鐘を打つ。
──まさか、本当にあいつが?
「どういうことなんだ」
 こいつがポストカードを裏返す。
 その写真を見て、目を見開いた。俺と女友達が並んで歩いているのを後ろから撮った写真。街の景色から見て、二カ月ほど前のことで間違いない。女友達が彼氏に買うプレゼントを選んでほしいということだったので、買い物に付き合ったときの写真だ。
 そこまではいい。
 問題は、女友達の頭だけが白く、ぐちゃぐちゃに塗られていることだった。
「なんだこれ……なんでこんな風に塗られて……」
「塗ったわけじゃない」こいつが首を横に振る。「釘か画鋲かはわからないが……引っ掻いた跡なんだよ。見えてるのは紙だ、インクじゃない」
 その言葉を聞いた途端、背筋に寒気が走る。
「高橋、良いか。もっとやばいこと言うぞ」
「お、おう……」
「お前から相談受けた後、なんだか気になってお前の元カノのことを調べた。名前も居た町も教えてもらってたしな」こいつが生唾を飲み込む。「彼女、死んでる。自殺だ」
「はあっ!?」
 思わず大声を上げるが、こいつは青ざめた顔のままスマートフォンの画面を俺につきつけてきた。半年ほど前のニュース記事だ。俺がちょうど夜逃げした後の辺りの。
「──川で26歳女性遺体発見、入水自殺か」何度も何度も読み返してみても、そのニュース記事は間違いなく前の彼女のことを指していた。「嘘だろ……」
 残酷だとは思うものの、帰るのが遅くなると包丁で刺して来たり女性用芳香剤の匂いがすると首を絞めてきたりしてきた彼女だっただけに、悲しみはなかった。それよりも犯人がだれか分からないという不気味さとそんな相手につけ狙われているという恐怖が、いよいよもって輪郭を持ち始めた。
 佐藤がスマートフォンをしまう。
「その川、俺たちがバーベキュー大会した川だが……それはいい。だからな、アングル云々の前に、元カノから送られてくること自体が有り得ない」こいつが舌打ちをする。「こうなると相手がわからない以上、警察や弁護士に言っても限界がある。俺の知り合いに探偵が居るから、そいつに頼もう。それで犯人を見つけてもらって、弁護士を雇って法廷で戦うしかない」
 こんな風に具体的なアドバイスをくれる人間なんて、そうそう居ない。
──やっぱり、こいつに相談してよかった。
 誰か頼りにできる人間がいるというだけで、気分が随分楽になる。相手が誰か分からないだけに、仲間が多い方が良い。
「分かった」
「お前の電話番号とかを知り合いに教えることになるが、良いな?」
「ああ」
「よし。多分、明日あたりその知り合いから電話が掛かってくるはずだ。もちろん俺からも話はしておくが、お前からも説明してやってくれ」
 この奇妙な事件はまだ解決していないが、展望が開けてきた事に安心して、俺は胸をなでおろす。
「ありがとうな」
 こいつがコーヒーを飲み干してから、力強く頷いた。
「友達のためだ。やれることはする」

 しばらく佐藤と他愛もない話をしてから、俺は帰路についた。これから先、どうなるかわからないとはいえ、前よりは希望が持てそうだ。とりあえず解決したら、また引っ越した方がいいかもしれない。
 部屋に帰ってドアの鍵を閉めた、そのときだった。
 カコン。
 軽いものが金属に当たる音が、郵便受けの方から聞こえる。それと同時に、尾てい骨から首までを人差し指で撫でられるような、肌が粟立つ感覚に襲われた。
──どういうことだ。
 震える手で郵便受けを開ける。中に入っていたのは、一枚のポストカード。
 消印なし、住所なし。
 あるのは赤茶けたインクで大きく乱雑に書かれた俺の名前だけ。
 恐る恐る裏を見ると、俺たちのいたファミレスを通りの向こうから撮影した写真。そこには窓際の席に座っている佐藤と、ぐちゃぐちゃに引っ掻かれて跡形もなくなっている俺『らしき』姿が写っていた。
──あいつが……? 死んだってニュースで……。
 思わずポストカードを取り落とす。恐怖と驚きで喉が詰まって、上手に息ができない。
 投入口から、もう一枚ポストカードがいれられて、開いたままの郵便受けに落ちる。
 そのポストカードは初めて、表向きではなくて裏向きだった。
 写真は、俺が青ざめた顔でポストカードを持っている姿。アングルから見て、廊下に立っている撮影者が、玄関に立っている俺を撮影していた。
 思わず振り返る。もちろん、廊下には誰もいない。鍵をかけているはずのこの部屋に、いるわけがない。
「は、はは……」
 引きつったような笑い声が俺の喉から聞こえる。
 そのとき、あることを思い出した。
──初めてポストカードが届いた日、前の彼女の誕生日だったっけ……。それにポストカード集めるのが、趣味だったよな……。
 ふと後ろから聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった女の声が聞こえてきた。
「忘れないでって、言ったでしょう?」

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消える。 2018年10月28日


日記に書かれていたのは、いないはずの友人の言葉。その言葉が書かれた日から、日記の内容と現実が乖離していく……。

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十月二十日
今日は妙なことがあった。
同僚で友人の山本と一緒に帰っていたときのことだ。今朝から体調が悪いと言っていたあいつが青い顔で突然、「俺が消えても、お前は覚えていてくれるよな?」と私に言ったのだ。
そんな質問をされて困惑した私が「闇金から金でも借りて首が回らなくなったのか」と聞くと、「そうではない」と返ってくる。じゃあなんだ、と聞くとあいつは言い淀んで目を泳がしていた。
何でもかんでもむやみやたらに言い切るあいつが、こんな姿を見せるなんて相当なことだ。だが、言いにくいことを無理やり言わせるのは私の良心に反する。
とりあえず、その場を収めるために「わかった、お前のことは日記に書いておくから」と約束すると、あいつは安心したかのように胸をなでおろしていた。
それでこの話は終わりなのだが……はてさて、何事も茶化しては顰蹙を買うあいつの口をあんな風に動かすとは。一体、何があったというのだろうか。

十月二十一日
今日は特に何かあったというわけではないけれど、一つ気になることがある。
昨日の日記に書いてあった山本とは一体誰だ。友人に山田や山村は居るが、山本なんて一人もいない。
とはいえ、『言いにくいことを無理に聞き出すのが良心に反する』というのは確かに私が常日頃から思っていることだし、日記のテンプレートも筆跡も間違いなく私のものだ。
誰かが私の日記を盗んで書いた、そんなことはあり得ないだろう。何より、わざわざこんないたずらをする酔狂がいるものか。うちの姉貴でさえ、こんなことはしないというのに。
兎にも角にも、書くとき以外は金庫に入れておけば誰も手は出せないはずだ。

十月二十二日
今日は私の部屋を間借りしている姉貴の誕生日だ。
昨日気づいた山本の存在が胸に引っかかっていた私は、今日の昼になるまでそのことをすっかりと忘れていた(気づいたのはスケジュール帳に書いてあったからだ)。
とりあえず夜勤明けの姉貴に連絡を入れると、新しい化粧品が欲しいらしい。とはいえ、いつも百円ショップの化粧品で適当に化粧をしている私では、何処にあるのか見当もつかない。そういうことなので、どこで買えるのかと聞くと私の職場の近くだということだ。
ということなので化粧品を買って家に帰ると、姉貴は喜んでくれたようだった。ああいう姿を見ると、送った側も嬉しいものだ。

十月二十三日
まただ。
おかしい。
存在しないはずの山本に次いで、私は一人っ子のはずなのに。
姉貴とは誰だ。遠方に住んでいる両親に聞いてみても、私は間違いなく一人っ子だった。実家から持ってきた何枚かの写真に写っているのは、父と母と私だけだ。
金庫には間違い無く入れている。それどころか、この部屋に住んでいるのは私だけのはず。
空き巣に入られたか? いや、そんな馬鹿な。鍵を壊された形跡も部屋を荒らされた形跡もない。
それとも存在しない姉貴に書かれたか? それこそ愚にもつかない考えだ。存在しないのに、どうやって書くというのか。
なにより、やはり筆跡は私のもので間違いない。同じ内容をトレーシングペーパーに書いて重ねて見ても、筆跡から字間まで殆ど同じだ。
どういうことだ。一体、私に何が起きているんだ。

十月二十四日
昨日、久しぶりに連絡を入れたからなのか、母が心配して電話をかけてきた。
とはいえ、遠方に住んでいる母を無為に不安にさせたくない。それで、「ちょっと飲み会の席で家族関係についての話になったんだ」と嘘をついてみたものの、勘の鋭い母には通用しないようだった。
仕方なくここ数日見つけた存在しない人の話をしたところ、似たような話を母も聞いたことがあるというのだ。尤も母が言うには所有者不明の日記の話だそうで、今はもう亡くなったひいおばあちゃんからずいぶん昔に聞いて、細部はほとんど覚えていないとのことだった。
けれど、日記の内容は友人や家族のような周りの人間がどんどんいなくなっていくという内容で──もちろん書いた人は両親を除き、彼らのことを覚えていない──最終的には、自分が消えることを悟った日付で日記が終わっていた。そしてその日記は、誰も住んでいないはずの団地の、空き部屋から見つかったそうだ。
怖がらせるつもりは無いと言っていたけれど、私はどうにも母の話が気になってしまう。
その書いた人、まるで今の私みたいじゃないか。
とりあえず、母からは「無理して働くんじゃないよ」とは釘を刺されたが……まさか、いつか私まで消えてしまうのか?

