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マネキン工場 2020年7月18日


家賃も払えない彼は単発アルバイトに応募し、なんとかひと月だけでも凌ごうと画策する。しかし、彼が派遣されたのは……。

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「……金がない」
 湿り気を帯びた、綿がつぶれて平らになった布団の上でぼそりとつぶやく。小説家を夢見て数年前に上京してきたはいいが、そろそろ貯金も尽きてきて暮らすのにも事欠くようになってきた。漫画家ならアシスタントというやり方もあるのだろうが、師弟制度も特にない小説家という職業はどうにかこうにかして自分で金を稼がなきゃならない。
 誰かのヒモになろうなんて下衆なことも考えたことはあるが、それをやるには社交性も容姿も足りなかった。というか、どうして上京すれば小説家になれると思ったのか、数年前の俺の首根っこをつかんで揺さぶりたいくらいだ。
 まだ止められていないスマートフォンの口座確認アプリで貯金を確かめると、1000円ちょっと。家賃の引き落としは明日。
「まずったな」
 そう独り言つ。家賃どころか日々の食事にも事欠くレベルだ。幸い、財布に1000円札が一枚入っているが、それを合わせて全財産は2000円。クレジットカードは持ってないから、きっかり2000円ちょっとだ。
 俺は頭をかいて、どうしようか考えた。まあ、家賃の滞納に関しては引き落とし日を過ぎてから二週間くらいまでならなんとかなるのが経験上分かってる。はがきが来て、指定された口座に振り込めば特に何も言われない。
 つまり猶予は約二週間。
 消費者金融から借りるのも考えたが、返済できる見込みもなければ恐らく審査も通らない。定職なし、資格なし、収入ほぼなしとかいうどうしようもない俺が審査を通過できるとは思えない。それに親は耳にタコができそうになるほど俺に言っていた、「借金は作るな」と。
 じゃあ、親のすねをかじるのはどうだろう。しかし、俺はすぐにその考えを取り消した。そんなことすれば実家に帰ってこいの大合唱が待ってるだけだし、なにより上京した理由としてはあの居心地の悪い実家にいたくなかったからなのだ。常に父親と母親が大声で喧嘩しているような家にずっと居続けたい人間などいないだろう。それも日々の酒代がどうだとか飯がどうだとかいう下らない理由で。
 さて、どうするか。
 ふと単発バイトのことに思い至る。登録したはいいものの面倒くさくてやってないアレだ。働きたくはないが、こうなっちまえばこれしかない。朝9時から18時とかいうプライベートの時間も取れないくらい長い労働時間だが──正社員になると毎日これだというのが信じられない──こうなれば背に腹はかえられない。
 早速アプリを起動して仕事を探してみると、楽そうなのが一つ見つかった。
「マネキン工場でのピッキング作業か」
 倉庫でリストに載ってる荷物を所定の場所から集めるという、単純な仕事だ。この応募を見る限り、そこまでの力仕事も必要ないとのことらしい。とりあえず軍手さえ持ってこればいいとのことだ。変わり映えが無くてつまらなさそうだけれど、楽そうな仕事だ。
 俺はとくに考えることもなく、応募の連絡を入れた。

 その日、俺は古びた倉庫の前に立っていた。古びた倉庫と言う以上、表現しようのない建物だ。
「ここで……あってるのか?」
 俺は単発バイトのアプリを起動して、送られてきた地図をもう一度見直す。駅から真っすぐ歩いて左に曲がって……間違いなさそうだ。
 辺りを見回してみても、誰もいない。河原の近くに倉庫が立っているから、人も建物もない。
 やんわりとした後悔と不安が俺を包み込む。応募しなきゃよかったという考えが頭をよぎった。
「あー、派遣の人!?」
 その声とともに倉庫から痩せぎすのおばさんが飛び出してきた。つやの一切ない長いぼさぼさの黒髪と落ちくぼんだ眼、薄い色の肌と唇をしたおばさんが俺の手を掴む。その力は痩せてるわりには妙に強くて、あざになりそうなくらいだった。
「遅刻してんだよ、早く来なさい」
 俺はおばさんに引っ張られて古ぼけた倉庫の中に入っていった。
 
 倉庫の事務所で休憩所と仕事のやり方──渡されたリストに載ってる棚の番号と棚に置いてある段ボールのラベルの表記を照らし合わせて、書いてあったら持っていくというものだ──だけ教えられて、妙に冷房の効いた倉庫に一人放り出された。
 休みは10時と14時に10分くらいの休みと12時の昼休み。17時までの作業ということらしい。
「さて、やるか」
 作業監督も誰もいないなんてことがあるのだろうかと思いながら、俺はリストを眺める。一番近い場所に歩いていくと、バーコードとともに『左腕』と書かれたシールの貼ってある段ボール箱があった。
「腕……?」
 少し気になったが、あまり詮索する性質でもない。俺は箱を持ち上げる。それなりの重さだ……大体4 kgくらいだろうか。マネキンを解体したことはないからなんともいえないものの、重すぎるような気がしないでもない。一部位だけでこれだけ重ければ、トラックで運んだりディスプレイに並べたりするのが大変だろう。
「よいしょっと」
 箱を抱えて所定の場所へと持っていくとやっぱり誰もいなかったが、床には『置き場』とだけ書かれた養生テープが貼ってあった。
──とりあえず置いときゃいいのかな。
 俺は箱をおいて、またリストに書かれた棚の方へ戻る。次の箱には『左もも』と書いてあった。隣の箱には『右すね』。
「……」
 マネキンをまじまじ見たことはない。でも、そんな細かく分かれてるものなのだろうか? それとも、高価なマネキンはまるで球体関節人形のようになっているのだろうか。
 とりあえず仕事をつづけよう。俺は『左もも』と書かれた箱を持ち上げる。10 kgはあるんじゃなかろうかという重さに苦労しながら、何とか置き場へと持っていった。

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 昼休み、俺は半額になったパンと100円の缶コーヒーを口にしながら、今まで運んできた箱のラベルを思い出していた。幸運なことに、食事をとってる休憩室には人がいない。
 腕、足、腹腔、胸部……やはりおかしい。これに内臓が書かれた箱があれば、人体模型の出来上がりだ。
 スマートフォンでマネキンについて軽く調べてみる。やはり、胴体が二つに分かれているマネキンなんて早々売ってない。第一、平均的なマネキンの重さは全体で7~8 kgと書いてあるじゃないか。軽いものだと1 kgくらいのものだってある。
 逆に人間の腕とか足の重さを調べてみると、俺が持った箱と同じくらいの重さだった。これでも実家にいたときは買い物の荷物持ちを良くさせられていた、持ったものがどれくらいの重さか当てるのには自信がある。
──こいつはヤバいかもしれねえ。
 脂汗が背中を濡らす。もし仮に俺の運んできた者が人間の体だとしたら、本気で笑えない事態だ。恐らくこの倉庫を運営してるのは暴力団とかカルトだとか、そんな連中なんだろう。だから、バラした人間の体なんかを保管しているのだ。一刻も早く警察に連絡しないと。
 だが、ここで逃げだしたり通報したりしたら一体どんな仕打ちを受けることになるかわかったものじゃない。それに中身もまだ見てないのだ。もしかしたら、特殊用途のマネキンとかなら、滅茶苦茶重いのかもしれない。あと、金を貰わないと首が回らなくなるという事情もある。
 そのとき、良いことを思いついた。
 終業時間まで働いて、そのとき持ってる最後の一箱を開けてみよう。俺にとっては幸運なことに、段ボール箱の封はクラフトテープで軽くとめられているだけだ。開けようと思えば簡単に開くし、貼りなおすことも容易だろう。
 これで箱から出てきたものが人間の体の一部なら家に帰る道すがら交番に駆けこめばいいし、そうじゃなかったら封をし直して何食わぬ顔で帰ればいい。何事も起きなければ金がもらえ、何か起きても俺は犯罪組織の鼻を明かした善人ということになる。最低限のリスクで、どっちに転んでも美味しい。
 俺は残っていた缶コーヒーを一気に飲み干して、終業時間を今か今かと待ち望んだ。

 午後からの作業もピッキング作業で、やはり運ぶのは妙に重い体の一部が書かれた箱だった。ちょっと興味をそそられたのが、誰もいないはずの置き場に置いた箱が次の箱を運んだ時には消えていることだ。俺が見ていない間で、誰かが何処かへ運んでいるらしい。
 思えば、この倉庫には人の気配がない。今まで会ったのもあの痩せぎすのおばさんだけだし、昼食や休憩の時も誰もいなかった。社員用の休憩室が別にあるのかもしれないから、あまり気にしちゃいなかったが……ただ、休憩室近くにある喫煙所として使われているのであろうヤニだらけの防火バケツには、一本もシケモクが入っていなかったような気がする。今日のシフトには喫煙者がいない可能性も十分あるから、人の有無には直接繋がらないが。
 とまあ、そんなことを考え倉庫事情を詮索していると、運命の終業時間になった。
 俺は『頭』と書かれた箱を棚から一度持ち上げ──よりにもよって頭だと思いながら──床にそっと置く。
 慎重にテープを剥がしていくと、ぺりぺりと、拍子抜けするほど簡単にテープがはがれた。これなら、開けたことを知られることはないだろう。
 箱を開ける。
 その瞬間、俺は心臓が口から飛び出るかと思った。
 着ていたT-シャツが一気に冷や汗で湿り気を帯びた。
 中に入っていたのは、あの痩せぎすのおばさんだった。いや、あのおばさんの頭だった。それが、目をつぶった状態で入っていた。
──どういうことだ?
 つい数時間前まで動いていたあのおばさんが、何故か頭だけになってここにいる。死体を見つけちまった。第一発見者である俺が一番に疑われかねない。それに見つけた俺は殺されるだろう。
 一頻冷や汗を垂れ流した後、少し冷静になって見てみると箱の中に血はついてない。なんなら、首の断面はとても滑らかだ。それこそ、マネキンヘッドみたいな感じの断面だ。
 一番妥当なのは、ここがリアルなマネキンを作る製作工場かその保管所だということだ。なんでこのおばさんをモデルにしたのかは分からないが、そういうことなら分からないでもない。
 そのときだった。
 おばさんの口がにやりと動き、目が開かれた。
 目が合う。口が動く。
 俺は反射的に後ろに飛びのいて、訳も分からず走りだした。
 見ているものは真実じゃない。あんなことがあってたまるか。マネキンが動き出すなんて。
 棚に置かれている箱が一斉にガタガタとなりだす。
 ただただここから出たいと願い、俺は出口を探して倉庫を走り回った。

 それからのことはよく覚えていない。
 覚えているのは、股の部分をびっちょびちょに濡らして家のドアにもたれかかっていた事だけだ。
 確実なのは、兎にも角にも生きて帰ることができたらしいということだ。
 警察に言うべきかとも思ったが、あんな場所に関わるのは二度とごめんだ。一応、勤怠管理表に記入した覚えはないが、金も振り込まれていたわけだから。それでこの一件は終わりにしたかった。第一どうやってあの状況を説明すればいい。
 単発バイトの登録は消した。あんなバイトを取り扱ってるなんてまともな会社じゃない。家賃に関しては中学の時の友人まで頼ってなんとかかき集めた金で払えた。
 今はコンビニバイトでなんとか生計を立ててつつ借りた金を返している。いわゆるフリーターと言う奴だ。常勤じゃないしキツい仕事だが、命の危機と言うか訳の分からない非日常に出会わないだけ、あんな仕事よりマシだ。
 
