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ポストカード 2018年11月26日


ある日、郵便受けに入っていたのは、彼を被写体にした送り主不明のポストカード。初めは写真を見て懐かしんでいた彼だったが、あることに気が付いてから……。

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 週一回の買い物を終えて帰ってきた俺が荷物を置いてドアの裏側に付いている郵便受けを開けると、はがきが一枚滑り出てきた。
──なんだ?
 このご時世、はがきや手紙なんて送ってくる人が居るなんて。公共料金の領収書だとかダイレクトメールとかならわかるが。
 手に取って見ると、表には俺の住所と名前が綺麗な字で書かれていた。消印は昨日。文字の丸さから、なんとなく女性っぽい気がする。
 どこかでこの筆跡を見たことがあるような気もするが、どうにも思い出せない。さて、どこだったか。
「誰かに住所教えてたっけ……」
 女友達は居るものの、特に必要ないと思って住所は教えていない。唯一教えるとしたら彼女がいる場合だが、今の部屋を借りるようになってから彼女が出来たことはない。
 というよりは以前付き合っていた彼女の執着心や嫉妬心があまりに強すぎたせいでトラウマになってから、女性関係は持たないようにしている。その彼女とは俺が夜逃げする形で縁を切っているので、住所は知らないはずだ。
 とりあえず、裏を見よう。そう思ってひっくり返すと、半年ほど前に行われた河原でのバーベキュー大会──会社の部署ごとで開かれるレクリエーションという体で開催された──の写真だった。
 川原特有の丸い石が敷き詰められた地面と疎らな野草。そこに焼き台が横に三つ並んでおり、俺は中央の焼き台の近くでプラスチックコップに入ったビールを片手に、ぼけっと空を見ていた。周りにはほとんど人がおらず──確か肉が焼ける前だったので、誰もこっちに来ようとせずに俺が火の面倒を見ていたのだ──唯一、俺よりもカメラから離れた位置に立っていた同僚の佐藤がカメラの方を見ていた。しかし佐藤にはピントがあっていないので、被写体は俺らしい。
 多分、フレームの外では鈴木課長が女性社員をそばに侍らせ、他の男性社員がいそいそと面倒を見ているに違いない。ああいう上司にこびへつらうのが苦手な俺や佐藤は、二人寂しく賞与の値段を嘆きながら一緒に居る訳だが。
 まあ、そうは言いつつも懐かしい写真だ。課長のことが大嫌いというわけでもないし、レクリエーションのおかげで新入社員とも知り合えたし。
──しかし、誰が送ってきたんだ?
 裏にも表にも送り主の名前や住所は書かれていない。書かなくても届くものの、何かあったときのために大抵は書くものだと思うのだが。
 カードを指の間に挟んだまま廊下を歩き、キッチンを超えて居室に入る。机の前に置いた椅子に座ってから、机の上に電気スタンドをつけてもう一度、ポストカードを隅々まで確認してみた。
 やはり、何処にも送り主の名前や住所は書いていない。イニシャルや郵便番号すらも。
 何となく引っかかったものの、何か害があるというわけでもなさそうだ。もしかしたら、社員の誰かが撮った写真を、気を利かせて俺に送ってくれたのかもしれない。
 それでも手紙という手段を取るなんて、珍しいものだが。
「……まあ、いいか」
 俺はポストカードを机の引き出しに仕舞い、ストリーミングサービスで映画を観るためにラップトップを起動した。

 定時に仕事を終えてから──鈴木課長は苦手な上司ではあるものの、こういうルールに関しては厳しい人だから嫌いになれない──部屋に帰り、郵便受けを開ける。すると、またポストカードが滑り出てきた。
──このカードが来るのは一週間ぶりだな。
 今回も前と同じく、送り主の情報は一切ないようだ。裏を見ると、三か月くらい前にあった高校の同窓会の写真だった。今回も俺が主役になっているらしく、友達が中央にいる俺を取り囲んで笑っていた。
 ただ、この写真はおかしい。
──誰が撮ったんだ。
 生まれつき酒が強いおかげで、かなりの量を飲んでもそのときの状況をある程度思い出せる。
 だからこそ、確信を持って言える。あの時、誰も俺の写真を撮ってはいない。
 バーベキュー大会の時はカメラに気づかなかったのかもしれないが、室内であれば気づくはずだし、気づいていればそっちの方を見るはずだ。なのに、俺は笑ってはいるもののカメラの方を見ていない。
──流石におかしいぞ……。
 廊下を通ってワンルームに入り、シングルベッドに腰かける。消印を見ると、送り主はどうも近所のポストから俺に送っているらしい。というのも、書かれている郵便局の名前がここ一帯の集配郵便局だからだ。
 もちろん、逃げた身である俺に近所の知り合いなどいない。
──まさか……。
 俺はその考えを振り払う。まさか、あいつが俺を追ってこの町に来たわけではないだろう。何より、あいつは同窓会に参加していないのだ。あの写真を撮れるわけがない。
 とりあえず、こんなことを相談してまともに聞いてくれるのは佐藤だけだ。あいつは頭の回転も速いし冷静だ、なにか糸口を見つけてくれるかもしれない。
 俺は胃の上の辺りを掴まれるような感覚をこらえながら、佐藤にいくつか連絡を入れた。