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十月二十五日
狂ったのは私か?
それとも世界の方が狂ったか?
母は私が小さい頃に事故で死んだはずだ。なのに、なぜ昨日の日付で、母と、話しているんだ。
あり得ない。私は荒唐無稽なタイムトラベル物の主人公じゃないんだぞ。どういうことなんだ、なんで母が生きているかのように日記が書かれているんだ。
何度も電話をかけて、父にも確認した。やっぱり、母は私が小さい頃に死んでいる。二人が二人して間違えるなんて有り得ない。
意味が分からない。訳が分からない。誰か教えてくれ。

十月二十六日
遠方で独り暮らしをしていた父親が私のもとを訪ねてきた。突然の事だったから、どうしてと聞くと、昨日の私の様子があまりにもおかしかったものだから不安になって見に来たというのだ。
父は「家事は全部やるから、お前はゆっくり休みなさい。仕事も休んでいいから」と言ってくれて、今はキッチンで夕食を作ってくれている。
私は父に全部を任せて、日記を書いている。まだ日は沈んでいないけれど、書けることは書いてしまえ。
残りはまた寝る前に

いったい私は何を書いているんだ。

父は母と一緒に死んだはずだ。なのに、どうして今、目の前に父がいるような内容で日記を書いているんだ。
確かに料理の匂いもする。小さい頃に好きだったカレーの匂いだ。目の前で鍋が湯気を立てている。そうだ、間違いなく目の前で料理が、誰が料理を?
そこにいたのは、誰?

十月二十七日
昨日の夜から、ずっと寝れていない。
何も食べていないけれど、おなかも減らない。
胃の上を締め付けるような焦げ付いたカレーの匂いがキッチンからしてくる。でも、食べる気にも触れる気にもなれない。今ほど、コンロに付いていた自動消火機能を有難く思ったことはない。
どうして、私は何も覚えていない?
一日かけて、何年も書き続けてきた日記を読み直してみた。その中には山本がいた、姉貴がいた、小さい頃に死んだはずの母と父がいた。
なのに、私は誰一人として覚えていない。

まるで消えてしまった。

そうだ。皆、本当は居たんだ。でも、どうしてなのか消えてしまった。

分かっているのは、覚えていないのに確かに消えてしまったこと。

一人、また一人と消える。

じゃあ、次は私が

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2018年8月28日


田舎に住んでいる祖父母のところへ帰省した少年は、収穫中のトウモロコシ畑に白いワンピースの少女の姿を見るが……。怪談四部作最後の物語。

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 海の近くに建ててある倉庫の戸を開けようと、取っ手に手をかけた時だった。
『次は誰が話す?』
 ふと、中からそんながさついた男の声が聞こえてきた。
 俺は首をかしげる。はて、倉庫を誰かに貸した記憶はない。それに先ほどまで、南京錠でしっかり鍵をかけていたはずなのだ。だのに、中から声が聞こえてくるとは。
 思い切って、戸に耳を当てる。こっちのほうがよく聞こえるはずだ。
『あ、じゃあ僕が話します』
 少年の声。ちらほらと聞こえる声からして、男二人、女二人といったところか。
 賊なら一刻も早くしょっ引いて駐在さんに渡すのだが、どうも口ぶりや音からしてそういう連中ではなさそうだ。はてさて、なおのことわからなくなってきた。侵入したのにもかかわらず、逃げずに居座って話し合うなんてことをするとは。
 俺が耳をそばだてたままでいると、少年の声でなにやら話が始まった。
『これは僕の話なんですが……』

「じいちゃん暑いー」
 僕がそこら辺にあった大きな石に腰掛けると、麦わら帽子をかぶったじいちゃんが顔を上げる。しわしわで茶色いシミだらけの顔が、帽子の中に見えた。
「子供にはきつかったか。いいよしんちゃん、少しそこで休んでな。喉乾いたら、近くの井戸水でも飲んでるといい」
「はーい」
「ただし、トウモロコシ畑の中には入っちゃいけないぞ。今は収穫時期だから、危ないからな」
 ぐるぐると周りを見る。目の前にはじいちゃんが近所の人と一緒に育てている、トマトとかきゅうりとか、なすとかが植えてある畑。右側には農家の高橋さんが育てている、僕の背丈よりも高いトウモロコシの畑。左側にはなんだかゆらゆらしている、誰もいない商店街。周りを見回しても楽しそうなものはなかった。
 かっちゃんとかよしくんと遊ぶのは明日の夜だし、ともちゃんと遊ぶのは明後日。明日からは忙しいのに、今日はなんにもすることがない。家にいるのも退屈だったから着いてきたのだけれど、こっちもこっちで退屈だった。
 その時、トウモロコシ畑の中に入っていく子が目の端っこの方で見えた。白い帽子に白い服みたいで、なんとなく女の子みたいだった。
──あんな子いたかな?
 大体この街にいる子たちとは友達だから、姿を見れば誰かわかるはずなのに。なんといっても、あんな服を着ている子を見たことがない。
「誰だろう」
 僕は座っていた石から飛び降りる。じいちゃんはトウモロコシ畑に入っちゃいけないと言っていたけれど、僕ならきっと大丈夫だ。
 それでも怒られるのが怖いから、ちらっとじいちゃんの方を見る。土いじりに真剣になっているみたいで、僕の方は見ていないみたいだった。
 僕はじいちゃんに気づかれないように足音を立てないよう注意しながら、ゆっくりとトウモロコシ畑の中に入っていった。

 畑の中はほとんど先が見えないし、ふかふかとした土に足を取られるせいで歩きにくい。それでも女の子が歩いて行った場所は変に沈み込んでいたり、トウモロコシの茎が折れていたり傾いていたりするおかげで、後を追うのはそんなに難しいことじゃなかった。
 青臭い葉や土のにおいを嗅ぎながら、茎や葉をかき分けて畑の中を歩いていく。遠くからエンジンみたいな音が聞こえてくるけれど、あの女の子が誰なのかってことのほうが気になった。
 もしかしたら、この町に新しく引っ越してきた人かもしれない。僕はいつも街にいるから、そういうことなら知らなくて仕方ないはずだ。
 でも、昨日会ったさっちゃんは引っ越してきた人がいるなんて話、少しもしていなかった。さっちゃんはこの町に住んでいるから、そういう人がいれば知っているとおもうけれど。
──多分、さっちゃんは僕に話すのを忘れたんだ。きっとそうなんだ。
 ふと手をかけたトウモロコシの実が折れ、地面の方からごろんという重い音が聞こえてきた。
 その音でハッとして、あたりを見回す。でも僕の周りにあるのは、僕よりも背の高いトウモロコシと、ふかふかとしているせいで足跡なのか凹みなのかよくわからないものがたくさんある畑の土だった。
「あれ……」
 急に心細くなって、目の端が熱くなってくる。
──どの方向から歩いてきたんだったっけ。
 もう一度周りを見てみても、僕が歩いてきた方向を教えてくれそうな人は誰もいなかった。泣きそうになるのを必死に我慢して、いろんな方向へ歩いてみる。でも、歩きにくい地面をいくら歩いても、周りにはトウモロコシしかない。
「どうしよう……」
 こんな広い場所で迷子になっちゃった、そう思うと心細くて、いよいよ涙があふれてきた。
 その時、僕の前から女の子の声で「こっちだよ」という声が聞こえてきた。
「誰?」
「こっちだよ、こっちこっち」
 声の方向へと歩いてみる。もしかしたら、僕を探しに来てくれた誰かかもしれない。
 一歩一歩歩く度に、女の子の声は大きくなっていくような感じがした。同時に、どこからか聞こえてきていたエンジンの音もはっきりしていった。

 しばらく歩いて足も痛くなってきたころ、ようやくトウモロコシ畑が途切れているのが見えた。そこの開けた地面には刈り取られて丈が短くなっているトウモロコシの茎がいっぱい並んでいる。
 僕は開けた場所とトウモロコシ畑のちょうど境目の場所に立って、顔だけ出して女の子の姿を見ていた。
 開けた場所の真ん中に、女の子の後ろ姿が見える。僕は思わず、声をかけた。
「ねえ、誰?」
 返事はない。もしかしたら、さっきから聞こえているエンジンの音のせいで僕の声が聞こえてないのかもしれない。僕はもっと声を張り上げて、女の子に叫んだ。
「ねえってば」
 その声に気づいたのか、女の子がぐるっと回って僕に顔を向ける。
 けれど、そこにあったのは顔じゃなかった。
 体の前半分はまるで、片面が赤色、もう片面が茶色の折り紙をめちゃくちゃに切り刻んで人の体の形にばらまいたみたいに見えた。目も鼻も、口も何もかにも、区別できないくらい無茶苦茶だ。どう見たって、生きている人間じゃなかった。
 その時、僕のすぐ近くからとんでもなく大きなガサガサ、ひゅんひゅんという音が聞こえてきた。
 振り向くと、回転する籠みたいな道具と櫛みたいな金属、そしてフロントガラス越しに驚いた顔のおじさんが見えた。

『……これが、僕の話です』
 口々に感想を言い合う声が倉庫の中から聞こえる。
 どこかで聞いたことがあるような話だ。しかし、怪談をしに不法侵入をするような人間がいるとは思わなかった。
 兎にも角にも、勝手に入られて中のものを壊されちゃまずい。
 そう思った俺は戸の取っ手に手をかける。
「誰だ」と叫びながら戸を開け、真っ暗な倉庫の中に手を突っ込んで電灯のスイッチをまさぐる。ほどなくして俺がスイッチを入れると、数回点滅したのちに明かりが倉庫の隅から隅までを照らした。
 だが、その倉庫の中には誰も、誰一人いなかった。

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盆踊り 2018年8月17日


彼氏と一緒に祭に出かけた女性は、ある祭で催された盆踊り大会に参加することを決めるが……。怪談四部作、二番目の物語。

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「──これが、俺の話だ」
 口々に話の感想を言い合う。頃合いを見計らって、あたしは「じゃあ、次は誰?」と促した。
 すると、あたしの対面に座っていた女の人が──面白いことに、今回は男女が二人ずつバランスよくそろっていた──手を挙げた。
「じゃ、あんたの話を」
「わかりました。これは、盆踊りに参加したある少女……というには、少し年を取り過ぎていますが。そんな女性のお話しです──」