 ただ、最近、首に切れ目というかつなぎ目のようなしわが出来てきた。
 いったいこれは何なのだろう。

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カムコーダー 2020年4月30日


通報のあった空き家へ向かった二人の警察官。中に入ると、テーブルの上には電源のついたカムコーダーだけが光を放っていたが……。

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 私は表面の塗装が剥げて、ボロボロになっているドアを叩く。玄関に敷かれたひび割れだらけのコンクリートの上に、木くずや塗装の粉がまき散らされた。明らかに管理もされていなければ人も住んでいない。
「随分ひどいありさまだな。本当にこんなところから通報があったのか」
 フラッシュライトを当てている同僚がそれを見て、苦々しい声を上げた。
「通報したのは携帯らしいから、度胸試しに来た不良どもだろ。全く、迷惑も良いところだ」
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとレバーを下げて奥へ押す。空き家なら鍵をかけているはずだが、こじ開けられたのかストライクが腐っているのか、耳障りな音を立てながらドアが開いた。
 同僚のフラッシュライトが室内を照らす。荒れに荒れた室内のところどころに、落書きやホームレスのものと思われる毛布が転がっていた。埃っぽい匂いと饐えた匂い、そして妙に甘ったるい匂いが鼻につく。壁際には使い捨ての針付きシリンジがいくつか捨てられているのが見えた。このタイプの注射器は薬物乱用者が刺さらなくなるまで使いまわすのだ。
「こいつはひでえな……」
 自分のフラッシュライトを手に持ち、スイッチを入れる。奥に歩いていくと、割れたガラスを踏んだ音が足元から聞こえた。
「気をつけろ、ガラスだ」
「了解」
 ライトを部屋の隅々まで向ける。元々は様々な部屋につながる廊下だったようだ。
「だれかいるのか?」
 同僚が奥に向けて叫ぶ。返事はない。
「怪我しているのかもな」
 返事できないほどの怪我であれば、一刻を争うかもしれない。軽く目配せをして、廊下の奥へと進んでいく。すると、耳障りなノイズ音が聞こえてきた。
「なんだ?」
「さあ……」
 音が聞こえる方へ歩いていくと、半開きになったドアから音が漏れていた。足で軽くドアを押すと、軋む音とともにドアが開く。大き目のテーブルにひび割れた食器、その中で死んでいる大きなネズミ……室内の様子から見て、どうも人が居たころはダイニングだったようだ。
 中に入ると、木が腐り始めてボロボロになっているテーブルの上に、場違いな真新しいカムコーダーが乗っていた。電源は入っており、開かれたままになっている液晶ビューワーは部屋の様子を写していた。
「このカムコーダー、最近出たモデルだな。中国製の安い奴だが」
 同僚がそう呟きながら、テーブルに近寄り、カムコーダーを手に取る。すると、「ん?」と声を上げる。
「どうした?」
「いや……これ、録画モードのままだ。誰かが録画していたのかもしれん」
 録画ボタンを押すと、録画が切れたことを知らせる電子音が鳴る。私は同僚の隣に立ち、ビューワーを覗き込んだ。
「再生してみよう」

 暗視モードのカメラに向かって自撮りしているのは、似合わない金髪をしたピアスだらけの男だ。そいつがニヤニヤと笑っていた。
「これから、地元で有名な心霊スポットにいきまぁーす!」
 素っ頓狂な間延びした声で男が叫ぶと、誰か別の人間の笑い声が聞こえる。男はカメラとは反対の手に持ったウォトカを一口飲んだ。どうも酔っぱらっているらしい。
 カメラがパンして、空き家のボロボロになったドアを映す。懐中電灯を持った別の男──似合わない髭を生やし、ジャラジャラとしたアクセサリーを身に着けているラッパー風の男──がドアを蹴り開ける。爆笑とドアがきしむ音。カメラはラッパー風の男とともに、空き家の中に入っていった。
 カメラを持っている男が「ホームレス居ねえかな。ボコボコにしたら楽しそうじゃね?」と呟いた。それを聞いたラッパー風の男がまた狂ったように笑い始める。
「今度、潰れたアマ連れてきてマワそうぜ」
「いいねえ」
 その時、二階から重々しい足音が聞こえてきた。カメラも二階へと至る階段を映した。
「誰かいるんじゃね、ボコろうぜ」
 ラッパー風の男がそういって、ひび割れの目立つ木の階段を上り始める。カメラも少し遅れて、男についていった。
 カメラが二階につくと、そこは屋根裏部屋のような部屋で、ラッパー風の男は何処にもいなかった。
「おい、ジャクソン、どこだ?」
 乱雑なものが積まれている部屋の何処かにいることを信じてなのか、カメラが部屋を隅々まで写す。すると、シミのあるマットレスが乗っているパイプベッドを写した時、カメラが動くのを止めた。
 カメラがベッドに近づく。手がフレームに写り、指でマットレスを押した。手がフレームアウトして、「なんだこれ、すげえ鉄くせえ」という呟きをマイクが拾う。おそらくカメラマンが指先の匂いを嗅いだのだろう。
 その時、うめき声が後ろから聞こえてきた。振り向くとそこには倒れている男の姿があった。カメラマンがブレるのも構わず走り寄ると、黒い液だまりの中にジャクソンと呼ばれた男が倒れていた。
「大丈夫か」
 そう声をかけるが、返事は返ってこない。
「うそだろ? 死んだのか?」
 後ずさるような音とともに、カメラが少しずつ動かない男から離れていく。そして 、轟音とともにカメラが床に落ちた。 叫び声。何かが飛び散る音。 けたたましい鳥のような鳴き声。
 しばらくして画面が落ち着いたとき、カメラには腐りかけてささくれだらけになった屋根裏部屋の床板だけが映し出されていた。

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「一体何があった」
 同僚がそう呟く。私にも理解ができなかった。しかし、もしかしたら今も二階にカムコーダーの持ち主がいるかもしれない。そうだとしたら、彼らは怪我をしている。一刻も早く病院に運ばなければいけないかもしれない。
「二階に行った方がいいとおもうが」
 私の提案に同僚が首を振る。
「まだ録画があるから、見てから決めよう。状況によっては、応援を呼んだ方がいいかもしれない。ヤク中相手に二人は危険だ」
「重症だったらどうする。もし、あの血だまりがどちらか一人の血液だったら、かなりの出血量だ」
「わかっちゃいるが……何がいるかわからないと危険すぎる」
 私は生唾を飲み込んで、拳銃を取り出す。必要になってほしくはないが、凶暴な相手なら撃たざるをえない。
 突然、ずっと床を映していたカメラは何者かに持ち上げられたかのように屋根裏部屋を映し始める。誰かが歩くような引きずるような音ともに、カメラは一階へとつながる階段へ向かって動き始めた。
「なんだ……?」
 軋む音ともに階段を下っていく。誰かに持ち運ばれているのは間違いないらしい。
「どこに行くんだ」
 同僚がそうつぶやくと、カメラは半開きのドアを映した。私たちがこの部屋でカメラを見つける前に開けた、あのドアだ。
「つまりこの部屋に誰かがいるということか……?」
 私のつぶやきにこたえるように、カメラは先ほど見たダイニングテーブルを映し、そこにレンズを入口に向けて置かれた。まるで出入りするものを監視するかのように。
 同僚と私は一緒に生唾を飲み込む。もしここにあの二人を襲ったやつがいるのなら、すぐに距離を取らなくては。ほどなくして遠くからドアの開く音が聞こえ、『だれかいるのか?』という声が聞こえてきた。
 背筋を冷たいものが走る。私は反射的に銃を構えながらフラッシュライトであたりを照らした。当然だが、誰も照らされる者はいない。居てたまるものか。
 半開きのドアが開き、私たち二人が映る。そしてカメラに気づいた同僚が持ち上げ、いくつかつぶやいたところで録画は止まっていた。
「……おい、まさか」
 ガタンと言う音が後ろから聞こえてくる。
 私たち二人は拳銃とフラッシュライトを構え、音のする方を照らした。
 そこには体中血だらけの髪の長い『誰か』がいた。
「手を頭の後ろで組め!」
 同僚が叫ぶ。
 その瞬間、『誰か』が同僚に飛びかかった。こんな状況じゃ、同僚に当たるかもしれないから銃も撃てない。
「離れろ、お前!」そいつの肩を掴んで引きはがそうとしたそのとき、そいつと目が合った。
 白目が充血しきったその目にあったのは、純然たる敵意だけだった。

【廃屋で四名死亡、殺人事件で捜査】
 フロリダ州ミニットマンヒル警察は郊外にある廃屋で四名の死体を発見したと公表した。ミニットマンヒル警察のニュースリリースによると、四名とも身体が酷く損壊しており、当局が来た時には既に失血多量で死亡していたという。現在、当局はタクティカルチームを編成し、殺人犯の捜索に当たっている。

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お悔やみ壁 2020年4月23日


街にあったコンクリート壁。そこに写実的な老人の顔が描かれていることに気づいた彼は、興味をそそられながら日々を過ごしていた。しかし、新聞を見た時にあることに気づいてしまう。

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 学校からの帰り道、ぼくの住んでいる団地の近くに顔の描かれている壁があることに気づいた。
──誰かの落書きかな?
 お世辞にもここら辺は治安が良いとは言えない。高架下は落書きだらけだし、近くの高校じゃ乱闘騒ぎがあったと聞く。だから今回もそういう類かと思ったけれど、顔だけ書いてあるというのも中々珍しい。
 近づいていくと、描かれていた顔はいずれも正面から描いた老人の顔だった。それもカラースプレーで描かれた極彩色の抽象的な顔じゃなくて、黒スプレーで描かれたデッサンのような顔だ。
「これかいた人、うまいなあ」
 美術部の友達が言っていたっけ、絵を描く中でもっとも難しくて基本となるのがデッサンだと。その言葉が正しければ、この絵を描いた人は相当に絵がうまい。まるで写真のような絵なのだ。
 描かれているのは4人。あまりにリアルだから、顔の共通点が老人ということ以外ないことが一発で分かった。
──でも、誰がこんなすごいものを描いたんだろう。
 路上で似顔絵師として働けばそれなりに稼げるくらいなのに、こんなちんけな町でストリートアートをしているなんて。その才能がもったいないくらいだ。
「あいつに聞けば、誰が描いたか分かるかな……」
 そんなことをつぶやきながらじろじろと壁を見ていると、近くにあるスピーカーから十七時半のメロディーが流れてくる。
「やべっ」
 もうすぐで門限だ、すぐに帰らないと。
 ぼくはスマートフォンで壁の写真を一枚だけ撮り、教科書の詰まったカバンを背負いなおして、家へと走った。

「──こんな上手い画家が居れば、私知ってるはずだけど」 
 そういいながら、彼は僕のスマートフォンを見つめる。彼に壁に描かれた絵の写真を見せると、スマートフォンをひったくられたのだ。
「あんまり弄らないでほしいんだけどな」
「なに、変なもんでも入ってるの」
 そういいながら、彼は写真を拡大したり縮小したりを繰り返している。何をしているのかは同じ美術部の人間しか知らないだろう。
「そういうものは保存しないようにしてるから」
「用心深いね」
 彼は満足したのか、ぼくにスマートフォンを返してきた。
「これを描いた人は相当に絵がうまい。あと、これはデッサンではないね」
「え? 違うの?」
 彼はスマートフォンの画面に定規を当てる。当てられているのは、鼻の下だ。
「これを見てどう思う?」
 そういわれても、絵の心得がない僕にはさっぱりだ。
「さあ……」
「鼻の下があまりにまっすぐなんだよ。人間の顔は曲面だから、現物を目の前にして描くデッサンだと少し曲げないといけない。でも、これはまっすぐだ」そういって定規を仕舞う。「これは写真模写だね。これを描いた人は本人を前にして描いてはいないはずだ」
「そんなことまで分かるの?」
「まあね。そうはいっても、絵がうまいことに変わりはないよ。でも、誰だろう? こんなことをするのは」
 彼は考えるかのように空を見る。僕はもう一度、壁の写真を見つめた。そういえば、この絵にはサインの一つもなかった。
「なんだか遺影みたいじゃない?」
 描かれている老人の顔は皆真顔だし、まるで生気がないかのように真正面を向いている。
「遺影か……確かに遺影を模写したら、こんな感じになるかもね」

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 久しぶりに本屋に行った帰り、僕はなんとなく気になってまたあの壁を見に行った。
 壁の周りには誰もいなくて、でも壁に描かれていた人の数は増えていた。4人から7人に。
「また誰かが?」
 やはり描かれている絵にサインはないし、彼の言う事が正しければ写真模写と言うやつなのだろう。
「本当に何のために、これを描いたんだろう……」
 ふと、僕は最近みた『X-ファイル』の一エピソードを思い出した。あれだと、壁に書かれた人間が夜な夜な飛び出してきて、ホームレスを虐げる人間を苦しめて回っていたっけ。
 もしかしたら、そういうような何かがこの壁にあるのだろうか。
「まさか、ね」
 僕はくだらない考えを振り払って、壁の近くにある自分の家へ歩き出した。