「向こうに焼きそば売ってたけど。凛香、食べる?」
「もうお腹いっぱいだし……あ、りんご飴」
 彼があきれたように肩をすくめ、「おかしいな、お腹いっぱいって言ってなかった?」
「甘いものは別腹だよ。おじさん、りんご飴二つ」
「あいよ」
 手渡された二つのりんご飴の代わりに、100円をおじさんに手渡す。
「え、二つ食うの?」
「そんなわけないでしょ」りんご飴を一つ、彼に手渡す。「はい。祐樹、あんたつまみ食いするんだから。先に渡しちゃおうと思って」
 受け取って「一人で一つ食うのはつらいんだけどな」なんてぶつくさと言いながらも、りんご飴をなめ始めた彼を眺めつつ、私は自分のりんご飴にとりかかる。少し甘ったるいけれど、酸味の強いりんごの部分に差し掛かると味がちょうど釣り合う。この味がたまらない。
 その時、近くのスピーカーからアナウンスが聞こえてきた。
『七時から盆踊り大会を開催いたします。飛び入り参加も歓迎ですので、奮ってご参加ください』
「盆踊り大会だって」
 彼が頬を掻く。
「へえ、盆踊りか。そういえば、盆踊りって昔は鎮魂の意味があったんだって」
 そんな話をされると、少し怖くなってくる。もちろん彼にそんな意図はないのだろうけれど、空気を読まないのが彼だ。それに、私が無類の怖がりだと知っているはずなのに。
「盆には死者が帰ってくるから?」
「そうそう。お面かぶったりして人相を隠すことで死者に扮し、そうして踊り始めるってやつ。ただルーツが多すぎて、地方ごとにいろいろあるんだ。地元で信仰している神への捧げものとしての踊りって意味もあるみたいだし」
 相変わらず、そういう雑学に詳しい。私が頷いていると、「まあ、今じゃそんな風習廃れてるけど。むしろ地元でのコミュニケーションの場として使われる方が多いだろうね。江戸時代とかは男女の出会いの場だったらしいし」と補足した。
「じゃあ、死者に連れていかれるなんてことはないんだね」
「そんなの怪談の中だけだよ。円を描くのって、宗教的な意味は強い行為だけど」彼が首をかしげる。「まさか、怖かったの?」
 私は気まずさから目をそらす。どうせ気づかれるだろうけど。
「まあ、あくまで伝承だから。大丈夫だよ。怖くない、怖くない」
 いくらフォローがあったところで、今の話を聞いた後に一人で踊るのは怖い。
「一緒に踊ってくれない?」
 彼の手を取って誘ってみるけれど、彼は首を横に振った。
「踊り苦手だし……大丈夫だって、俺も見てるから」彼が肩を軽くたたく。「ほら、参加したいなら行ってきな」
 心細いまま、私は頬を膨らませた。
「私になんかあったら、あんたの責任だからね」
 気のない彼の、「はいはい」という返事。私は彼にあっかんベーをしてから、盆踊りの集団に向かっていった。
 歩きながら周りを見ると、水色や藍、赤のような色とりどりの浴衣や甚兵衛を来た人たちが、ぞろぞろとやぐらの周りに集まってきていた。中には洋服の人もいて、ちらりほらりと近所のおじさんやおばさんの姿も見える。
 もう一度、彼の方を見て手招きすると、彼は首を横に振って手を振り返す。やっぱり、一緒に踊ってくれないみたいだった。

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 夜の七時を回ったころ。
 最後に聞いたのはいつだっただろうか、なんとなく聞いた記憶のある音頭が流れ始める。それと同時にやぐらを中心にして、私たちはぐるぐると回り始めた。
 なんとなく体が覚えている踊りとともに、私はさっき聞いた話のせいで怖いの半分楽しいの半分のまま、踊りつづける。
 どうしてあのタイミングであんな話をするのだろう、なんてことはとっくの前に考えるのをやめていた。なんて言ったって、彼は私がトイレに行く前に『赤い紙青い紙』の話をしたり、古ぼけた非常階段を昇っているときに『魔の十三階段』の話をしたりするのだから。
 加えて、本人に聞いたけれど私を怖がらせる気は全くないらしいので、なおのこと質が悪い。
 ふと、いつの間にか聞きなれない音頭に代わっていた。太鼓や鈴、笛のような音も混じっているようで、なんとなく古ぼけた感じがするのは気のせいだろうか。
 踊りながら周りを見渡す。すると、周りにいる人全員が白装束を着込み、歌舞伎の女形のように白粉を塗っていた。
 いつの間に着替えたのだろうか。それとも、踊り子が代わったのだろうか。けれど、そんなタイミングもアナウンスもなかった。いくら物思いにふけっていたって、アナウンスを聞き逃すとも考えられない。
「あれ……?」
 ぼそりと呟く。その時、音頭と踊りが止まった。
 勢いあまって前の踊り子にぶつかり、「ごめんなさい」という声が出る。すると、私がぶつかってしまった踊り子が、私の方を振り向いた。
「生者か」
 ここら辺では聞いたことのないイントネーション。声からして、女性だろうか。
「はい?」
「生者か」
「え?」
 その時、肩をつかまれる。振り返ると、白粉を塗った別の踊り子に肩をつかまれていた。
「生者だ」
 女性とは思えないくらい強い力。骨が折れるかのような痛みが、肩に走った。
「痛っ」
 何とか逃れようと体を振るけれど、拘束はほどけそうにない。周りには「生者だ」という声とともに踊り子達が集まり、体中のありとあらゆるところをつかみ始めた。
 何度も何度も「離して」と叫んだものの、踊り子たちは離してくれない。誰かに助けを求めて叫んでも、彼女たちの輪唱に阻まれてしまうのか、誰も声をかけてくれなかった。
 私はもみくちゃに引っ張られながら、中央にあるやぐらだった場所に連れていかれる。
 けれど、そこに建っていたのはやぐらではなかった。
 まるで神社の本殿のような場所。でも、そこにいたのは木の幹よりも太い胴体を持った、茶色い蛇だった。
「贄か」
 思いもよらない、現実ではありえない光景に足がすくみ、その場に崩れ落ちる。頭が真っ白になって、どうすればいいのかもわからないまま、私はその蛇と目を合わせていた。
「頂こう」
 蛇が首をもたげ、車ほどもある口を大きく開ける。まるでゾウの牙のような白い牙、血にまみれたかのような赤い口。そして奥には、無間にも等しい黒い闇。
 そうして、動けないまま口を見つめていた私の目から、色が消えた。

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物売り 2018年7月29日


町に定期的に来る移動販売車。噂では、普通の店では手に入れられない『あるもの』を取り扱っているという。噂を聞き付けた彼は真偽を確かめようと、販売車のことを調べ始めるが……。

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 特徴的なアブラゼミとキジバトの鳴き声。まるでアニメのワンシーンかのような晴天。フライパンでも置けば目玉焼きが焼けそうなくらい、熱されたアスファルト。遠くには麦わら帽子を被ってタオルを首に巻いている、タンクトップ姿のおじいさんも見える。
 僕はそんな典型的な夏の中で、近くのスーパーで買ってきた安いスポーツドリンクをちびちびと飲みながら、日陰にあるベンチに座り込んでいた。
「おばちゃん、ジュースちょうだい」
 目の先にある移動販売車に、小学生と思わしき男子の集団が群がっている。そのうちの一人が販売車のカウンターに小銭を置くと、人がよさそうなおばちゃん──お婆さんでもお姉さんでもない、おばちゃんという表現が何よりに合いそうな中年の女性──が、ニコニコしながら男の子達に、栓を抜いた瓶入りのオレンジジュースを何本か手渡した。
「暑いからね、熱中症には気を付けるんだよ」
「ありがと、おばちゃん」
 わいわいと騒ぎながら、男子の集団は移動販売車から離れていく。僕はボケっとしながら、その様子を眺めていた。
 この暑い中、僕はなんと恐ろしく無意味なことをしているのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。けれど小学生の頃からオカルトハンターと呼ばれてきた僕の矜持は、この程度の暑さではへこたれそうもなかった。

 『あの訪問販売車では負の感情を売っている』、そんな有り得ない噂がいつから出てきたのかは分からない。というよりは、いつからあの訪問販売車がこの町に来ているのか、ほかにどの町に行っているのか、それすらも分かっていないのだけれど。
 とりあえず、良くある怪談話の例にもれず、この町ではいつの間にかそんな噂が立っていた。これが町の呪いだったり殺された妖怪の恨みだったりするのなら公民館にでも行けば資料があるのだけれど、そういうわけにもいかない類の噂だ。
 一度、ここにずっと住んでいるおじいさん──僕自身は別の町で幼少期を過ごしているため、昔のこの町については何も知らない──に、噂のことを聞いたことがある。でも返ってきたのは、「何時からかはわからないが、確かにそういう噂はある」という返事だった。
 以来、噂のルーツを辿るのは諦めていた。それで、実際に売買している所を押さえた方がいいだろうと考え、今みたいに来るか分からないお客さんを探しているのだった。
 ふと気づくと、若い男の人が訪問販売車の前に立っている。
──もしかして、噂を聞いた人かもしれない。
 たるんでいた気を引き締めた。
 ここら辺では僕含め珍しい、20代前半くらいの男。流行を取り入れた不透明な金髪を、下手なワックスとスプレーで固めている。肌が荒れているのか、指先が黄ばんでいる右手で頻繁に頬を掻いていた。なんとなく大学生っぽい感じがするのは気のせいだろうか。
「おばちゃん、タバコねえかな」
 にこにこしながら、おばちゃんは「有るよ、銘柄はなんだい」と男に尋ねる。男が銘柄をつぶやくと、ほどなくして棚の下からたばこの箱が出てきた。
「これで間違いないかい」
「ああ」
 男がぶっきらぼうに金を出して、たばこをひったくるように取る。すぐさまセロファンを破ってたばこを一本取り出した彼は、ポケットの中から100円ライターを取り出した。そのままたばこに火をつけ、歩きながら紫煙を吐き出して移動販売車から離れていく。
 どうも、僕の求めていたような人とは違うらしい。
──まあ、そんなすぐに見つかるわけもないだろう。
 僕はまた気を張るのを止めて、「こんな姿を彼女に見られたら、間違いなく別れることになるな」なんてことを考えながら、空を眺めていた。