 休み時間に入ったことを告げるチャイムが鳴る。先生が壇上から居なくなり、ぼくは昨日買った小説を取り出した。レイ・ブラッドベリの『刺青の男』だ。昔から話には聞いていたけれど、読んだことがなかったから読んでみたかった一冊だ。
 プロローグを読み終えたところで、授業開始のチャイムが鳴る。僕は机の中に文庫本を滑り込ませ、あまり楽しくもない授業に耳だけ傾けた。
 頭の中は、あの壁も見つめ続けたら同じように話し出すのではないかという妄想で一杯だった。本物の人間のような顔なのだから、何か超常的な何かがあるかもしれない。そんなことを期待しながら。

 ぼくは帰り道にまたあの壁がある団地へ寄った。寄るというよりは、帰り道の途中にあるので通らざるをえないのだけれど。
 壁を見ると、また一人増えていた。しかし、ぼくはその顔を見て心底驚いた。
 そこに描かれていたのは近所に住んでいる佐藤さんだったのだから。
「なんで佐藤さんが?」
 そのとき、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。その音はぼくの方へ一直線に向かってくる。ほどなくしてあたりが赤い光で照らされた。サイレンを鳴らした救急車がぼくの隣を走り抜き、団地の前で停まる。ぼくの家のすぐそばだ。
 救急隊員が急いで降りてきて、ストレッチャーを引っ張り出す。二人が向かった先は佐藤さんの家だった。
──なんで佐藤さんの家に?
 僕は目の前で起きている一刻を争う戦いと佐藤さんが描かれている壁を交互に見る。
 おそらく佐藤さんが載せられているのであろうストレッチャーが救急車に吸い込まれ、ドアが閉まるとあっという間にいなくなった。
 そこに残されていたのは唖然としている僕と壁に描かれた八人の顔だけだった。

 翌日。
 僕は新聞のお悔やみ欄を眺めていた。もしかしたら、佐藤さんの名前があるのではないかと。
 果たして、佐藤さんの名前はそこにあった。救急車で運ばれた後、死亡確認がされたのだろう。
──もしかしたら、あの壁は……。
 僕の予想が正しければ、あの壁に描かれているのは近日中に死ぬ人の顔か死んだ人間だ。だからといって何ができるというわけでもないが、一度気になったことは何処までも気になってしまう。
 僕は新聞を投げ捨て、学校があるにも構わず家を飛び出した。
 団地の方へ走っていくと、あの壁は今も健在だった。そしてそこに描かれている人間は九人に増えていた。
「なんで……」
 九人目の顔は朝、いつも見ている顔だった。親を除けば、きっと誰よりも見ている顔だった。
「なんで、僕の顔が……」
 八人目までは全員老人なだけに、高校生である僕の顔が描かれているのがなんといっても異質だった。でも、それ以上に恐怖を掻き立てるのは僕がこの壁に対して建てた仮説が正しかった時のことだった。
「僕は死ぬのか……?」
 ふっ、と身体から力が抜ける。まさかこんな若くして死ぬなんて。そう思うと、ぼくは絶望感に押しつぶされてしまった。まだ死ぬ気はなかった、やりたいことだってやらなきゃいけないことだって沢山あったのに。
 どういう思考回路のつながり方をしたのだろうか。僕の頭に浮かんだのは親の事でも未来の事でもなく、いつも行っている学校の事だった。学校に何かがあるというわけでもないが、いつもこの時間に行っているから。
「……学校に行かなきゃ」
 僕は立ち上がり、最期の目的地へと歩き出した。

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VHS 2020年1月31日


彼が中古ショップで買ってきたVHSテープはパッケージと中身が違っていた。試しにそれを再生し始めた彼は、信じられないものを見ることになる。

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 ずっと観たかったものの古すぎて手に入れられなかった映画のビデオが、ようやく手に入った。まさか初めて行った中古ショップにこんなレアものがあるなんて。
──酒もよし、つまみもよし、楽しみだ。
 ワクワクしながらパッケージから取り出すと、出てきたのは『The Pogo’s Fun Time』というタイトルが色褪せたラベルに書かれているビデオだった。直訳すれば『ポゴの楽しい時間』となるだろうか。
「なんだこれ。こんなビデオ、買ったつもりないんだが……」
 返品するべきか? そう思いもしたが、もしかしたら掘り出し物かもしれない。それなりに界隈には詳しいつもりの私でも聞いたことのない作品だ。面白い作品やレアものだとしたら、それはそれで価値がある。
 とりあえずビデオデッキに差し込んでみよう。使い古したビデオデッキがガチャンという音を立てて謎のビデオを飲み込む。テレビの前に置いてあるソファに座り再生ボタンを押してみると、既に巻き戻されているようで青い楕円に黄色い文字のスタンリー・フィルムズという配給会社のロゴが再生された。
「見たことのない会社だな……」
 突然、へたくそなアコーディオンとラッパで演奏されたノイズ交じりの間延びした音楽が始まる。完全に不協和音が混じっているそれで、聞いていてぞわぞわと気分が悪くなってきた。
 照明が付いて壇上が照らされる。木製のステージが現れ、赤黒く皴のついたカーテンが壁にかかっていた。ステージの中央には、椅子に縛られた小太りの男が座っていた。履いているブリーフ以外は何も着ていない。
 青い目をした外国人風の男の黒髪はぼさぼさで、猿ぐつわを何とか動かそうと口をもごもごと動かしていた。照らされた体には玉の汗が光り、目はカメラの方を向いている。明らかに逃げようとしており、その視線はこちらに助けを求めていた。
「これは……?」
 醜悪なジョークだろうか。それともこういう始まり方をする映画なのだろうか。どちらにせよ、あまり笑えるようなものでもない。
 すると、ステージの袖からタップダンスをしながらこぼれるほどの笑顔を浮かべたピエロ、いやクラウンが出てきた。赤い髪と大きな口に白い顔のクラウンはサインポールのような赤・青・白の縦ストライプの入ったつなぎを着ている。
 クラウンは中央まで珍妙なステップで歩いていくと、男の後ろに立ってから一度飛び上がった。
『はぁい、みんな大好きポゴだよぉ! 元気にしてたかな!?』ポゴはボーイソプラノを思い出させるとても高い声でつづけた。『今日はゲストを2人お招きして、とぉぉっても楽しいことをしようと思うんだ!』
 そういえば吹替を選択していないのに、日本語で吹き替えられている。外国のものだと思っていたがそうではないのか、それともローカライズされているのだろうか。
『初めに、ここにいる大きなお友達に挨拶しよぉう!』ポゴは男の隣へ歩いていき、耳に手を当て体を傾ける。『はぁい、元気!?』
 男は何としても逃れようとしているかのように、ポゴとは逆のほうに首をかしげる。しかしポゴはそれが気に食わなかったようで、先ほどまで笑っていたポゴの顔が一気に真顔へと変わった。
『楽しくないじゃぁないか……せっかく楽しいことをしようと思ったのに』
 ポゴは体を傾けるのをやめ、つなぎの胸ポケットからベルトを取り出して男の首に巻き付けた。
「えっ、なんだこれ……」
『楽しんでくれないお友達にはたぁのしんでもらおう!』
 ポゴはまたにっこりと笑い、男の首に巻き付けた紐を力いっぱい引っ張り始めた。首を絞められた男は舌と目を飛び出させ、空気を求めるかのように体を震わせる。絞殺は締め方によって気道が潰されて苦しむか数秒で失神して苦しまずに逝くかのどっちかだと聞いたことがあるが、明らかにポゴは”楽しんでもらう”ためにあえて気道を潰すように締め上げていた。
『ほーぅら、友達もとっても楽しそうだよ』
 男の顔は充血して真っ赤に染まっており、目も飛び出んばかりに見開かれている。
 私はその光景を見て、いよいよ耐えられなくなってきた。確かにグロテスクなシーンは映画の中で描かれることもあるし、ある程度は慣れていると自負している。しかしそれは、シーンとして必要だとかプロット上必要だとかそういう理由があるからこそ受け入れられるのであって、こんな明らかに無意味なスナッフフィルムのようなものを見る気は毛頭ない。ただ不快で気味が悪いだけだ。
「捨てよう。こんなビデオ、見たくもない」
 ソファに座りながらリモコンの停止ボタンを押す。すると、首を絞めているポゴがケタケタと笑い始めた。
『人の死は止められないよぉ?』
 まるでそれは、私の行動が無意味であると暗に指し示しているようなセリフだった。その言葉が真実であるかのように、ビデオの再生が止まる様子もなく目の前にある画面にはすでに白目をむき口から泡を吐き出した紫色の顔をした男がぐったりとした様子でピクピク震えていた。何度押しても何度押しても、男は死へと歩みを止めず、ポゴは殺しと笑いをやめなかった。
「どうしてだ……?」
 椅子から立ち上がり、ビデオデッキに歩いていく。取り出しボタンを押してしまえば、さすがに再生も止まるだろう。
 しかし取り出しボタンを押してもビデオが排出されることはなく、ポゴを笑わせるだけだった。むしろテレビ画面に近づいたせいで、ポゴと死にゆく男の顔がより近く見える。男のほうは失禁しているようで椅子の下に水たまりを作っており、ポゴは私に言い聞かせるように『みぃんな、死からは逃れられないのさぁ』といった。
「こうなったらコンセントだ」
 ビデオデッキの裏に回ってテレビとビデオデッキのコンセントを抜く。あまり褒められたことではないのは知っているが、この状況じゃ仕方ない。
 抜いた瞬間、ブチンという電源の切れる音の代わりにポゴの高笑いが聞こえてきた。
『ざぁんねん! みんなの楽しい時間は邪魔させないよ』
 その言葉に私は背筋を筆で撫でられるかのように鳥肌が立つ。どうしてだ、なぜ電源が入っていないのに映画が止まらないのだ。
「くそ、どういうことなんだ」
 あとできることといえばこの家から逃げることだ。幸い、行く当てはいくつもある。すると、突然体の自由が利かなくなった。
『おっと、途中退出は演者のみんなに失礼じゃないか。最後まで見るのがマナーだよっ!』
 私の逃走本能とは相反するように、足は勝手にソファへと向かう。まるで自分の体がパペットとして扱われているかのようだ。ソファに座った私の体は縛られているように身動き一つとれなかった。
 そのころにはステージの上にいる男は体を震わせることもなく、水たまりの上で苦悶の表情を浮かべながらこと切れていた。私は思わず目を背けようと首に力を入れるが、瞬きすら自由にできない状況下では筋を違えて激痛が走っただけだった。
『ゲストの一人はもう退場! じゃあ、次のゲストを呼ぼうか!』
 そういいながらポゴは死んだ男を、椅子ごと奈落へと蹴り飛ばす。それに対して見ているのであろう観客たちは悲鳴を上げることも歓声を上げることもなかった。
 ポゴが私を指さす。『さあ、次のお友達だ! レェェェッツ、ファン!』
 突然目の前が真っ暗になる。テレビから流れてくる音や開けたはいいもののほとんど手を付けていないつまみの匂い、尻に触るはずのふわふわしたソファの感覚なども消えてしまった。まるで私が体を失ってしまったようだった。
 10分? 1時間? どれくらいの時間が流れただろうか。しばらくして、突然私は強烈な光に照らされた。思わず目を背け、腕で光を遮ろうとする。しかし首も腕もどちらも全くと言っていいほど動かなかった。それと同時に聴覚も戻ったようで、先ほどまで聞いていたへたくそなBGMがより大きな音で耳に届いた。
 匂いがする。公衆便所のようなアンモニアと血が混じった匂いだ。ふわりと生暖かい風が頬を撫でる。
「なんだ……」と言おうとしたその時、口に猿ぐつわがはまっていて声が出ないことに気が付いた。目も強烈な光に慣れてきたようで、体は動かないもののあたりを見回すことができた。
 そこはあのビデオに写っていたステージの上だった。体はなにやら拘束具のようなもので固定されているらしく、私は直立姿勢で顔からつま先まで板のようなものに固定されていた。
「たすけてくれ」という叫びも猿ぐつわに吸い込まれ、もごもごというほかない。拘束を解こうと暴れてみても、がっちりと固定されていて、一切体が動かない。私が今できることは、光景を余すことなく撮ろうとしているカメラのレンズを見つめるほかになかった。
「やあ! 2人目の、お友達だぁ!」
 ポゴの声がはっきりと後ろから聞こえる。見たくない、聞きたくないものがいよいよ私に迫ってきた。
「さぁさぁさぁ! 楽しもう!」
 ポゴの顔が私に接吻するかのように覆いかぶさる。粉っぽいセメントみたいな化粧品の匂いと血を飲み込んだかのような腐臭が鼻腔を満たし、ポゴの目に浮かんでいる獲物を逃がさんとする眼光に射すくめられた私は、ただ恐怖におののく以外にできなかった。

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隣人X 2020年1月29日


隣室から聞こえる悲鳴や深夜に出される黒いごみ袋、殴打するような音……彼女は異常行動を繰り返す隣人を不審に思うが、親友にたしなめられる。そして親友の勧めで管理人に連絡を入れたとき……。

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 何かそれなりに重いものが落ちた振動とドスンという騒音が足元の床と鼓膜を音楽とともに揺らす。私はつけていたイヤホンを外し、部屋の窓から外を見た。工事している様子も事故が起きたような様子も見当たらない。
「またか……」
 ぼそりとつぶやき、私はもう一度耳にイヤホンをはめる。
 ここ最近、休日の昼間はいつもこうだ。平日は仕事なのでわからないけれど、おそらくずっと似たような音は響いているのだろう。うるさいと言って苦情を出すことも考えたものの、夜に騒がしくしているわけでもないのだから中々苦情を出すのも難しい。
 原因はつい数週間前に引っ越してきた隣人のせいだ。
 深夜に悲鳴とも歓声とも取れないものが聞こえたのが始まりだった。何かと思ってドアをノックしたら、グレー色のスウェットを着た髪の薄い小男が出てきて、「FPSゲームでちょっといろいろあっただけだ」という一言を残してドアを閉められた。
 まあ一回や二回ならいいやとあの時は思ったのだけれど、この騒音と振動が何週間も続いているのなら話は別だ。おそらくあの小男が何か作業を──家具の組み立てか分解か──しているのだろう、しかし問題はそれがあまりにも長いこと。
 引っ越してからすぐならまだしも、先週もこんな感じだったし、先々週もこんな感じ。何かが落ちる振動と物を切断する騒音が昼間はずっと聞こえてくる。それにこのアパートに住んでいるのは私くらいだから、苦情を入れるなら私が入れるしかない。
 と、そんなことを考えていたらプレイリストの中に入っている音楽が終わってしまった。なぜかループ再生するのを忘れていたらしい。
 仕方なく最初の音楽へと画面をスクロールして戻り、私は聞こえてくる騒音をかき消すようにイヤホンの音量を上げた。聞こえさえしなければ、見えさえしなければ、存在しないようなものなのだ。

 数日後、仕事が異常に長引いたせいで0時を回ってからやっと家路についた私は、自分のアパートの前まで来たとき、何かがごみ収集所のあたりでうごめいているのが見えて足を止めた。私の住んでいるアパートの前にはごみを集めるための大きな鉄製のカゴがあるのだ。そのあたりで何かが動いていた。
──なに?
 よくよく目を凝らすと、アパートの屋外灯に照らされたのはあの小男だった。そいつがずいぶん重そうに黒いごみ袋をゴミ捨て場に放り込んでいる。一つ放り込むとまた一つ、何個あるかはわからないもののたくさんあるようだ。
 時計を見ると1時近い。こんな時間にごみを捨てるなんてそれはそれで非常識だけれど、なんといっても黒く重そうなごみ袋を何個も捨てているのがとても不気味だった。
 とはいえ、小男の前を通らないと自分の部屋に帰ることができない。不気味さを押し殺してあいつの前を通るか、それともあいつの作業が終わるまでここで待つか。二つに一つだ。
 そう逡巡していると小男は全部のごみ袋を入れ終わったのか、自分の部屋へと戻っていった。
──ふう。
 心のそこから安堵して、ごみ集積所の前を通ろうと足を踏み出す。街灯のかすかな明かりに照らされたごみ収集所のカゴの中には、黒いごみ袋が5つか6つ見えた。ずいぶんな量を捨てたものだ、よほどごみを溜めていたのだろう。
 ごみ収集所に近づくたびになんだか甘いような血なまぐさいようなにおいがしてきた。なんとなく豚肉を腐らせてしまった時のにおいと似ている。あの若干食欲をそそられるようにも感じるけれど明らかに食べてはいけないもののにおいがする、あれだ。
 中を開けてみてみるべきか? でも、人のごみをあさるのは基本的にご法度だ。よほどの理由がない限りは開けるべきではないだろう。
 それに何が入っているか分かったものじゃない。服や靴が汚れるようなものが入っているとするなら、数少ない仕事着を汚してしまうことになる。
 この詮索に、そんな価値はあるのか?
「……やめよう」
 私は自分に言い聞かすようにつぶやいて、ごみ収集所を無視して自分の部屋に戻っていった。

 あのゴミが何なのかわからないまま二週間が過ぎ、休日を迎えた私は惰眠を貪っていた。起きるのも億劫だし、布団の中に潜っていてもスマホで海外ドラマを見られるのだからいいじゃないかという考えだ。ごみ袋の中身が何なのかはいまだに気になっているけれど、ドラマを見ている間は忘れられる。
 その時だ。突然、隣の部屋から何か重いものを派手に壁にぶつけたような音が聞こえ、私は跳ね起きた。
「なに!?」
 聞きようによっては、誰かを鈍器で殴ったような音にも聞こえた。いったいなんなのか
 もう一度、たたきつけるような音。もし壁に何かをぶつけているのだとしたら、穴が開くか跡がついてもおかしくないような音だ。
「なんなの?」
 警察に通報するべきか? こんなことに取り合ってもらえるのかはわからないけれど、さすがにこれは普通じゃない。でも、もし本当に何かあったら私も面倒なことに巻き込まれてしまう。ならば、何もしないほうがいいかもしれない。それに本当になにかトンカチでも使っているのなら、向こうにも迷惑だろう。
 パニックに陥っている思考をぶった切るようにインターフォンが鳴った。ベッドから起き上がってカメラ越しに見ると、そこには小男が立っていた。
『……お騒がせして、すいません』
 リップノイズのひどい声でぼそぼそと話す彼は、あんな音が響く何かが起きたとも思えないほど感情を感じさせない平坦な口調だった。
「あ、はい……」
『大丈夫なので……はい。それでは……』
 そういってインターフォンの前からいなくなる。私はカメラを切った後、背筋に冷や水をたらされたような寒気を感じて床にへたり込んだ。
──なんだろう、あの人。
 偏見なのはわかっている。でも隠れるかのようにごみを捨て、悲鳴や騒音がしても平静であり続ける人間というのはあまり近くにいてほしいものではない。人間ならもう少し慌てるなり困るなりしたっていいはずだ。その一切がない人間というのはアンドロイドか宇宙人か、そう言う類のものだと思えてくる。
「……だれかに相談してみようかな」
 こういう時、頼れる人が一人いる。ちょうど今日予定もない私は、彼の時間がとれるかどうか聞くためにメッセージアプリを起動した。

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「……それで、隣人がおかしくて困ってるって話でいいんだね。毎日うるさいしゴミも隠れて出してるみたいだしということで」
「ええ、そうなのよ。なんか怪しくて。今日もすごい大きい音が隣で聞こえたし」
 あの常軌を逸した騒音から一時間もしないで、旧来の友人である彼と駅前のファミレスで会う約束をした私は、会うなり相談を持ち掛けていた。彼も今日は暇だったらしい。
「どんなことがあっても平静でいられる人間なんている?」
「うーん、サイコパスなんかはそういう傾向があるけど」
 心理学科出身の彼は体を左右に揺らす。考えるときの癖だとか。
「じゃあ隣の人は犯罪者?」
「ちょっと結論に至るのが速すぎるよ」
 彼は懐から手帳を出し、二つの丸が一部で重なっている絵を描いた。いわゆるベン図というものだ。
「さて、ここで問題。Aという人がいます。彼は少年院に入っていたことがあり、交友関係も不良やヤクザかぶれが多いです。年齢も40歳近く、定職はなく生活も苦しいです。ここまではいい?」
「ええ」
「じゃあ……1番、彼の苗字は田中である。2番、彼の苗字は田中であり強盗をしたことがある。どっちのほうが妥当でしょう」
 私は犯罪歴があることと生活に困っているということから、2番がありそうだと思った。交友関係もよくないなら、そういう話が来てもおかしくなさそうだ。
「……2番かな」
「うん、外れだね」彼は悪びれることもなく、手帳に描いたベン図に文字を書き込む。片方の円には『名字は田中』、もう片方の円には『強盗をした』と書き、二つの円が重なるところに斜線をひいた。「1番はこの片方の円、2番はこの斜線の部分なんだ。具体的な数字をあげるなら、苗字が田中である確率を1 %として強盗する確率を90 %としても、1番の確率は1 %で2番の確率は0.01 × 0.9で0.9 %。すなわち、数学的に妥当なのは1番ってわけ。こういうのを『合接の誤謬』って言って、類似する話に『リンダ問題』っていうのがあるんだよ。客観的に見れば起こりうる可能性が低いはずの事象も、主観的にデータを組み合わせた時には可能性が高いように感じてしまう」
 いわれてみれば確かにそうだ。二つのことが一緒に起こる確率は、一つのことが起きる確率よりも減るというのは高校数学の話だった。
「なるほど」しかしなぜこんな話を彼は持ち出したのだろう。「で、この話と私の悩みはどういう関係があるの?」
 彼は手帳をめくり、もう一度ベン図を描く。片方の円には『サイコパス』、もう片方の円には『犯罪者』と書いてあった。
「とても失礼なことを承知で、仮に隣人がサイコパスだとしよう。その彼が同時に犯罪者である確率というのは、さっきも言った通り少なくなるんだ。サイコパスである確率が1 %として犯罪者である確率が……まあ、適当に20 %としようか。1 %と0.2 %だからね、サイコパスであるかもしれないけれど犯罪者とは限らない」
「じゃあ、あの騒音とかゴミとかは……」
「DIYが好きなのかもしれないし、朝起きるのが遅いせいでごみを捨てる機会を逃してたのかもしれない。感情を出さないのだって、サイコパスだからではなくて人付き合いが苦手なだけかもしれない。サイコパス自体は思うほど珍しいものでもないけど、多いわけではないしね……まあ他人に配慮できないのはサイコパスの特徴の一つではある」彼は肩をすくめた。「要は、今のままじゃ結論は出せないってこと」
「そう……」
「とりあえず、それだけ大きい騒音だからね。一度管理人さんに連絡を取ってみるほうがいいんじゃないかな。迷惑しているのは間違いないし、相談できる立場なのは君だけだし」
「だよね。十分迷惑だもんね」
 彼は大きく頷いた。「うん。何かあったら管理人さんが何とかしてくれるよ」
 それからしばらく他愛のないことを駄弁ったあと、私は家に帰って管理人さんに今日あったことの顛末を話した。ほぼ毎日うるさいことや夜になるとごみを捨てていること、今日はひときわ何かをたたきつける音が大きかったこと……。
 管理人さんは真摯に聞いてくれて、「わかりました、近日中に対応します」と答えてくれた。
 彼に話したことや管理人さんに任せることができたからだろうか、安心感から私は久しぶりにゆっくりと眠ることができた気がした。ここ最近、ごみ袋の中身だとか小男の正体だとかが気になっていて、なかなか寝付けないでいたのだ。

 そうして相も変わらずうるさい日が続いた一週間後の朝、私は二人が言い争うような声で目が覚めた。
 この声は管理人さんだろうか、とてつもない剣幕で何かをまくしたてている。こんな朝っぱらから、いったい何を言い争っているのだろう。もう一人の声は小さすぎるのか、聞こえない。
 すると言い争う声がドタバタという何か暴れまわるような音へ変わる。その無茶苦茶な音は外から隣室へと移っていった。
──えっ?
 そうして、また何かで壁を殴りつけるような音とくぐもった叫び声が聞こえてきた。殴りつけるような音は何度も続き、叫び声は殴打音の回数と反比例するように小さくなっていった。
 しばらく耳を澄ましていると、叫び声とともに殴打音が止んだ。
 体の毛穴という毛穴から冷汗があふれ出る。こんな状況、普通じゃない。きっと何かの間違いだ。もしかしたら、寝ぼけて何か悪い夢を見ているのかもしれない。
 そのとき、ガチャガチャという鍵を鍵穴に差し込むような音が聞こえた。
 ベッドから降りて恐る恐る玄関のほうを覗くと、ドアが開く。
 そこには手に血まみれになった金属バットをもった小男が青ざめた表情で、けれどにやりと笑って立っていた。

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増える! 2019年11月30日


突然彼を襲った、割れるような頭痛。その痛みと呼応するように聞こえる何者かの声。声が彼に告げる、「俺はお前だと」と……。作者もどう思いついたか覚えてない狂気の一編。