 日が傾いて、オレンジ色の光が周りを満たす時間になった頃。うだるような暑さはそのままに、温度が些か下がったせいで湿気がまとわりつく時間。僕の一番嫌いな時間帯だ。
 見ると、オレンジ色の光に肌を染められた男性が、訪問販売車の前に立っていた。しわだらけのスーツ姿とくすんだビジネスバッグ。会社帰りだろうか。
 そんな男を見ても、おばちゃんはニコニコしながら「ご用件は?」と尋ねる。彼はというと、言いにくそうに唇を舐めたり首を動かしたりしていた。
 ほどなくして、決心したように口が動いて何かをおばちゃんに伝える。声が小さすぎて、ここからでは彼の言葉は聞こえない。けれど、くしゃくしゃになった一万円札を取り出してカウンターに置いたのは見えた。
 あの移動販売車の価格帯は大体把握している。でも、一番高くて五千円くらいする懐中電灯だ。一万円近い商品はない。
「あいよ、分かったよ」
 おばちゃんには彼の声が聞こえていたようで、札をしまうと同時に棚の下に潜り込み、縄を取り出して彼に手渡す。彼はお礼を言うかのように、何度も頷いていた。
「ここから少し歩くと、いい場所があるから。頑張ってね」
 そうして、おばちゃんは小川のある方を指さした。彼は頭を下げながら、販売車の前から歩き去っていく。
 今まで見てきた数名の中では一番不可解な客だ。もしかしたら、彼が『負の感情を買った人』なのかもしれない。
 僕は彼と入れ替わるように、おばちゃんの前に立った。
「すみません、先ほどの男性は何を買われたのですか?」
 おばちゃんは相も変わらずニコニコしながら、「この移動販売車の売りだよ」と僕の質問に答える。でも、僕はそんな回答で満足するような人間じゃない。
「縄がですか?」
「いんや、違うよ。また別のものだよ」
「では、一体何ですか?」
「あんたは若いからねえ……いつか分かるよ」
 煙に巻かれたような気がして、僕は顔を顰める。もう一度聞こうとしたとき、おばちゃんが「さあ店じまいだ」と僕に笑いかけて、シャッターを下げた。
 不意を討たれた僕が固まっていると、トラックのエンジンがかかる音が聞こえ、訪問販売車が動き出した。
 そのまま、おばちゃんと共に、訪問販売車はどこかに去っていく。
 僕は腑に落ちない感覚と一体何を売ったのか分からないもやもやと、そして無為に時間を過ごしてしまった怒りを覚えながら、傾きながらも照り付ける陽光の中を家に向かって歩いていった。

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 次の日、僕が図書館で地元紙を読んでいると、ふとあのサラリーマンの顔が目に入った。尤も、僕が見た時より幾らも血色がよくて、元気そうだったけれど。
「ん?」
 記事を読むと、近くの小川で首を吊った状態のまま見つかったらしい。それで、警察が自殺と事件の両方から調べているそうだ。
「やっぱり……」
 直感的に、事件ではなくて自殺だと分かった。同時に、あの移動販売車が一枚嚙んでいるような気がしたけれど、どうして移動販売車で縄を買っただけの彼が自殺に追い込まれたのかはわからない。
 ともかく、もっと移動販売車について調べなければ。
 そう決意して、僕はいつも移動販売車が止まっている広場に向かうために、熱いアスファルトの上に足を踏み出した。

 広場に行くと、今日も変わらず移動販売車が停まっていた。おばちゃんの姿も変わらない。
 ただ、いつもと違うのは、おばちゃんが若い女性と言い合っているように見える──正確には、若い女性が怒鳴り散らしていておばちゃんはそれを躱している──ことだった。
「どうして売ってくれないの」
 高くてヒステリックな女性の声が、僕の耳に届く。おばちゃんは相変わらず優しい、けれど困ったような声で、「何に使うか分からないからねえ……だから、簡単には売れないのさ」と反論していた。
「さっきから言ってるじゃない。ともかく、あのセクハラ上司をなんとかできればいいの」
 困った表情のまま、おばちゃんは棚の下に潜り込む。ほどなくして、手に何か封筒のようなものをもって立ち上がった。
「本当だね、あんたを信じるけど……覚悟するんだよ」
 女性はおばちゃんの手から、もぎ取るようにしてその封筒を奪いさる。そして、「これでやっと……」とつぶやきながら、お礼も言わずにどこかへ歩き去っていった。
 すかさず僕がおばちゃんの元に走りよると、おばちゃんはまた困ったように「またあんたかい」と、僕をにらんだ。
「いったい何を売ったんですか」
「あんたにはまだ早い……いや、あんたの性格なら、分かるのにそう時間もかからないかもしれないねえ」
「どういうことですか?」
「はいはい、今日は疲れたからこれで店じまいだ」
 僕の目の前で、前と同じようにシャッターが閉まる。僕は「待て」と叫んだけれど、ほどなくしてエンジン音が響き渡り、移動販売車は走り去ってしまった。

 翌日。また情報収集のために新聞を読んでいると、男女二人が同時に会社の窓から落ち、頭を打って即死したという記事が載っていた。目撃者の話では当初二人は口論しているだけだったけれど、徐々にエスカレートして取っ組み合いになり、そのまま近くの窓から落ちたのだそうだ。
 どうも僕には──顔写真は載っていなかったけれど──その二人のうち、女性はあの移動販売車の前で見た人のような気がしてならなかった。名前とともに出ていた年齢と外見も近いし、男性側は女性の上司だったのだそうだ。
 やはり、あの移動販売車に関わって『何か』を買った人たちは、知っている限り全員が亡くなっているようだった。けれど、おばちゃんにそんなことが出来るのだろうか。
 その時、ポケットに入れておいたスマートフォンが震える。見ると、彼女からの『今日会える?』というような趣旨のメッセージだった。
 けれど、そのメッセージを当てた相手は僕じゃなかった。

「あら、いらっしゃい」
 おばちゃんが僕に話しかけてくる。そのトーンは、いつもと違ってお客さんへ向けた声のトーンだった。
 もとよりこうすれば、あの噂の真実が分かることにどうして気づかなかったのだろう。ついでに、浮気したあの女に復讐もできる。一石二鳥じゃないか。
「これで買えるもの、ありますか」
 僕が一万円札を差し出すと、おばちゃんは言外の意味をくみ取ったかのようににやりと笑う。
「ああ、もちろん売ってるよ」

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死出虫 2018年7月16日


目を覚ますと、暗く湿った空間に閉じ込められていた彼。暗闇の中で「何故閉じ込められたのか」を考え始めるが、体を這う虫達の感触に気が付き……?

 

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 息を吸うと、湿った土と肉が腐ったような甘ったるい臭いの混じった悪臭が鼻についた。
 重い瞼を開ける。目の前には何も見えない。
 身体を動かそうと身をよじると、肘や膝が木のような何か硬いものと当たり、鈍い音が反響しながら私の耳に届いた。
 限られた空間の中で両手を持ち上げる。
 また、同じような音が耳に届いた。
 訳の分からぬ状況にパニックを起こしそうになりながら、私は首を動かして周りを見回す。
 けれど、そこに求めていた光はない。
 足を曲げ伸ばしして、板のようなものを破れないか試みる。何度か試みた後、かかとの痛みに襲われた。
 悪臭が鼻腔を満たすのを我慢しながら数回深呼吸すると、少し落ち着いてきた。
 いったい私に何があったのだろうか?
 どうしてここにいるのかを思い出そうと、頭の中に思考を巡らせる。鉛の詰まったような頭の中をしばらく漁っていると、いくつか思い出してきた。
 むせび泣く母親の声。妙に冷たい身体。線香の匂い。読経。まるで葬式だ。
 しかし、私はこの通り生きている。
 もし本当に葬式をしたのなら私は参加する側のはずなのに、そんな記憶は一切ない。あるのは、まるで故人として悲しまれているような記憶だけ。
 さらに前の記憶を思い出せないかと思って頭を巡らせる。けれど、少しずつ薄くなっている酸素のせいか、はっきりしない。
 それでも、何か硬いものにぶつかられた衝撃と地面の上を転がる感覚を思い出した。その後、私はどうなったのだろうか。救急車の音、アルコール消毒のような匂いと車特有の揺れ、必死に私のことを呼ぶ男性の声……。ぶつかられた感覚はあるのに、不思議と痛みの記憶はなかった。
 私は狭い空間の中でかぶりを振った。ダメだ、思い出せない。思い出したくもない記憶を思い出そうとしているのか、それとも私に思い出す資格がないのか、何があったのかを思い出せない。
 ともかく、私は何故か知らないが、ここに閉じ込められている。確かなのはそれと踵に走る痛みだけだ。
「だれか、助けてくれ」
 叫んでみても、声は周りに吸い込まれるように反響すらしない。きっと、外に聞こえていないだろう。
 何か他に音を出せそうなものがないか、そう考えて狭い空間の中を手で探っていると、触り慣れたスマートフォンケースの感覚を覚えた。暗いせいでまともに何を持っているかも見えないまま、何とか持ち上げて電源ボタンを押す。
 スリープモードが解除されて仄かな明かりが周りを照らした。やはり、手の中にあったのは私のスマートフォンだった。
──これで助けを呼べる。
 動く片手でロックを解除しようとPINコードを打ち込もうと試みる。
 けれど、「早くこんなところから出ていきたい」という焦りといつも両手でロックを解除していたせいで手元が定まらず、まともに打ち込めない。それを何度か繰り返したものの、エラーメッセージが出て、30秒後にもう一度やり直しになってしまった。
 上手くいかない事にいらいらしながら時間が経つのを待っていると、電源が切れるポップアップとバイブレーションの後、スマートフォンの画面が消えた。
 慌てて電源ボタンを長押しすると、電池のグラフィックが現れて、またしても暗転した。
──電池切れだ。
 私は使い物にならなくなったスマートフォンを足元に投げ捨てる。鈍い音と共に、木が折れるような音が聞こえたような気がした。