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 私は持っていたカップを取り落とす。中の飲み物がこぼれるのは嫌だなあ、そんなのんきなことを考えながら頭を抱えた。
 もとより頭痛持ちの私だが、今日のものはひと際きついものだった。まるで両目の奥にひびが入ってしまったかのようだ。
 ともかく頭痛薬でも飲んで横になれば楽になるだろう。そう思って救急箱を探すが、はてさてどこに仕舞っただろうか。
──箪笥のふたつめの引き出しにあるぞ。
 低く掠れている男の声が頭の中から響いてくる。その助言に従って引き出しを漁ってみると、本当に白い箱に緑色の十字が書いてある救急箱が見つかった。中にはしっかりと痛み止めが入っていた。
 探している間にも頭痛はひどくなっていく。台所に走っていき急いで薬を飲み下して、片づけるのが面倒で朝からひきっぱなしにしていた布団に転がり込んだ。
──薬なんて効かないぞ。
 先ほど聞こえたのと同じ声が頭の中に響いた。一体この声の主は何者なのだろうか。
「お前は何者だ」
 ふと浮かんだ問いを口に出す。その瞬間、痛みは両目の裏だけではなく、額の方にまで範囲を広げた。このまま行ったら、鼻梁からうなじまでひびが入り、頭がピスタチオのように割れてしまいそうだった。
──俺はお前だ。
 私の問いに頭の中の声は答える。
「どう言う事なんだ」
──もう少しで分かるさ。
 先ほどとは別の低い女声が聞こえてくる。同時に、幾人もの笑い声が頭の中で爆発した。気持ちの悪くなった私は、風邪か偏頭痛かが引き起こした幻覚だと思って目を閉じる。何とかして寝付こうとしたが、眠りは痛みに阻まれ続けた。
 それに頭もなんだかどんどんと重くなっていく。額が熱く、触れると腫れているようだった。その腫れは脈打ち、まるで生きているかのようだった。
「この痛みを止めてくれ」
──無理な相談だよ。
 そんな子供のような声。
──待てばよくなるわよ。
 頭痛に響く高い金切り声。
 薬が効いてよくなるどころか、締め付け骨を割るかのような痛みはひどくなり、吐き気も出てきた。痛みは額を超えて既に脳天にまで回っている。頭はまるでモヒカンのように肉が盛り上がり、脳みそが骨を突き破っているかのようだった。
 換気扇や外の車の音も頭蓋骨の中で反響する。視界にはバチバチと輝く火の粉が広がった。
 あまりの痛みに顔がゆがみ、「誰か助けてくれ」と思わずつぶやく。
──今すぐ楽にしてやるよ。
 最初に聞こえた声がまた脳内に響く。その瞬間、痛みは一気にうなじまで広がった。
 想像を絶する、ノミか斧かで頭を勝ち割られたかのような痛み。声にならない声で叫びながら、思わず上体を引き起こした。
 ビニール袋を引きちぎるようなぶちっという音と共に視界が真っ赤に染まり、頭の上から無くなりかけたマヨネーズを無理矢理出すかのような汚い水音が聞こえてきた。
 痛みは少しずつ引いていく。けれど、部屋の中は私のものなのかそれとも別の何かなのか、水音と共に赤く染まっていった。
 それからしばらくして、痛みが完全に引いて頭の重さや熱っぽさも無くなり赤く染まった視界が明るさを取り戻した頃。恐らく頭の上から吹き出した血か脳髄かが部屋をまんべんなく赤く染め上げた頃。
 私は何の気もなく、額を触る。額はVの字にぱっくりと割れていた。恐る恐る指をうなじの方へと滑らしていくと、額からうなじまで骨の断面を触ることが出来た。きっと見る人が見れば、私は今人間アケビだ。
 なぜ私は生きていられるのだろうか。そんなぼんやりとした疑問が、ない頭の中をめぐる。
「早く、早く救急車を……」
 幸運なことにスマートフォンは別の部屋にある。この赤い液体には濡れていないはずだから、今もまだ使えるはずだ。
 私は慌てて立ち上がる。
 その瞬間、視界から光が消え、身体から力が抜けた。

 俺は目を開けた。手を眼前に持っていき、光にかざした。人間の手だ。
 辺りを見回す。『あいつ』の目を通して視てきた古ぼけた和室に俺は寝転がっていた。辺りには神経質そうで髪に艶のない妙齢の女や初老の上品さが漂う女、あどけない表情を残した子供。当然だが、全員裸だ。
 部屋はいつも通り、血や脳髄になんて染まっていない。あえていうなら、部屋の中央で倒れている『あいつ』の頭から僅かに流れ出てきた血液が部屋の一部分を染めているくらいだろう。その血は俺たちが奪えなかった、そして少しだけ残っていた『あいつ』の部分だ。利用しようにも俺らとは一緒になれない以上、この部屋に残していくしかないだろう。
 俺は立ち上がり、タンスの中から四人分の適当な服と下着を見繕う。『あいつ』の頭の中にいたときは裸で済んでいたが、如何せんこれから人間社会で暮らしていくには裸だと不味い。人間になる以上人間のルールに従った方が良いだろう。
 女や子供も俺と似たような考えらしく、神経質そうな女は裸のまま『あいつ』が持っていた現金をきっちり四等分にしようと躍起になっているし、上品そうな女は俺たちがしばらく生活できるように荷物をポリ袋に纏めていた。子供の方はといえば、『あいつ』が夕飯にでも食べようとしていた昼の残り物を貪っていた。
 しばらく俺たちは各々のことをしながら──神経質そうな女から現金を受取ったり、子供から飯を分けてもらったり──外へ出る準備をしつづけた。
 日も暮れ、外が暗くなった頃。服を着て腹をある程度満たした俺らは、上品そうな女からそれぞれポリ袋を受取った。
「さあ、外に出ましょうか」
 神経質そうな女が特徴的な金切り声で俺たちを促す。俺たちは適当な靴を靴箱で見繕ってから、玄関ドアをくぐった。
 明るい街灯が俺たち四人の顔を照らす。この辺りは人も多くないから、『あいつ』が死んだことに気が付くのは何日も、もしかしたら何か月も先のことになるだろう。その間に身体を取り戻した俺たちは日常生活に溶け込んで、あいつの代わりに生き続けるのだ。
「じゃあ、またどこかで会おうよ」
 子供が踵を返して夜道を歩き始める。俺も女たちに背を向け、夜道を歩き始めた。

 三人と別れて最寄りの駅に向かう道すがら、俺の頭を激痛が襲う。思わず持っていたポリ袋を取り落とし、俺は「何なんだ一体……」と呟いた。まだこの世界に体が慣れていないのだろうか。
──お前一人だけだと思ったのか? 『あいつ』の中にいたのは。
 その言葉に答える様に頭の中から男の声が聞こえ、痛みは一気の脳天まで広がった。

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赤提灯 2019年11月29日


温泉街の路地裏に佇む一軒の古ぼけた居酒屋。ふとその居酒屋を訪れた彼は、『特選モツ一体盛り』という名前の料理を見つけて注文するが……。

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 涼しい夜風を浴びながら、私はぶらぶらと温泉街を歩いてた。橙色のナトリウムランプが辺りを照らし、色彩を失った町はまるで亡霊のようだ。
 なぜこんな場所にいるのかといえば、雑誌の懸賞に応募したところ幸運にも温泉宿の宿泊券を貰ったのがキッカケだ。それでなんとなく日常に疲れていた私はこれを好機と、有給を取って悠々とここに泊っている。
 とはいえ、あまり大きな温泉街でもなければ有名な所でもない。なんならシャッターが閉まっていたり壁面にツタが絡まっていたり、ここの住人も減っているようだ。そんな街に活気なんて求める訳にもいかず。夜になれば限られたコンビニやチェーン店はおろかスナックのような夜の娯楽を楽しめる所も閉まっている。
 チケットは二泊三日だが、消耗していたわけでもないので一日かそこら休めば大体回復する。そうなると色々とやりたいこともでてくるものだが、さっきのような事情もあり私は手持ち無沙汰になっていた。
 こういうときはいつもしないことをするに限る。
 夜に路地裏を歩くなんて不用心の極みだと思いながら、路地裏へと繋がるであろう道を歩いていく。碌な街灯もない路地裏には、ツタだらけになり窓ガラスの割れている家や苔むしたブロック塀が並んでいる。
──やはり表に面白そうなものがなければ、裏にも面白いものは無いか。
 当然といえば当然の帰結に落胆しながら表に戻ろうと踵を返したそのとき、目の端に何かが見えた。
 赤い提灯。こんな裏路地に居酒屋があるというのだろうか。
──もしかしたら隠れた名店かもしれない。
 そんなことを思いついた私は、光に惹かれる虫のように赤提灯に向かって歩を進めていた。

 小汚い暖簾をくぐり──いつぞや聞いた話だが暖簾が汚いほどその場所で長く続けている、つまり味がいいということだ──煤けた磨りガラス戸を開ける。中はさほど明るくないものの、小綺麗だった。土間に並んでいる背の高い木目のキレイな椅子やつやつやした一枚板のカウンター、戸棚の上に並んだ何本もの一升瓶など、なかなかに雰囲気がいい。
「いらっしゃい」
 法被を着たいかつい大将が無表情でカウンターの中に立っていた。私は大将の前に座り、ここはどんな店なのかと尋ねた。すると大将はなんでもある店だと答えた。
「じゃあ何を頼んでも大丈夫なのだね?」
「ええ。品切れになることはありません」
 大将は無表情のまま頷いた。
 とりあえず日本酒のぬる燗を頼んだ後、私はメニューを流し読む。基本的に肉を多く取り扱っているらしく、こういう居酒屋の割には魚介類を使ったメニューは多くないようだった。海鮮が少ないのは内陸の温泉街だからだろうか。
 注文した日本酒が私の前に置かれ、それをちびちびと飲みながら酒の当てを探し続ける。酒は温度も味もちょうどよく、注文する前に一合飲み干してしまいそうだった。
 しかし、これだけ上等な酒に合いそうな肴がなかなか見つからない。お品書きを閉じ、私は店内を軽く見渡す。こういう店ではたいてい、本日のおすすめがどこかに張り紙されているものだ。
 はたして、私の予想は当たったようで。入口のある左の壁に『本日のおすすめ品』と朱書きされたポスターが貼られている。そこには『特選モツ一体盛り』と書かれていた。おすすめ品でかつ特選だというその響き、上等な酒に合わないわけがないのだ。なにより私は自分が脂肪肝だろうと高脂血症だろうと気にしない、無類のモツ好きだからにして。
「大将、『特選モツ一体盛り』を一つ」
「はいよ」
 一合とっくりが空くころ、ようやく私の目の前にモツとタケノコの炒め物がやってきた。大将曰く、マメ(腎臓)とタケノコの炒めものだという。
 箸で赤黒い肉をつかんで口に入れる。ほとんど臭みを感じないどころかニンニクとショウガの香りが鼻腔を満たし、醤油の塩気やすりおろした玉ねぎの甘味と絡む。コリコリとした触感も乙なもので、火の通り具合も最高だった。
 もっと酒が欲しくなった私は燗酒をもう一本頼み、酒と肴を交互に口へと運ぶ。味が濃いわけでもないのに主張する味を酒で洗い流すのは最高だった。ああ、おいしい。
 あっという間に皿の中にあった中華風炒めは無くなっていく。
 ほとんどなくなりかけた時、次の逸品が運ばれてきた。
「焼きレバーです」
 食べやすいように並べられたレバーが平皿に乗ってやってくる。聞くと、臭みを十分に除いた後に塩焼きしたものだという。
 普通、臭みが強く油分もあまりないレバーを塩焼きにすると、よほど慎重にやらなければ臭いがきつくなるだけでなくパサついてしまって食べるのも一苦労になるのだが、なかなかどうして挑戦的なことをする。
 一切れ口に運んで驚いた。かみしめるほどに感じる脂と臭みのない純粋なまでのうまみ。今まで食べてきたレバーとは比べ物にならない。普通のレバーではないのは確実だ、フォアグラや白レバーのようにある程度脂肪が付いたものなのだろう。そんなものが出回っているなんて、知る由もなかった。
「本当に美味しいですな」
「自慢の一品です」
 しかしなんだか、酒がいい感じに回ってきた。いつもより酔いが早いように感じるのは、旨い肴を食べているせいで酒量が増えているからだろうか。その割には尿意をあまり感じないのだが。
 まあいい、まずは目の前にある旨いものを堪能しよう。
 掻き込むかのようにレバーの塩焼きを口に運ぶ。最後のひと切れとなったところで、大将は次の一品を持ってきた。鍋に入っているのはモツの味噌煮らしい。シロコロとヒモを一緒に煮込んだものだという。
 一切れ口に運ぶと味噌の匂いが鼻を通り抜け、かみしめるごとにべっとりとした快感が舌を覆う。もう一つ口に運ぶと、何度噛んでも噛み応えを失わないながらも脂が溢れ出てくる。そして唐辛子の辛みが、怒涛の脂とうま味にキレを持たせた。
 酒を日本酒から芋焼酎のロックに変える。こういう料理には強い酒の方がいい。
 芋焼酎の強い風味で口の中をリセットしてから、またモツを口に運ぶ。その繰り返しを続けていると、不意に腹の調子が悪くなってきた。まるで食べすぎたせいで使える腸の部分が少なくなってしまったかのようだ。
 それでも酒と肴を口に運ぶ。まるで憑りつかれてしまったかのようだったが、兎にも角にも美味しいのだ。酷さを増す酔いと体の不調なんて吹っ飛んでしまうほどに。
 鍋の中からモツと酒が無くなる。そのことに不安を覚えつつ、次の料理が待ち切れなくなってきた。
 目の前にトマトソースのようなものが出される。洋風の料理らしく、一緒にワインも供された。
 大将の説明も聞かずにフォークで具を突き刺し、口に運ぶ。ハラミとエリンギのトマトソース煮だ。柔らかいハラミの感触と歯切れのいいエリンギ。油分たっぷりのトマトソースが脂の少ないハラミを補い、強めのニンニクが相まって味が濃いだけではなくキレがある。
 ワインはあまり飲まないのもあって評価しにくいが、風味の強いこの料理に負けない香りと渋みを持ちながらも、味を必要以上に洗い流さない。とても料理に合うワインだった。
 食べれば食べるほど胃が圧迫されるようで──いつもならばこんなに食事を食べることはないのだ──呼吸が苦しくなってくるが、それでも食べることはやめられなかった。
 あっという間にトマトソース諸共、皿の上から料理が無くなる。その頃には酔いもいい感じに回ってきており、腹の不調のせいか息も上がってきていた。
 だとしても、食べることをやめられそうにない。美味しい料理を食べたいのだ。
「最期の料理です」
 そういって出されたのは、ハツの丸焼きだった。
 目の前で大将が心臓を切り刻み、食べやすい大きさにして供する。箸でひとかけら掴み、口に運ぶ。
 今まで食べた料理と比べるとあまりに不味い。ぱさぱさだし、ゴムみたいだし、食べるに値しないものだった。それでも、まるでマシンかのように私の腕は口に心臓のかけらを運び続ける。口は心臓をかみ砕き、飲み込み続けた。
 飲み込むごとに、自分の頭の働きが悪くなるかのように、ぼうっとしはじめた。でも食べたい。食べる、たべる、タベル……。
 最後のひとかけらを飲み込んだ時、大将がぼそりと「ごちそうさまでした」と呟いた。
 その瞬間、私はまるで自分の心臓があるべき空間が空になったかのような痛みに襲われ、小料理屋の床に倒れ込んだ。息が詰まり、考えることもできない。どうしようもない苦しみに耐えようと、必死で歯を食いしばる。
 大将がカウンターから身を乗り出し、私の苦しむさまを見ていた。その顔は入ってきたときとは全く逆で、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
 その笑みが目に焼き付けられたのを最後に、私の視界は真っ暗になった。