 

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 しばらく無駄だと知りつつ声を出して助けを呼んでいると、動かせない手のひらの下をなにかツルツルしたものが通り過ぎるのを感じた。近い触感を持つものとしては、私が趣味で飼っていたコガネムシやシデムシのようだ。だが、コガネムシはまだしも、何故シデムシが此処にいるのだろうか。
 シデムシ、漢字では死出虫ないしは埋葬虫と書いてシデムシと読ませる甲虫の一種だ。彼らは発達した強靭な顎を用いて腐った肉やそれを餌にする蛆を主食にし、中には腐敗物を食するものもいる。種類によっては死体を埋めて──その様子から埋葬虫と名付けられたそうだ──幼虫に食べさせることもあるそうで、その姿は昔から興味を惹かれるものだったらしい。実際にそれを題材にした怪奇小説もあり、私も一度読んだことがある。
 彼らがいるということは、死体のような腐敗したものがあるということだ。きっとそれがこの甘ったるい肉の腐った臭いの原因なのだろう。
 つまり、私は遺骸と共にこの箱のような構造物に囚われている。
 その事を考えた瞬間、胃の上の辺りがきゅぅっと締め付けられるような感覚に襲われる。のどの上の辺りまでその感覚がじわじわと広がり、思わずえずく。幸運なことに、吐くようなものも胃に入っていなかったようで、口の中に胃酸の苦酸っぱい味が広がるだけだった。
 刺激に呼応するように溢れ出てきた唾液にも構わず、「誰か、助けてくれ」ともう一度叫ぶ。
 その声は前と同じように、周りに吸い込まれていった。
 シデムシの這いまわる感覚が私を襲い、痒い様な痛い様な刺激に体が覆われる。私はもぞもぞと体を動かして虫たちを振り払おうと試みるが、木の板が私の動きを邪魔する。
 何とか平常心を保ちながら、私はがむしゃらに体を動かして木の板を壊そうと試みた。
 虫達が潰れるクシャっという耳障りな音と服ごしに感じる漏れ出た体液。それでも、虫達は私を離そうとしない。
 しばらくして疲労困憊した私は、切れた息を整えるために深く息を吸い込んだ。甘ったるい死体の匂いが鼻腔を満たす。死体と一緒に居たくはなかったけれど、このままでは動けそうにない。
 その時、疲れて動かなくなった手のひらに、シデムシの感触を感じた。
 ほどなくして、虫が皮膚を食い破るような激痛が、私の手を襲った。

 

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黒い腕 2018年4月21日


事故や事件が起きたところに必ず現れるという、厄災を招く『黒い腕』。ふとしたことからその噂を調べだした彼は最期、あることに気が付くが……。

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「ふぅ」
 僕は椅子にもたれかかり、腕を横に振り回して伸びをする。その拍子に数枚の資料が机から落ちるが、どうせ認知心理学や色彩心理学関連の必要のない資料だ、無視しても良いだろう。そんな性格だからか、机の周りには大量に紙屑が散らばっているのだが。
「一体何なんだ、この『黒い腕』っていうのは」
 机上のマウスを掴み、ディスプレイに表示されるオカルト掲示板のスレッドをスクロールしていく。ホラーを取り扱う掲示板の特徴ともいうべき、黒い背景、赤い文字、読みにくいおどろおどろしいフォント。たまに、黒との対比を試みたのか白い文字や毒々しい感じを出したいのか紫の文字を使っているサイトもあるが、どちらにせよ購買意欲をそいでしまう暗色というのはマーケティング向きではない。
 意外にも、人間というのは色に左右されるのだ。プロパガンダに赤と黒が使われる理由や癒しを謳うものに青や緑が使われる理由はそういうところにある。
 と、いくらか頭の中で愚痴ったところで、僕はスレッドに目を通す。
 タイトルは『★あなたが体験した怖い話★壱壱話目』みたいな感じの奴で、良くある奴と言えば良くある奴……というよりは、定期的に立つスレの一つだ。
 とはいえ、その中に書き込まれた『黒い腕』というレスが僕をこんな風に家に閉じ込めている。事の発端は友人が「おい、これ見てみろよ」と言って僕に見せてきたのがこのレスで、何故か分からないが内容に惹かれてしまった僕は今、持ち前の好奇心と研究欲をいかんなく発揮しているというわけだ。
 概略はこうだ。書き込んだ主はある事故現場──その事故はガソリンスタンドにタンクローリーが突っ込んで死者12人負傷者34名を出した事故で、僕もニュースで見て覚えていた──の生存者だ。
 ガソリンスタンド前の歩道を歩いていた彼(彼女かもしれない)曰く、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込む前に、反対側の歩道に植わっている街路樹から黒い腕のようなものがぬるりと出ており、それに手招きされたのだそうだ。もちろん見間違いじゃないかと目をこすっていて見直したそうだが、やはり腕が手招きしていたらしく、興味を惹かれた彼は走る車の確認すら忘れて道路を横切った。
 そして無事反対側の歩道に着いて街路樹の裏を確認しようとした瞬間、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込み、爆発炎上。彼も負傷者の一人となった。
 彼の見解では、その『黒い腕』は事故現場に現れて事件を招いているのではないか、ということだ。とはいえ、初めの頃は他人のレスも付かず半ばネットの海に沈んでいた。
 しかし、つい一か月前くらいのことだ。同じような『黒い腕』を見たという人が現れた。その人は家が火事になる前に、窓の外から家の塀から突き出た『黒い腕』が手招きしているのが見えて、だれかと思い外に出たら給湯器から出火──原因は漏電だそうだ──家が全焼した。
 それからほぼ毎日、同じように『黒い腕』を見たという人が現れてレスが続々とついていき、今では独立したスレッドが建っている。とはいえ、独立したスレッドの方はというと、見た人間と見ていない人間の──いわば信じる者対信じない者の構図だ──宗教戦争の体を成しており、あまり具体的な話はされていないのだが。
 僕はスレには参加せず、主に元のスレに書き込まれた内容から「まずはその事件が本当に起きていたのか?」ということを探した。具体的には、ローカル紙からネットニュースまで該当しそうな事件を調べては、その事件が起きたかどうかの裏付けを取っていったのだ。
 さらにはその宗教戦争のおかげで、「みたことがある」という人のIPアドレスが何のカバーもされずに書き込まれていた。実はIPアドレスを使うとプロキシサーバーを経由していたりスマートフォンで書き込んだりしていない限りは、書き込んだ主の居住エリア──日本であればどこの都道府県に住んでいるか──が分かる。そこから書き込んだ主が同一人物かの判断をしていった。とくにこういうBBSでは、同一人物が別人に成りすましてそういう噂を作ることもあるからだ。
 当然、百近くあるすべてのレスを裏付けすることは叶わなかったものの、大体八十三のレスは事実確認が済み、内本当に起こったと思われるのは十五個。さらにその過程で、同じように『黒い腕』を見たというブログやSNSの書き込みも見つけて裏付けを行い、一割くらいの記事が本当と考えられるというのが分かった。
 そういうわけで認知心理学の端っこ1ピクセルを噛んでいる僕は、『黒い腕』が集団ヒステリーやフォークロアによる幻覚、便乗したジョークとは考えにくいという結論に至り、その正体を暴こうといろいろ探っているというわけだ。
 とはいえ、『黒い腕』という形に限らないのであれば、ああいう「事件の前に起こる前兆」的な何かはいくつも見つかる。死者が出る前の家に黒い煙が入っていった、リンカーン暗殺を予兆するかのような写真のノイズがある……などなど、玉石混交ではあるが。僕の見立てでは、『黒い腕』もそういうものの一つなのだろう。
 基本的に、科学者というのは幽霊や超常現象、神、死後の世界を信じない人が多く──アラン・チューリングは無神論者でありながら死後の生を信じていたそうだが──『心霊現象イコール似非科学』という数式が出来上がっている人も居る。とはいえ脳科学者や心理学者の一部には、一般的な意味での幽霊ではないものの心理学的・神経学的な意味での幽霊を信じている人が居る。
 そして、僕はどちらかといえば後者寄りの人間だ。
 僕はすっかり冷めたインスタントコーヒーに口をつけ、苦みより酸味が先行するその味に辟易しながら、また資料を探り始めた。