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未来から来た男 2019年9月28日


大ヒットした新作モキュメンタリー・パニック映画、その監督兼脚本家が語るところにはある人物から聞いた妄想が元になっているというが……。

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  清浄な空気漂う会議室で、私は白い壁に囲まれながら座り心地のいい椅子に腰かけていた。汚い物などありはしない、清潔で正常な世界だ。

 今日は私が手掛けた映画の大ヒットを記念して、週刊誌からインタビューをしたいという依頼が来た。作品を作るのはもちろん人の注目を集めるのも好きな私は、それを好機と依頼を受けたのだった。十数年、下積みを積み重ねて続けてやっと得た名声。それを存分に使って、一体何が悪いというのか。

 ほどなくして、若い記者がメモ帳とICレコーダーを片手にもって会議室に入ってきた。

「こんにちは。映画のヒット、おめでとうございます」

 爽やかな声で記者が話しかけてくる。私は謙遜するように「いやいや、周りのスタッフのおかげですよ」

 椅子に座ったあとに、緊張をほぐすためなのか軽い世間話をしてから記者が「それではインタビューを始めさせていただきます。ICレコーダーで録音してもよろしいでしょうか?」と尋ねてくる。私は構わないという意志を込めて、首を縦に振った。

 それから十数分ほど製作の苦労や映画のコンセプトなどを事細かく聞かれ、存外色々な事を聞かれるのだなと考えながら、私は記者が投げかける質問に覚えている限りのことを話した。

「監督は脚本も手がけられていましたよね。近年では様々なパニック映画が出ていますが、監督の映画は驚くほど仔細な社会が描かれているために評価されたと言われています。それを考えるにあたっての苦労されたことをお聞きしたいのですが」

 私は少し頭を傾げて考える。ここで全て私の想像だといえば、希代のモキュメンタリー作家になれるだろう。ただ、周囲の期待を自分の実力以上に跳ね上げてしまえば後々創る作品の評価に落差を生み出してしまうし、あの男がいつ「これは私が考えたストーリーだ」といいだすか分かったものじゃない。

 それならば、真実を話してしまった方がいいだろう。

「実はこの話は一年ほど前に出会った、とある方からお聞きした話が元なのです。もちろん幾つかの点において脚色はしましたが、その方が思いついたストーリーが骨子となっています。要は原案者ですね」

 記者が興味をそそられたように前のめりで私に訊ねる。

「とある方、とは?」

「お名前などは分からないのですが、ある日私がバーで飲んでいるときに出会った方なのです」

 

 私は寂れたバーで一番安いブランディを飲みながら、なにか脚本のアイデアが思いつかないものかと酔った頭をフル回転させていた。ここ最近、書く脚本、書く脚本、すべて取り下げられていて、いい加減フラストレーションが溜まっていたのだ。

 しかしまあ、素面でも思いつかないのだから酔った頭でなど思いつくわけもなく。

 いっそ自主製作映画にでも手を出すべきか。スタッフやキャストは学校時代の知り合いやそこらへんをぶらついている役者のたまごを引っ張ってくればいい。問題は予算だ。いくら低予算でやるといっても、レンタル機材云々だけでも十数万。人件費まで含めれば数十万だ。長い映画を作るともなると、もう一桁は必要だ。

 斜陽化した映画業界とはいえ、アルバイト代も含めればとりあえず生活する分の稼ぎはある。とはいえ、ポンと数十万円を出せるほどの貯蓄は出来ていない。誰かから借りるとかプロデューサーを見つけるとか資金調達の方法は思いつくが、前者は映画がヒットしなければ借金を背負うだけだし、後者に至っては名の無いセカンドに目を付けてくれるプロデューサーなどいないだろう。

 私の慎重な性格も問題なのだ。確実にヒットすると分かっていれば借金の一つや二つ背負うものの、映画の世界はそれほど甘くはない。それをわかっているから、リスクを犯せないのだ。

 ため息をつく。映画業界に憧れて入ったものの、ここまで厳しい世界だとは。自分の想像を作品にするのがこんなに大変だとは。

 そのとき、ドアベルがカランカランと鳴る。こんな平日ど真ん中の深夜にここに来る客がいるなんて珍しい。

 ドアの方を見ると、ボロボロの服を着た如何にもホームレスという風貌の男が立っていた。

 意図せず男と目があう。関わりたくないという私の思いを無視して、男はおぼつかない足取りで歩いてきて、私の隣に座った。

 汗の饐えた臭いと何かが焦げた臭い。微かに肉を焼いたような美味しそうな臭いもする。

「……おい、あんた聞いてくれよ」

 逃げ腰になりながら、この場から逃げて変に男を刺激したくなかった私は「なんだ」と答えた。

 見た目とは裏腹に呂律も発音もはっきりしている男は、「二年後だ。二年後、世界が崩壊するんだよ」と言い始めた。

 ホームレスみたいな男のいうことだ、おそらく何かショックなことがあって冷静ではないのだろう。そう思って聞き流そうとした私は、メモも何も出さずにカウンターの頬杖を突いた。

「あれはオリガルヒが石油プラントの開発を続けているシベリア奥地に建設された石油採掘場で、倒れる従業員が続出したのが始まりだった。今から半年後の話だ」

 オリガルヒという聞き慣れない言葉に内心困惑しながら──後で調べたところによるとロシアの新興財閥だとか──私は妙に話が具体的だなと思いつつ、まだホームレスの妄想だと考えていた。

「当初、連中はそのことをロシア政府にも隠そうとしたんだ。なんせ、何億バレルもの石油が埋蔵されていると地震探鉱が告げていたからな。そいつの価値は計り知れないし、自分たちで何とかなると考えてもいたんだ。でも一年後、従業員の半数以上が倒れて、政府に頼らざる得なくなった」男が乾いた唇を舌で湿らす。「政府は保健・社会発展省から人員を派遣したが、その頃には周囲の村や別の採鉱会社にもその症状は広まっていた。状況を重く見た政府は管轄を民間防衛・緊急事態・危機管理局に移したうえで特別対応チームを結成した。それでもあいつらは封じ込めに失敗したんだ。石油採掘会社はシベリアの永久凍土で眠ってた古代のウイルスを掘り出しちまったんだよ」

 私は一旦彼の話を止めさせ、バーテンダーにウィスキーと軽食を注文し、ポケットにいつも入れているICレコーダーとメモ帳を取り出した。私の中のアンテナが、これはいいストーリーになるということを告げたからだ。

 とりあえず今まで聞いた話をメモに書き写し、録音していいかを聞いてからICレコーダーを起動する。男の方はというと、自分の話が後世に伝わるならどんなことをしてくれても構わないということだった。

 注文した軽食を食べるよう促すと、よほど腹が減っていたのかあっという間に皿の上の料理を平らげウィスキーを飲み干す。もっといるかと聞いたら、まずは話してしまいたいということだった。

「大監督として知られてるあんたにこの話が出来て良かったよ」

 軽食を食べ終わった男がそんなことを口走る。それが嫌味なのか誰かと勘違いしているのか判別がつかなかった私は、「とりあえず話を続けてくれ」と促した。

「WHOも動いて何とかしようとしたんだ。でも、飛沫感染もすれば潜伏期間も長いあのウイルスを封じ込めることはできなかった……」何かを思い出すように小刻みと震え始める。「飛行機に乗ったキャリアは世界中に飛んでいって、そこら中を血の海にした。あのウイルスは潜伏期間が長いのに発症後24時間で肺をぶっ壊す。だからあっという間に広がっては、辺りを血に染めるんだよ。口から血を溢れ出させるんだ」

 素人が考えた妄想にしては本当良く出来ている。技術的には映画で表現可能なのも尚の事都合がいい。

「それで何人も、何人も死んだ。ワクチンを作る間もなく、呼気に混ざって広がるウイルスを止めることも出来ず。国もあっぷあっぷしはじめて、ついに感染者を集めて生きたまま燃やし始めた」男が手で顔を覆う。「そんなことをしても感染拡大は抑えきれなかった……政府上層部も死にはじめて……ウイルス発掘から一年半後には世界中の殆どの人間が死んでいた……」

「そうかそうか」

 私は気のない返事をする。どうせ妄想ではあるのだが、慰めるくらいの事はしていてもいいだろう。といっても私は男の心情などに興味はなく、興味があるのはこの話を映画化していいのかどうかという話だけだった。

「俺は……俺は……」男がぶるぶると震え始める。「上に言われて、妻を、息子を、息子の友達を、妻の両親を……」両手で煤けた顔を覆う。「焼きただれて赤と黒の混じった肌、閉じなくなった瞳、髪の毛の焼ける臭い……」

 突然叫び声をあげた男は椅子を蹴るようにして立ち上がり、ドアへ向かってまるで獣のように走ってそのまま外に出ていった。

 残された私とバーテンダーは目を合わせたまま、目の前で起きた事態を飲み込めず、しばらく呆然としていた。

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「──という話があったのです。もちろん、彼には映画化していいかなんて聞けていません。だからこそいくらかオリジナリティを足し込んで、『私の物語』にしたのです」