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 いったい誰に話しているのか分からないまま、長々と僕が徹夜している経緯を語ったあの夜から一週間後。あれから結局、調査は全く進んでいない。というよりは、家に資料といえるような資料が無くなってしまった。
 というわけで、今の僕は認知心理学や社会心理学──今はそっちの方面で仮説を立てられないかということを考えている──の本を借りるために図書館に行った帰りだ。
「これでだめなら、次は脳科学や神経科学あたりを漁ってみるか」
 そんなことを呟きながら、ガラス越しに賑わっているのが見えるスーパーマーケットの前を歩いていると、ガラスに反射した景色の中に何か黒いものが見えた。
 僕が目を向ける。すると、向かいにある月極駐車場の看板から黒い腕が出て、僕に手招きをしていた。
 思わず借りた本が入っているカバンを取り落とす。
「うそだろ?」
 目をこすってもう一度。紛れもなく、黒い腕が手招きしていた。
 その腕は良くホラー映画で描かれるような、煙っているように輪郭のはっきりしない腕ではなかった。周りから浮いてしまうほど輪郭がはっきりしており、動きも人間そっくりでおそろしく滑らかだ。一番近いのは、人間の腕にタールをぶちまけるか黒いペンキを塗りたくったものだろう。
 しかし、看板の下から下半身が出ていない。どんなに細い人間でも、看板を支える二本の支柱に体を隠すことはできないはずだ。
 だから、もし見ている光景が事実ならば。若しくは、遺伝子改変されたか傷を治すためにヤモリの体液を注射したヤモリ人間の存在を否定するのであれば。
──腕だけが看板から出ている……。
 どう考えてもあり得ない。僕が幻覚を見ているということでしか説明がつかないが、幻覚を見るようなものは摂取していないし、睡眠時間だって十二分にとっているし、そういうものを起こす要因は何一つないと自負している。 
 その時、腕が看板の裏に引っ込む。と、同時に妙に甲高いエンジン音が後ろから聞こえてきた。
 後ろを振り向くと、かなり大きなトラックが僕に向かってくるのが見えた。運転席には陸に上がったカニのごとく泡を吹いたドライバーが見える。かなりの速度だ。法定速度は軽々超えているだろうから、今から慌てて逃げたところで弾き飛ばされるのは避けられない。
 そういえば、人間は死ぬ寸前に生存本能が活性化して、死をもたらす状況から逃れるために頭をフル回転させるそうだ。
 だからなのか、僕には『黒い腕』の正体が分かった。いや、『黒い腕が厄災を起こす』という噂の正体が分かった。
 認知バイアスだ。
 あの黒い腕は死や災害をもたらすものではない。その状況に遭遇したことや防げなかったことから精神を守るため、無意識に「あれは厄災の腕だ」と考えたのだ。そうすれば、自分で自分を責める必要はなくなる。生物として当然の行為だ、誰も責められるものではない。
 だが、あの黒い腕、本当は──。

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留守番電話 2018年3月25日


倉庫を整理しているときに見つけた、古い留守電録音機能付き固定電話。好奇心から録音データを再生してみるが……。

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 十月二十日。私は父の代から使わなくなったものを色々と突っ込んだ挙句に収拾がつかなくなり、戸を固く閉ざすことで見て見ぬふりに成功した倉庫の鍵を、封じていた錠前に差し込む。赤茶けた粉とともに古い南京錠が外れ、シャッターに手をかけて上へ押し上げると、耳障りな音とともに家族代々の罪──いささか大げさすぎるだろうか──と相見える。
 中には大量のガラクタが散らばっていた。中学生の半ばくらいで部活をやめた結果、日の目を浴びなくなった凸凹のアルミ製バット。小学生くらいまで乗っていた古く小さな自転車。大枚はたいて父が購入したものの使い方がわからず、ろくに触れもしなかったデスクトップパソコン。そのほか、シミやシバンムシが跋扈していると思われる日焼けしていない書籍や何が入っているかわからない段ボール箱などなど、家族の歴史の枝葉末節が積み重なっていた。
「懐かしいな」
 私が中に踏み込むと、ほこりっぽい臭いと古い紙の匂いが鼻を覆う。袖で口をふさいで、どこから手を付けようかと逡巡していると、仕事場が大阪のおかげで標準語と関西弁が中途半端に入り混じった──俗に言う似非関西弁だ──弟の声が後ろから聞こえてきた。
「兄ちゃん、こんなぐちゃぐちゃなもん放置してたんか?」
 流石に私一人では、こんな混沌としたものを片付けられないとわかっていたので、半ば巻き込む形で弟を呼ぶことにしたのだった。尤も、お礼としてこっちにいる間に飯をおごると言ったら、弟は喜んでいたのだが。
「マスク、あったか?」
「ほれ」すでにマスクを着け軍手をはめている弟が、私に紙マスクを差し出す。「それでどこから?」
 私がマスクを着けて棚の上を指さすと、弟は黙って棚の上の段ボール箱──小さな色々なものが蠢くのが見えたのは光の錯覚だろう──を床におろす。ふたには『雑貨』とフェルトペンで書かれていた。段ボール箱を持ち上げた私はそれを、倉庫の外に運び出した。
 
 何度もその作業を繰り返し、倉庫がほとんど空になった頃。弟の「兄ちゃん、これみてみい」という声が、外で捨てるものと保管するものを分別していた私の耳に届く。振り向くと、中くらいの大きさの段ボール箱を抱えている弟がいた。『みかん』と印刷されている箱だが、中身は違っていて欲しい。
「なんだ?」
「固定電話や。最近見いひんからな」
 そういって弟が段ボール箱を外に出して地面に置く。中を開けてみると、確かに昔使っていた記憶のある固定電話だった。使っていたといっても買ってすぐに壊れたか何かで、父親が倉庫にしまい込んでしまったものだったのだが。
「今じゃ、スマフォがありゃ何とでもなる。これも珍しいもんやないか」
「まあな」
 弟が思いついたかのように「せや、コンセント繋いだら留守電が録音されてたりせんかな?」と私に聞いてくる。こういう無駄な思い付きは弟の専売特許だ。
「聞いてどうする? というか、残っている保証もないだろう」
「まあまあ、物は試しってやっちゃ。もしかしたら、死んだお袋の声でも残っとるかも知らん」
 私はため息をついた。何年も一緒に過ごしてきて身に染みていることだが、弟は一度決めたらやるまでごね続ける。多分、今回も例外ではない。
「わかったわかった。その代わり、倉庫の整理が終わってからな」
「もちろん。さあ、ぱっぱと片付けんよ」

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 夕闇が差し込むころになって、ようやっと倉庫の整理は終わった。結局ほとんどの物を捨てることとなり、そこには思い出が多少なりとある金属バットや自転車、デスクトップパソコンも含まれていた。予想通り虫の巣窟と化していた本は開くことも憚られたため、とりあえず雨のあたらないところに保管して、資源回収の日にまとめて捨てることになった。
 というわけで、家のコンセントに──幸か不幸か、電源コードから子機まで必要なものはすべて段ボール箱に入っていた──古い固定電話のACアダプターを接続すると、赤い留守電ランプが点滅し始める。子供のころの記憶を掘り返してみると、これは留守電が録音されているというサインだったはずだ。
「お、録音されとるみたいや」
 ご機嫌な声の弟が留守電ボタンを押すと、耳障りな電子音と〈八月二十一日〉という合成音声のアナウンスの後に『聡、おばあちゃんだよ。電話したのだけれど、忙しいみたいだね。あとでかけなおすよ』というゆがんだ声がスピーカーから流れ出てきた。
「聡やから……父方のばあちゃんやね」
「ばあちゃんか。懐かしいなあ」
 思わず言葉が口をつく。父方の祖母は私が十四歳、弟が十歳ころにひき逃げ事故で三日間ほど生死をさまよった後に、多臓器不全で亡くなった。遠くに住んでいてあまり会えなかったのもあって思い出は多くないが、会うときにはいつも親切にしてくれたので、葬式では大泣きしたのを覚えている。たしかあの日は、九月二十二日だったはずだ。
 また、スピーカーから電子音が聞こえてくる。
『〈九月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。孫たちは元気かい? ばあちゃん、体が痛くてねえ。また、暇を見て電話をおくれ』
「ばあちゃん、結構な頻度で電話かけてきていたんだな」
 私が懐かしむようにつぶやくと、弟も同意するように頷いた。
「せやなあ。あんまり覚え……」突然、弟の顔が青ざめる。「……まてや兄ちゃん。ばあちゃん、事故にあったの何月何日やった?」
 突然聞かれ、私はしどろもどろになりながら「え? 九月十九日だろ?」と答える。
「今の録音があったの、九月二十日やったぞ? おかしいと思わんか?」
 そう言われれば、確かにおかしい。事故があった後、祖母は意識不明だったのだから電話など掛けられるわけもない。だが、何年かというアナウンスがないことを考えると、もしかしたら事故に遭う前年の録音かもしれない。
「待て待て。何年の九月十九日かわからないだろ? もしかしたら、事故に遭う前の年かもしれないじゃないか」
「俺もあんまり記憶力がいいとは言えん方や。でもな、この電話買ったんは俺が九歳の時だったんは覚えとる。誕生日の日の前日にこの電話買って、翌日俺の誕生日プレゼントを買ったんやから。そいで、でけえ買い物を二回もしたのはあれが最初で最後なんや。よう考えてみ、俺の誕生日はいつや」
「十一月二十日……」
 サアッっという、血の気の引く音が耳の奥で聞こえる。その時、またしても電子音が聞こえてきた。
『〈九月二十三日〉聡、おばあちゃんだよ。妙に前が暗くてねえ、目も見えなくなったのかねえ。聡の方はどうだい? たまには電話してきておくれ』
 そうだ、確かに弟の言う通りだ、この電話はおかしい。
 あの時のことを思い出す。新しく買った電話を一年も使わずに倉庫へ仕舞った父の行動がおかしいと、当時中学生だった私は思っていた。それで仕舞い込んだ後の父を問い詰めようとしたものの、あまりにも顔が青ざめていたせいで尋ねることができなかったのだ。
「どうするんや兄ちゃん。コンセント抜くか」
 ただでさえ早い弟の口調がさらに早くなる。だが、私は怖いもの見たさと何が起きるかわからない恐怖が競り合った結果、「いや、最後まで聞くぞ」と呟いた。
「正気か? 何が起きるかわかったもんやない」
「あんな汚い倉庫にしまわれていたんだ、機械が壊れたっておかしくない。それにただの録音なんだ、何も起きはしないさ」正直な話、全くその言葉に自信はなく、声も震えていただろう。
 それでも、怖いもの見たさという名の好奇心が私の背中を押していた。
『〈十月十三日〉聡、おばあちゃんだよ。最近、電話くれなくなったねえ。会いに行ってもいいかい、都合の付く日を教えておくれよ』
 そのメッセージを聞いた後、弟はため息をついて「……なあ、兄ちゃん。父ちゃんが倉庫に電話仕舞ったん、いつやったっけ。確か、俺の誕生日には変わっとったよな」と尋ねる。
 私はというと、以前読んだW・W・ジェイコブズの『猿の手』を思い出していた。あれでは、死者が家に訪ねてきたではないか。
 何も答えずにいると、耳障りな電子音が、まるで誰かの来訪を知らせるチャイムのようにスピーカーから鳴り響く。私は思わず身を固め、出てくるメッセージを待ち受けた。
『〈十月二十日〉聡、おばあちゃんだよ。お前たちの顔がみたくなったから、今日お前の家に──』
 その時、突然立ち上がった弟が固定電話を持ち上げ、勢いよく床にたたきつけた。ACアダプターが外れ、強い力で叩きつけられた電話機はバラバラに砕け散る。当然、電話機は沈黙した。
 突拍子もない弟の行動に、素っ頓狂な声で「いきなり何を?」と聞くと、弟がみたこともないような顔で私をにらみつけてきた。
「兄ちゃん、俺はあんまり心霊だとかオカルトだとかは信じへん。でもな、今回は物がちゃう。これはやらせだとかそういうもんやない、あかん奴や」その気迫に押された私は黙り込んでしまった。
 突然、段ボール箱に入っていた機能していないはずの子機に着信が入る。
 誰が出るか、予想はできていた。だからこそ、私は恐る恐るスピーカーを耳に当てた。
「もしもし」
『里麻かい?』ひずんではいたものの、スピーカーの向こうから聞こえてくる声は紛れもなく、父方の祖母の声だった。『大きくなったねえ、おばあちゃんだよ。さっきも言ったんだけどねえ、今からそっちに行くからねえ』
 そういって、電話が切れる。
 次は私が弟に叫ぶ番だった。
「玄関の鍵を閉めろ」
 叫ぶと同時に、玄関からみょうに湿ったようなドアをたたく音が響いてきた。思わず、私たち二人は顔を見合わせる。
「里麻、一馬、おばあちゃんだよ。開けておくれ」
 そのはっきりとした声は、玄関のドアの向こうから、聞こえてきた。

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F to F 2018年2月27日


誰もいないのに話し続ける青年。それを遠目から眺める老人。最後に待ち受ける二人の共通項。二人は何と顔を合わせたのか?

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 私は行きつけの喫茶店のお気に入りの席に座りながら、ある小説を読んでいた。年を取ってしまうと細かい字を読むのも難儀してしまうが、何十年と生きるうちに体に染み付いてしまった習慣というのをこそげ落とすのは、老人にはあまりに痛みを伴う行為だった。
 ページをめくる。店内には大学生かそれとも社会人か、若い男が一人いるだけだ。いつもこの時間なら顔なじみのマスターを除いて誰もいないのだが、今日は珍しい。
「あ、来た。……なるほど、準備に手間取ってたのか」
 男が誰かに向かって話し始める。はて、誰か席に座っていただろうか。否、ドアベルすら鳴っていない。誰か来たらカランカランと音が鳴るはずだ。
 違和感と少しの好奇心に駆られた私が文章から目を上げると、青年が目の前の空いた席に向かって笑いかけているのが見える。やはり、彼の目の前の席には誰も座っていない。
「本当綺麗な黒髪だよな。それだけ長いと、ケアも大変そうだが。……やっぱり慣れるんだな。注文は?」
 彼が手を上げてマスターを呼び、アイスコーヒーを一つ注文する。彼の前にはまだ湯気を上げているホットコーヒーが既にあるというのに。
 私は非日常感に飲まれ始めているのを感じていた。六十年以上生きているが、そんな光景は初めてのことだったからだ。
 マスターが注文のアイスコーヒーを持ってくる間にも、彼は誰もいない空間に向けて話しかけていた。歩いているマスターと目が合う。どうも、マスターも同じような違和感を覚えているようだ。
 私は本を閉じて、彼に感づかれないようにしながら彼の話を聞き始める。心の底では見慣れないものを見てしまった恐怖から、家に帰ってしまうという選択肢も考えた。だが、顔なじみのマスターをこの異様な空間に一人置いていくのはあまりに薄情だという声が、私をいつも座っているこの席にとどめていた。
「ありがとうございます」
 マスターが下がってカウンターの中へ戻っていく。その所作を見る限り、内心怯えているようだ。とはいえ、無理もない。いくらか距離の離れている私だって、怯えているのだから。
「そういえば、いつもその赤と黒のワンピースだよな。一体、何着持ってるんだ?」
 どうも彼にしか見えていないその人物は、長く綺麗な黒い髪を持ち、赤と黒のワンピースをいつも着ているらしい。今まで聞いてきたことを纏めてみると、私は彼が見ているのは女性ではないだろうかと考えていた。とはいえ私には見えていないのだから、年齢も顔も想像するしかないのだが。
「そういえば、今日はどうしようか。珍しく俺の家じゃないけど。……買い物か、何欲しいんだ? 服?」
 彼は不服そうに呟く。そういえば、私も女性の買い物についていくのは嫌いだったなんてことを思い出す。だが思い出をかき消すような光景が今この時、目の前に広がっている。
「唇が薄いこととか目が大きくないこととか、気にしなくていいと思うが……十分、今のままで美人だし、肌も白くてきれいだ」
 私は脳内の女性の姿に、彼の言ったことを付け加えていく。薄い唇、あまり大きくない目、そして白い肌の美人であるということ。少しずつ、私の中で目の前にいる『彼女』が像を結び始める。
「ごめん、気に障ったか」
 彼が謝るかのように、目の前の空間へ頭を下げる。その時、マスターが近寄ってきていつの間にか無くなっていたコーヒーをデキャンタからカップにほんの少し注ぐ。注ぎ終わると、短い鉛筆と紙を自分の体で隠しながら私へ差し出して、カウンターへ戻っていく。紙にはすでに、「彼は一体何をしているんだ」と書かれていた。
 なるほど。確かに声を出して話せば、彼に聞かれてしまうだろう。もし彼がなんらかの自分の意志ではない原因でああいうことをしているのであれば、何が引き金になって何が起きるか分かったものではない。
 マスターの機転に感心しつつ、私は持ってきた数冊の本で鉛筆と紙を隠しながら、そこに彼女か女友達と話しているように見えるということとその外見を箇条書きにして書き連ねる。そして、カップに口をつけて飲むふりをしながら、彼の話に耳を傾けていた。高頻度でマスターを呼んでお代わりをしていては彼に疑われかねないことと、情報が欲しいと考えたこと故の行動だった。
 彼が「よく朴念仁と付き合う気になったもんだ」と自嘲気味に笑う。それを聞いた私は、メモに書いてあった女友達という部分を横棒で消す。
 私はその場の異様さに慣れてきているのを感じていた。彼を中心にして広がる狂気に私も少しずつ染められていくような、まるで彼と知識を共有しているかのような、そんな気持ちがしていた。それと共に、『彼女』の像がはっきりとしていく。
「相変わらず意図がつかみにくいな。感情なんて、人ならだれでもあるだろうに」
 そのとおりだ。私も丁度今、人間ならば持ち合わせているその感情──恐怖──に苛まれている。
「まさか自分がそうだ、なんてことは言わないよな? 変なこと言わないでくれよ。……待ってくれ、俺がまだ飲み終わってない。飲み終わったら行こう」
 彼はカップに口をつける。その文脈からして目の前にいる『彼女』はアイスコーヒーを飲み終えているのだろうが、当然ながら誰も口をつけていないコーヒーが減るわけはない。
 私は彼が見ている現実と私が見ている現実が異なるのではないかと気づいた。では、どちらが現実に沿っているのか。私とマスターが見ている彼の目の間に誰もいない現実か、それとも彼が見ている彼女が目の前にいる現実か。口の中が粘つき始めるのを感じる。どちらが正しく、どちらが間違いなのか。若しくはどちらとも間違いなのか。
 混乱し始めた思考をリセットしようとして、カップに口をつける。だが、すべて飲み干していたのを忘れていた。私はマスターを呼んで、コーヒーを注いでもらうと同時にメモをひそかに渡す。マスターはメモを一瞥して、またカウンターへ戻っていった。
 それからさほど時間もかからず、コーヒーを飲み終えた彼はカップをソーサーに置き──今まで気づかなかったが──椅子の下に置いてあったカバンを手に持つ。そして、「お会計お願いします」という声と共に立ち上がってレジへ向かう。
 マスターはレジに向かい、一人しかいないのに二人分のお金を支払う彼の精算をし始める。私は彼がこちら側を向いていないことを良いことに、椅子の背を手すりのようにして体をひねり、彼の背中を見つめて考えていた。
 一体どちらの現実が正しいのだろうか。私は何十年と過ごしてきて、奇怪なものも目にしてきている。多数の意見が正しいとも限らないということも知っている。そして、自らの見たものが必ずしも正しいとは限らないという経験もしてきた。とくに最近は自らの体の衰えのせいで、そういう経験がより増えてきたように感じる。
 では、この光景は?
 自分が立っている足場が崩れ去ってしまったかのような気持ちがする。自分を信じられないことがこれほど恐怖だとは知らなかった。
 支払いを終えた彼がドアを開けて──この時はドアベルが鳴った──外へ出ていく。彼はきっと、彼女と一緒に買い物に行くのだろう。
 緊張し平静でいられなくなった臓腑が、大量の血液を求める響きを感じる。私はもう閉まってしまったドアを見つめたまま、開いている右手でテーブルの上をまさぐりコーヒーカップを掴む。そうだ、こんな苦く受け入れがたい考えは、同じく苦いもので流し込んでしまえばいい。それに二度と彼と会うことはないのだから、彼と私の世界が混じり合ってしまうことはないのだ。
 変な体験は忘れてしまうに限る。それは私の生涯で見つけ出した処世術の一つだった。
 コーヒーを飲もうと正面を向いた私は、カップを取り落とす。少しだけ冷めてしまった黒い液体が腹にかかるのを感じ、白く無垢なカップが割れる音が耳に届く。けれど、目の前にいる存在がそれを忘れさせてしまった。
 私の前にある椅子に、私が想像していたよりも少し年を取ったように見える彼女が座っていた。漆黒の髪との対比が眩しい白い肌、少しだけ退屈そうに閉じられている目、黒い袖以外は血のような赤をしたワンピース、そして薄紅色をした唇。
「どちらの現実も正しいの」薄い唇を少しだけ持ち上げ、彼女がほほ笑む。「だって、あなたたち二人とも恐怖を抱いているから」
 その刹那、体の奥から響いていた血液の音は私の恐怖に耐えきれず、止んだ。