 それからすぐさま脚本を書き上げた私はコネと信用を最大限に使って、多大な借金を背負いつつ映画を作った。結果は大成功、借金もあっという間に返済できた。それくらい、彼から聞いた話は大成功したのだ。

 熱心な記者は頷いて、「映画には元々会社員として働いていたものの、崩壊しつつある世界で遺体焼却のボランティアをさせられている男がいましたよね。もしかしてモデルはそのお話を聞いた方なのですか?」

「ええ。名前も知らないとはいえ原案者に近い彼に、せめてものリスペクトを示したかったのです」

「なるほど……」記者がメモ帳に何かを書く。「それで監督のことについてなのですが──」

 それからまた、私の出で立ちや映画作りにおいての考え方などを聞かれ、インタビュー開始から数時間後にやっと私は解放された。

「本日はありがとうございました」

 ICレコーダーを切り、メモ帳を仕舞った彼が座礼する。

「いえいえ。色々な話が出来て良かったですよ」

「記事になったら原稿を送りますので、確認をお願いします」

「よろしくお願いします。原稿が楽しみです」

 私たち二人は立ち上がり握手を交わしてから、一緒に会議室を出ていった。

 

 帰り道、私がスマートフォンでニュースを見ていると、『シベリア、謎の感染症発生』という記事が目に入った。

──まさか、偶然だろう。

 じっとりと冷や汗を掻きながら、気になった私はリンクをタップする。

──シベリアで謎の感染症が蔓延、ロシア政府は緊急事態を宣言……。

 そこには、あの男から聞いた話とほとんど同じ話が書いてあった。

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呪い Side-M 2019年3月31日


愛美はある日、昔付き合いのあった夏美が彼氏と歩いているのを目撃する。しかし夏美を秘かに恨んでいた彼女は、幸せを奪い取るために呪うことを決める。

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 何の変哲もないアスファルトの敷かれた道路。車道を走っていく乗用車。スマートフォンの小さい画面ばかり見ている歩行者。
 誰から見てもいつもと何も変わらない日常。ただし、一つだけ他の人と違うところがある。
 私の目には道端に立って歩いている人の顔を覗き込んだり電柱の陰に立ったりしている幽霊も見えている。時折背中にへばりついているのもいるけれど、多分そんな人は誰かに恨まれてでもいるのだろう。
 どうしてそんなものが見えるのか、私も良くは知らない。親が霊媒師だとかそういうわけでもないし、母方の祖母が拝み屋だったとは聞いたことがあるものの別段変わった家庭に生まれたわけでもない。
 それでも私は小さいころから道端の黒い影や人を指しては、母や父に「あの人どうしたの?」と聞いていたらしい。その都度、両親から「そんな人はいない」と諫められ、人には見えていないものが見えているという事に気が付いたのは中学生くらいの頃だった。
 学生時代と言えば。夏美は元気にしているのだろうか。私が虐められるキッカケを作りだした張本人。
 彼女に私がいわゆる霊感を持っていると話さなければ、何か困ったことがあれば助けると言わなければ、私はけばけばしい化粧で自分の顔を隠さないでも出歩くことが出来たのに。
 キッカケはスクールカースト上位の一人が夏美にまとわりついたのを、私が色々と手を使って──主に呪いとかその類のもので──対処したからだ。それ以来、私は他の人とは違うという事に気が付いたあいつらは、何か悪いことがあれば何でもかんでも私のせいにし嫌がらせを繰り返してきた。
 夏美があんな男に目をつけられなければ、夏美が私を頼らずとも一人で何とか出来れば、私は夏美の代わりとして人身御供に捧げられることもなかっただろうに。
 何よりもムカつくのは、夏美本人は私がいじめられていることに気が付いていなかったこと。その鈍感さがあんな男に纏わりつかれるという事を引き起こしたにもかかわらず、彼女はいつまでも、いつまでたっても鈍感なままで居続けた。
 もとより頼りのない人だったから彼女に頼る気はなかったけれど、それでもその鈍感さは私の感情を逆なでし続けた。
 当然、先公にも相談した。だけれど返事は、「対処する」という言葉だけ。何一つやろうとせずに、生徒指導の先公共はいじめの事実をもみ消した。
 最終的にいじめられ続けた私は精神的なバランスと一緒に体調を崩して志望した大学に落ち、地元の大学に通うことになった。最悪なのはあの連中もそこを志望し、合格していた事だった。
 あとは言わなくても分かるだろう。大学に行っても私がおかしい人間だと言いふらされた挙句私は周囲から孤立し、最後は自主退学した。同じ学科の人間たちが私に向けた目に耐えられなかったのだ。
 それからは職を転々としつつ大学時代のうわさから逃げ回り、最近やっと、地元から離れたこの町である程度落ち着いた生活を送ることが出来るようになった。それでも、虐めてきた連中が何時何時この町に来て私のことを見つけ出すか分からないという恐怖から、職場で陰口をたたかれるのを承知で厚化粧をしているけれど。
 ふと、視界の端に何か懐かしいオーラが映る。人によって守護霊だとかオーラだとかはあまり変わらないから、いくら年数を経て姿かたちが変わっていようが一度見たものは覚えている。
 見るとそこにはやはり、夏美が歩いていた。隣にいる彼氏と思わしき男性と手を組んで。
 その姿を見て、私は燻っていた憤怒の炎が燃え上がり、煮詰めた砂糖水のようにどす黒い感情が体の底から湧き上がるのを感じた。夏美は幸せそうで自分を偽る必要なんてない。なのに、彼女を救ったはずの私は不幸を背負い込み仮面を被ることでやっと外を出歩ける。その差にあるのは一体何なのか、なぜ彼女は私の背負っている不幸のひとかけらも背負わずに外を歩くことが出来るのか。
 何故何故何故。彼女は幸せで私は不幸なのか。憎悪と憤怒が、私の中で噴きあがり、理性というものを焼き尽くす。
 その感情が漏れ出てしまったのか、近くを通ろうとした人がなにやら恐怖心に駆られたかのように顔を顰めて私に道を譲る。けれど、私にとっては気にならない。
 心の中でほくそ笑む。良いことを思いついた。
 彼女から幸せを奪い取ってしまおう。

 そこから、私は百円ショップや近くにある神社を回って、彼女を呪うのに必要な道具をいくつか買ってきた。丁度今日は新月だ。呪いを実行するなら、早い方がいい。
 殺す気はない、殺してしまっては彼女に私の気持ちを体験させることが出来ない。だからこそ、あくまで健康を損なう程度でいい。その程度ならば、大した手間もかからずに彼女を呪うことが出来る。
 彼女から幸せを奪い取るために、私は二段階からなる計画を考えた。まず今日やるのは、一段階目の実行と二段階目の準備だ。
 毛筆と手水で磨った墨で書いた呪符に高校時代の卒業アルバム──本当は持っていきたくなかったけれど親にどうしても持って行けと言われたものだ──から切り取った夏美の写真を重ねて、呪符と写真が筒状になるように適当な紐で縛る。そのとき、写真の首と紐の位置が重なるようにすること。
 最後にその紙筒に釘を打ち込み、数回呪文を繰り返した後、釘を抜いて紙筒を燃やす。これで、彼女の健康はほどなくして損なわれるだろう。燃やした灰は真っ新な半紙に包んで保管しておく。この灰はあとで呪いを解くのに必要だ。
 突然、背筋を撫でるような冷ややかな感触が私を襲う。これで一段階目の呪いは成功した。
 次に毛筆と墨を洗い流し、手水で朱墨を磨る。別の半紙に先ほどとは違う呪文を書いて、乾くまで窓際へと置いておいた。これは二段階目に、彼女に本当の絶望を与えるために必要な呪符だ。
「ふふっ……」
 思わず笑い声が漏れる。私が背負ってきた苦しみを、彼女も味わうがいい。

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 それからしばらくして、仕事終わりに家へと帰ろうと道を歩いていると、人ごみの中に彼女のオーラが見えた。同時に彼女の背中には、痴情のもつれで命を絶ったり恨みを抱いたりしている人間の霊や生霊の塊が、十数尺ほどの身長をした女性の形で貼り付いている。見る限り、私がかけた呪いは完璧に働いているようだ。
 人の間を縫って、彼女のもとへと歩いていき──背中に張り付いている女に睨まれたけれど、私が術者である以上は手だししてこない──私は後ろから声をかけた。
「ねえ、夏美じゃない?」
 彼女はいかにも体調が悪そうな青い顔をして、私の顔を見つめる。その姿を見て、私は物事がうまく運んでいるのだと思って微笑んだ。
「誰ですか?」
「斎藤愛美だよ。高校まで一緒だったじゃん」
 彼女は私のことが分からないかのように、眉をひそめる。そうだろう、自分がいかに恵まれて幸せなのか分からない女が、私のことなんてわかるわけがない。自分を偽らなければ外も歩けない人間のことなんて。
「あ、もしかして私がめっちゃ化粧してるからわかんないとか?」
「ええ。私の知っている愛美さんはそんな……」
「ちょっと大学で色々あってねー」笑って私のことを信用させよう。まだ計画は終わっていないのだから。「あ、もし時間あるならさ。ちょっと話してかない?」
 しばらく考える様に目を泳がした後、彼女はゆっくりと微かに頷いた。うまく行ったみたいだ。
「じゃあ行こ。ここらに私の行きつけのカフェがあるからさ」
 これから彼女に振り掛かる悪夢を考えると、私は笑いが止まらなかった。

 行きつけのカフェで、彼女と私はカフェラテとロイヤルミルクティーを頼み、それぞれ口をつける。だけれど彼女の方はというと、具合が悪いせいであまり飲む気になれないようだった。私はというと、自然を装うためにカップを持って中のものを数口飲む。けれど、これから先に起きるであろうことを考えると、歓喜のせいで味がしなかった。
「随分具合悪そうね。まあそんな状況じゃ無理もないか」
 彼女が顔を顰め、私のことを見つめる。そうだろう、いきなりそんなことを言われて納得できる人などそうそういないのだから。
「どういうこと?」
 私はあくまで自分が関わってないという体で、彼女に「夏美、あんた最近変な夢とか突然の痛みとかそういうの無い?」と尋ねた。
 すると彼女は驚いたように目を見開いた。当然だ、見ていないとしたら驚くのは私の方だ。
「どうしてそれを?」
 私は持っていたコーヒーカップを置いて、彼女の背中に張り付いている女と目を合わせる。向こうは私をにらんできたけれど、この程度の雑魚に怯えるほど私は弱くない。
「うーんとね、恨まれてるって言うか……呪われてるっていうべきかな。夏美の背中にべったり女が張り付いてる。で、その女が首を絞めたり心臓をかき乱したりしてるのが不調の原因」
 如何に事実の中に私が存在しないよう編集するか。それは私が異常だということを隠し続けてきたのと、そっくりだった。
「誰がやってるとか、分かる?」
 私は首を横に振る。当然だけれど、自分がやっているとは言わない。
「流石にそこまではね……今ある道具じゃわからない。でも、男性関係みたいね。このまま放っておけば彼氏にも影響が出るから、別れることも考えて」
 彼女が聞きたくなかったかのように目を机へと落とし、考え込むかのように黙った。そうだろう、そうそう手放す気はないのだろう。
──でも、これからあんたは彼を手放さなくてはいけなくなるのよ。
 しばらくして、彼女は消え入るような声で自分の考えを述べる。実現するはずもない、彼女の意見を。
「別れたくは、ないかな……」
「まあ、そうよねえ」
 私はカバンの中に入れておいた呪符を一枚取り出す。彼女に呪いをかける時、一緒に作ったものだ。彼女に致命傷を与えるための、朱墨で書いた呪符。
「これは?」
「お守り。これをいつもは枕の下に入れて寝て。ただし新月の日には夕暮れから夜明けまで枕の下から取り出すこと」
 本当は違う。これは恋仲である男女の関係を引き裂き、呪符を持ってない方と術者を恋仲にするもの。要は略奪愛のための呪符だ。
 私の計画は彼女が一段階目の呪いで健康を損ねた後に私に頼り、なにか呪術的な解決を求める。二段階目として、この呪符を渡して愛すらも奪うと同時に一段階目の呪いを解いて、彼女に私を信用させるとともに彼氏を奪う。
 そうして「浮気しているかもしれない」という疑心暗鬼に陥ったところへ、彼と私が付き合っているところを見せつけ、本当の孤独を味わせるのだ。信用したはず友人と恋人を同時に失うという、本当の孤独を。
 彼女は疑うこともなく私の呪符を受取り、「ありがとう」といってバッグに仕舞う。
 私はこれから起きるであろうことを考えて、思わず笑みがこぼれた。
「気にしないで。いつもそうやって来たじゃない」