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2018年2月13日


電車の中で出会った少女に見つめられてから、 異様な光景を目にするようになった彼。最後に彼を待ち受けるものとは……。

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 ほとんど人のいない穏やかに揺れる電車の中で、僕は見ていたスマートフォンからなんともなしに目を上げる。窓の外はもう宵闇にのまれており、時たま映る街灯や踏切の信号が殺虫灯に飛び込む蛾のように僕の目に入ってきた。
 いつも読んでいるペーパーバックを持ってくるのを忘れた僕は、ただただ流れる外の景色を見ながら他愛もないこと──バイトが面倒だとか家族は何しているだろうとか──を、ぼうっと考えていた。
 ふと周りを見渡すと、中学生くらいだろうか、化粧をしているわけではないけれど整った顔の女の子と目が合う。
 長い黒髪を綺麗に梳き、大きな目が少しだけ眠たげに閉じられている、鼻筋の通った人形のような白い顔。この時期に似合わない、黒い袖をした赤いワンピースと黒いストッキング、赤いパンプスを履いた少女。その周りに親のような人の姿はない。
 そんな子が薄い唇をほんの少しだけ曲げて、微笑みながらずっと僕を見つめている。僕が顔を少し動かすと、彼女の黒目も一緒に付いてくる。
 僕は思わず顔をしかめる。そんなに不審者みたいな服装はしていないはずだが、なにか気になることがあるのだろうか。とはいえ妙な動きをしたらこのご時世、本当に不審者になるか捕まることだろう。僕は無視して下を向き、待ち受け画面を家族写真にしているスマートフォンのロックを外す。
 そして、僕はそのまま固まった。
 待ち受け画面に映る家族みんなが僕を見つめていたからだ。写真の中に映る僕自身でさえも。もちろん、そんな風に撮った覚えはない。第一、顔を動かせば黒目も一緒に動く写真なんて、そうそうあるもんじゃない。
 僕は思わず目をつぶる。これは幻覚だ、頭の中の何処かがおかしくなったかなんかで、見えないものが見えてしまうのだろう。
 目を開いてもう一度写真を見る。
 家族全員から見られていた。
 幻覚を振り払うように頭を振ってもう一度。
 見られている。それどころか、皆の目が気味の悪いほどに見開かれている。こんな写真じゃなかった、それだけは確かだ。
 その様子があまりにも不気味で、僕はスリープモードにするのも忘れてスマートフォンをポケットに突っ込む。その時、ちょうど電車が駅で止まってドアが開き、何人かがガヤガヤと騒ぎ立てながら乗り込んできた。
 僕は思わず後ずさろうとして、電車のガラス窓に頭を強か打ち付ける。
 乗客全員に見られている。楽しそうに話す大学生や高校生も、一人寂しく乗り込んでいる高齢者も、皆が皆僕の方を見て薄ら笑いを浮かべていた。学生に至っては、話している相手じゃなくて僕を見ている。
 おかしい、こんなことがあるわけない。
 僕が誰もいない真正面を見ると、ガラス窓に座っている僕の姿が映る。
 その『僕』も、僕の目を見て薄ら笑いを浮かべていた。
 僕は床に目を落とす。すると誰かの靴跡と思わしき泥の跡が、顔のようになっていた。その目にあたる部分が僕の目を捕らえるかのように動く。僕がすかさず上を見ると、電車の天井に健康食品の広告が貼りだされていた。
 女性がサプリメントの容器を持って笑っている、良くあるタイプのあれだ。でも、その目はやはり僕を見つめていた。慌てて目を背けると、次は週刊誌の広告が目に入る。最近話題になった俳優の特集を組んでいるようで、その俳優の写真がでかでかと掲げられていた。
 そして、その目は、僕を見ていた。
 目から逃れられないと悟った僕は目をつぶる。こうすれば目の前にあるのは闇だけだ。そこに目は存在しなくなる。
 そう思っていた。
 けれど、最近見た映画のワンシーンが何ともなしに頭をよぎる。その登場人物はこちらを見つめては、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべていた。僕は首を振って頭に浮かんでいた映像を振り払う。すると、次は最近聞いた音楽のプロモーションビデオが目に浮かんできた。それはよくあるタイプの歌手のライブ映像を切り取った物だったけれど、やはり歌手も僕を見ては笑っていた。
 瞼は僕を守ってくれない。そう気づいて目を開ける。
 半狂乱になりそうな自分を抑えつつ──こんな公共の場で暴れれば間違いなく迷惑だという思考はまだ残っていた──僕は出来る限り誰とも目を合わせないように下を向きながら、僕は椅子から立ち上がって歩き始める。
 何処かに人が居ない車両があるはず。そんな微かな期待を抱きながら。

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 なんとか揺れる電車の中を歩き通して一号車までくると、そこには誰もいなかった。上手く場所さえ選べば広告も目に入らないし、ブラインドを下げれば窓に映る僕の姿も見えなくなる。
 ほっと胸をなでおろし、いやいやながら目を広告に合わせつつ歩いていくと、ただの風景が書いてある広告が貼られている場所を見つけた。僕はすかさず対面にある窓のブラインドを下げ、ため息をついてからシートに腰かける。
 やっと冷静になった僕は、バイト先に休みの連絡を入れようかと迷っていた。こんな状況じゃバイトもままならないのは明らかだ。一日寝れば少しは気分も良くなるかもしれない。
 結局、休むことに決めた僕は指の動きだけでロックを外し、出来る限り家族写真を見ないようにしながら──その間も目は合っていたけれど──電話アプリを開いて、登録してあるバイト先に電話を掛ける。電車の中で電話を掛けるのはマナー違反だが、切羽詰まっているこの状況でやむを得ない。
 自分をそうやって正当化しつつ数コール後に出た店長に具合が悪いことを伝えると、店長は「ゆっくり休め、何とか回すから。別の日にシフトを入れておく」と言ってくれた。僕は感謝の言葉を告げてから電話を切ってスマートフォンをポケットに仕舞う。
 少ししたら停車駅だ。そこで降りて、下りの電車に乗り換えて人の顔を見ないようにしながら部屋に帰って横になろう。そうすれば誰とも目を合わせずに済む。明日になれば、きっと誰とも目が合わなくなることだろう。なに、一日寝れば大抵の問題は解決するんだ。
 しかし、いったいどうしてこんなことになったのか。あの少女と目を合わせて以来こうなってしまったが、彼女がきっかけなのだろうか。それとも、僕が元々おかしくてこうなったのか。
 少し考えてみて、結論が出なかった僕は考えるのを止めた。どうでもいい、とりあえずは人の顔を見なければこんな不気味な経験をせずに済む。それに電話なら目を合わせずに済むのだから、お母さんに相談してみよう。こんなことを終わらせる、いい方法を知っているかもしれない。
 電車が速度を落とす。そろそろ目的の停車駅だ。
 ホームに入り、窓の外が明るくなってゆるやかに流れていく。僕はポールを掴んで、手近なドアの前に立つ。ホームにほとんど人はいないようだ。
 エアコンプレッサーの音が聞こえてドアが開く。僕が降りると、ほどなくドアが閉まる。そして、あの不気味な電車が去っていく風切り音が後ろから聞こえた。
 僕はあたりを軽く見まわした。なにせほとんど使ったことのない駅だ。時刻表を見ないと、何時来るのかさっぱりわからない。広告やポスターに目を向けないように注意しつつ時刻表を探すと、ほどなく目的のものを見つけた。
 近くまで歩き、腕時計と照らし合わせながら僕はいつ下り電車が来るのかを見ていると、不意に後ろから「ねえねえ、お兄さん」という可愛い声が聞こえてきた。声からして中学生くらいの透き通った声。
 僕が振り向くと、電車の中に居た彼女が気配もなく僕の後ろに立っていた。僕の胸くらいの身長と見間違いようのないあの顔、そして服装。
 その目は、僕を見ていた。
 ヒューヒューという息遣いが聞こえて、心臓から送り出される血液が耳の奥でうなりを上げ、脇の下や手のひらがじっとりと湿るのを感じる。彼女は「そんなに目を合わせるのが怖いの?」と子供らしい声で僕に訊ねる。その質問に何も言えないまま、僕は彼女を見つめる。けれど、頭の中では色々なものが駆け巡っていた。
 なぜここに彼女がいる? なぜ僕が人と目を合わせたくないと知っている? 一体いつから後ろに立っていた?
 そして、彼女は一体何者だ?
「そんなに怖いなら──」彼女が不気味な顔でにやりと笑う。その顔は人間とは思えないほど口角が吊り上がっていて、ともすれば引きつっているようだった。「──誰とも目を合わせないで済むようにしてあげるよ」
 その瞬間、彼女の目がすべて白く染まる。いや、彼女が目をぐるりと回して、僕に白目を剥く。
 同時に、周りのポスターや広告の人間たちの目も、一斉に白く染まった。

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