 それから彼女と別れた私は家へと帰って、呪ったときに出た灰を包んだ半紙に毛筆と手水で磨った墨で呪文を書いて、満月の夜になるまで待った後、川へと半紙ごと流した。これで彼女の健康はゆっくりではあるけれど、確実によくなっていくはずだ。
 ほどなくして、私の職場に夏美の彼氏が仕事の都合で来るようになった。それを好機に、私は彼を口説いたり誘惑したりして──時には呪いのおかげもあって──彼を篭絡することに成功した。あとは彼が私から離れられないようにした後、夏美にその姿を見せつければいい。
 しばらくして。彼が夏美の誘いを断るように諭した後、彼を誘って休日に出かけることにした私は、街の中で彼女のオーラを見つけた。
──丁度いい。
 反対側の道路から見える様に彼の腕をひく。私が彼女を見つめると、彼女も何かに気づいたかのようにこちらを見た。
 その瞬間、彼女の顔が嫌悪と怒りと失望と驚きを混ぜ込んだ表情へと変わる。まるで、それぞれの負の感情を一つに重ねたような表情へ。
 私は彼女のその顔を見て、愉快さのあまり笑いだしそうになった。
 だって彼女の表情は、私の顔とまるで瓜二つだったから。

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呪い Side-N 2019年3月17日


夏美は毎日睨みつけられるような感覚に襲われ、次第に体調も悪化していった。ある日、彼女は古い友人で霊感の強い愛美から、「どうも男性関係が原因で呪われている」と教えられるが……。

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 首が手のひらに包まれる、和紙で皮膚を撫でるような感覚。細く冷たい親指が首の後ろに当てられ、しなやかな長い指が小指から人差し指まで順番に首に巻き付き、ゆっくりと私の首を締め上げて……。
 叫び声をあげて飛び起きる。いつものように、反射的に首に手を触れる。当然、何もついてない。
 荒い息を整えながらベッドの近くに置いてある時計を見ると、仄かに光る時計の針は午前二時半を指していた。
「また……」
 ここ最近、ずっとこうだ。眠りと覚醒の間にいるような状態に叩きこまれたと思ったら、首に細く長い指が巻き付いて締め上げてくる夢を見る。そして飛び起きて時計を見ると、午前二時半。必ず、この時間だ。
 ため息をついてもう一度横になろうと掛け布団を被る。けれど興奮して目が冴えた今の状態じゃ、中々寝付けそうになかった。
 赤ちゃんのようにうずくまる。いったい私に何が起きているのだろうか。ここ最近、これを除けば不安になるような事は一つもない。過去に経験したことがないほど、気が抜けてしまいそうなほどに順風満帆なのに。
 友達の蓮花に相談してみたこともある。もちろん話は聞いてくれたし、重荷が無くなったような気もするのだけれど、何も解決しなかった。
 一度、精神科に行った方がいいのだろうか。もしかしたら、自分で気が付かないような何かが心の中で起きていて、そのせいでこの症状が出ているのかもしれない。
 でも精神科は怖い。よく言われるような事のほとんどが嘘だと聞いたことはあるけれど、何処に行けばいいのかとか何をされるのかとか、分からないことばかりだ。
──もっと症状がひどくなったら、行きましょう。
 そう決めてから数回深呼吸を繰り返すと、何となく心が落ち着いた。
 日々の睡眠不足が祟って、瞼があっという間に重くなっていく。私はまた、眠りの中に落ち込んでいった。

「ちょっと夏美、大丈夫? 顔色酷いよ」
 同僚の蓮花が箸の先を私に向ける。口の中には昼ご飯が入ったままで。
「せめてご飯飲み込んでから話してよ」
「飯飲み込むより、あんたの顔色の方が問題でしょ。本当、酷い顔してる」
 適当に冷凍食品と白米を詰め込んだ弁当箱の上を私の箸が彷徨う。どうしよう、あまり食欲がわかない。
「最近、変なことがあって寝れてないの」
 そうぼそりと呟くと、彼女が不安そうな表情を浮かべて、「ああ……あの、首を絞められるだったかそんな感じのこと?」
「そう」とりあえずご飯を少しだけつまんで、口に放り込んで飲み込む。味がしない。「でも、大丈夫だよ」
 彼女がご飯を口の中に掻き込んでから、「どう見ても大丈夫じゃないけど。飯食えなくなったら動物は死ぬんだよ」
「あはは……」
 はっきりとしない笑いをあげると、彼女がもう一度箸で私を指した。
「洒落じゃないって。昔から色んな動物飼ってきたけど、衰弱して死ぬ前には必ず飯を食わなくなったんだから」
「そんな。私は──」突然、肋骨が肺に刺さったかのような痛みが左胸を襲う。
 息が出来ず、思わず屈みこむ。
 カランカランと、箸の落ちる音が聞こえる。
「ねえ、ちょっと夏美」
 彼女が慌てて、私のことを支えてくれた。無理矢理息を吸い込むと、パキンという音とともに胸の痛みが不意に引いていった。
 屈みこんだまま、荒くなった息を整える。
「大丈夫?」
 私は頷いて顔をあげたけれど、彼女は心配そうな顔で「病院行ったら? 着いてってあげるからさ」と続けた。
「大丈夫だよ……いつものことだから」
 ここ最近の話だ。今と似たような症状が何度も何度も、時と場所を選ばずに私の胸を襲う。とはいえ、しばらくすると落ち着くし痛い他に何かがあるというわけでもない。
 多分、最近寝られていないことが原因なのだろう。それに、病院に行ったところで正体不明とか神経痛とか、そう言われるに違いない。そんな事を聞くために病院へ行くのは、お医者さんも迷惑だろう。
「本当?」
 先ほど落とした箸を拾いながら頷く。ふと腕時計を見ると、もうそろそろ昼休みが終わる時間だった。
「蓮花、もう時間だよ」
「え? ああ……」
 私はほとんど手をつけていない弁当箱を手早く片付け、彼女と一緒に仕事場へと走っていった。

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 仕事を終えて──私のいる部署はそれほど激務ではないので大抵は定時に帰れるのだ──最寄り駅に向かっている最中、私は後ろから声をかけられた。
「ねえ、夏美じゃない?」
 どこかで聞いたような特徴のある高い声。振り向くと、ブリーチ特有のくすんだ金髪をした、見たことのない顔をした女性がニコニコと笑って私の顔を見つめていた。かなり化粧が濃いみたいで、それなりに離れているはずなのに化粧品の粉っぽいにおいが鼻につく。
 私は首を傾げて、「誰ですか?」
「斎藤愛美だよ。高校まで一緒だったじゃん」
 確かに小学校から高校まで斎藤愛美という友達がいた。けれど、彼女はこんなにけばけばしい化粧をしていなかったし、校則がそうだったというのもあるけれど黒髪だった。なにより彼女は派手好きというよりはむしろ地味な子だったはずだ。
「あ、もしかして私がめっちゃ化粧してるからわかんないとか?」
 疑問符を頭の上に浮かべている事に気が付いたのか、彼女はそう訊ねてくる。
「ええ。私の知っている愛美さんはそんな……」
「ちょっと大学で色々あってねー」彼女は屈託のない笑顔──声をかけられてから初めて見る、愛美らしい顔だ──を私に向ける。「あ、もし時間あるならさ。ちょっと話してかない?」
 通勤にはそんなに時間もかからないというのもあって時間はあるし、この時間帯は帰宅ラッシュの関係で電車の中も混む。時間を潰せるのなら歓迎だ。なにより愛美は昔から勘が鋭いというか、いわゆる霊感を持つ子だった。彼女のおかげで、何度か私も救われたことがある。
──もしかしたら、今の私に起きていることに何か説明をつけてくれるかもしれない。
 そんな、藁にすがるような考えが、私の頭を上下に揺らした。
「じゃあ行こ。ここらに私の行きつけのカフェがあるからさ」
 彼女が笑って歩き始める。私もそのあとを追っていった。

 街中によくあるチェーン店のカフェで、私はカフェラテに口をつけた。けれどミルクでも消しきれないエスプレッソの酸味に、思わずえづく。前はそんなことなかったのに。
「随分具合悪そうね」彼女はロイヤルミルクティーを一口飲んで、「まあそんな状況じゃ無理もないか」
 彼女の独り合点に、私は顔を顰める。
「どういうこと?」
「夏美、あんた最近変な夢とか突然の痛みとかそういうの無い?」
 一転して私は目を見開く。何で彼女がそのことを知っているのだろうか。
「どうしてそれを?」
 彼女がコーヒーカップを置いて、私の肩越しに目線を向ける。
「うーんとね、恨まれてるって言うか……呪われてるっていうべきかな。夏美の背中にべったり女が張り付いてる。で、その女が首を絞めたり心臓をかき乱したりしてるのが不調の原因」
 私は働かない頭を巡らせてみる。けれど、そんな恨まれるような事をした覚えはない。確かにあれだけ順風満帆なのだから多少は妬まれているだろう。でも、そんな呪われるほどのことをした覚えはない。
 彼女が嘘をついている? いいや。こういうことに限れば、彼女は嘘をつかない。それだけは確かだ。それで何度も救われてきたのだから。
「誰がやってるとか、分かる?」
 彼女が首を横に振る。
「流石にそこまではね……今ある道具じゃわからない。でも、男性関係みたいね。このまま放っておけば彼氏にも影響が出るから、別れることも考えて」
 私は彼女から目をそらして、机の上にある冷めたカフェラテを見つめる。
 彼のことはもちろん好きだ。だから、彼まで巻き込まれてしまうのなら、別れることも考えないと。でも好きだからこそ、別れるなんてことを考えたくはない。別れずに何とかする方法はないのだろうか。
「別れたくは、ないかな……」
「まあ、そうよねえ」彼女が真っ赤な鞄から一枚の紙を取り出して机に載せる。お札くらいの大きさをした半紙に何か文字を朱墨で書いてあるようだけれど、何を書いてあるのかはさっぱりわからない。
「これは?」
「お守り。これをいつもは枕の下に入れて寝て。ただし新月の日には夕暮れから夜明けまで枕の下から取り出すこと」
 そういえば高校時代、私が面倒な男に絡まれていた時も彼女はこうやっておまじないを教えてくれた。その男は結局、暴行事件を起こした挙句に学校を退学になって、二度と私に関わってくることはなかった。
 今回もきっと、そういうようなものなのだろう。なにより彼女がくれたのだから。
 私はお守りを受取って、バッグにしまう。
「ありがとう」
「気にしないで。いつもそうやって来たじゃない」
 彼女は見慣れた、純粋そのものの笑みを浮かべた。

 それからしばらくして。
 私は悪夢や謎の痛みから解き放たれて毎日ゆっくりと寝られるようになり、それに伴って体調もみるみる復活していった。花蓮や他の同僚からも、「前に比べればずいぶん元気そうに見える」とお墨付きをもらうくらいに。
 けれどそれと同時に、私と彼の距離は離れていった。体調が回復するにつれて、彼と私の予定が被ったり久々に会えると思ったら彼が体調を崩したりと、そういうことが増えたのだ。
 初めの方はどうしようもないことだと思っていた。彼も忙しい人だし、前々からそういうことはあったから。
 けれど日が経つにつれて、どうにもおかしいと思い始めた。あまりに彼と私の予定が合わないし、彼の体調がかなり不安定だ。それに一度、体調を崩しているということだったので看病に行こうかと聞いたら、怒気をはらんだ声で「来なくていい」と言われたこともある。
 好きなのは変わらないけれど、モヤモヤとした疑惑を抱えながら誰かを好きで居続けるのは難しかった。結局、胸に秘めているものが漏れ出てしまっているのか、彼との距離は日に日に離れていった。

 ある休みの日に街中を歩いているとき。私の目は信じられないものに釘付けになった。
 仕事中のはずの彼が私服を着て、道路の向こう側を歩いていた。何故そんなことを知っているかと言えば、デートに行かないかと私が誘ったときに彼が「今日夜まで仕事だから」と断ったからだ。
 そして、彼の隣に立って手を繋いでいる女。それは愛美だった。

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