 翌日。吐き気と頭痛、そして右手に持っていたウォッカの空瓶と共に目覚めた俺は、よろよろと立ち上がってトイレに行き、便器に顔を突っ込んで盛大に吐いた。
 吐きながら、昨日のことを思い出していた。あまりの恐怖と不快感で冷蔵庫に入れておいた缶チューハイでも酔いきれなかったため、足りない酒を近くのコンビニで買い足したのを最後に俺の記憶は飛んでいる。
 幾ら酒に強いと言え、近くに転がっているものから見て、缶チューハイ五本にウィスキーとウォッカをそれぞれ一本ずつ飲んだようだ。それだけ飲めば、こうもなるだろう。
 一頻り吐いて落ち着いてからシンクで口をゆすいで何杯か水を飲んだ後、若干の気持ち悪さを抱えつつスマートフォンを取りにワンルームに戻った俺は、ベッドの近くに転がっていた目覚まし時計を見て驚いた。
「やべ……」
 佐藤と約束した時間まで一時間とない。待ち合わせ場所まで行くのに、ここから五十分はかかるっていうのに。
──まともに身だしなみ整えている時間はなさそうだな。
 シンクへとんぼ返りして、片手で歯を磨きながらもう一方の手で櫛を掴み、髪を適当になでつける。髪を梳き終わったら歯ブラシの代わりにマウスウォッシュを口に含んで、顔を簡単に洗って干してあったバスタオルで顔を拭い、終わったら口からマウスウォッシュを吐き出す。
 近くにあった私服を着てから、今まで送られてきたポストカード含め必要なものだけ持って玄関に行くと、郵便受けに何か入っていた。
──嘘だろ……?
 郵便受けを開ける。
 ポストカードだ。手に取ると、いつも通り俺の住所と名前しか書いていない。裏を見ようとひっくり返そうとして、不意に思いとどまった。
──いや。これを見るのは、あいつに会ってからだ。
 そう思い直してカバンにポストカードを突っ込んでから、俺はドアを開けて──もちろんカギは忘れずに──駅に向かって走りだした。

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 ぎりぎり佐藤と時間通り落ち合うことが出来た俺は、近くのファミレスのボックス席に座って、それぞれ飲み物を注文した。
 落ち着いてから、こいつが口を開いて俺に尋ねた。
「……で、やばいポストカードが届いたって?」
「ついでに言うと、今日の朝も届いた」
「オーケー、整理しよう。送り主不明のポストカードが撮影者不明の写真付きで、お前のところに送られてくる、間違いは?」
「ない」
 俺たちが注文した飲み物がテーブルに届けられる。俺は吐き気もあって口をつけなかったが、こいつはコーヒーを一口飲んだ。
「今まで送られてきたカードは?」
 俺がカバンから二枚のポストカードを取り出して手渡すと、こいつが怪訝な顔をした。
「おかしいな。同窓会の方は分からないが、バーベキュー大会の写真はおかしい」
「そうなのか?」
「この写真が撮られたと思われる時間に俺が見てたのは川なんだよ。それに俺は酒が飲めないから、この時も素面だった」こいつが腕を組んで背もたれに寄りかかる。「断言できる。あの時、誰も俺たちを撮ってない。なんなら、あの時カメラを持ってたのは課長だけだ」
「……これもか」
「ああ。川の中から隠し撮りしてたってなら、辻褄も合いそうなものだが……まさか冷戦時代のスパイ映画でもないだろう」背もたれに寄りかかるのを止めたこいつが、テーブルに肘をついて俺を見る。「で、今日送られてきたカードってのは。見たのか?」
「時間がなくて見てない」
「見せろ」
 俺がカバンから今朝届いたポストカードを表にしてこいつに渡す。なんだか、裏にするのが怖かった。
 裏を見た瞬間、まるで血の気が引いたようにこいつの顔が青ざめる。どんなオプティミストでも、裏の写真が良くないものだってわかりそうなくらいに。
「……なんだったんだ」
 ポストカードを表にしてテーブルに置いたこいつが俺に尋ねてきた。
「お前、ストーカーされたことは。いや、ストーカーだってわからなくてもいい。元カノ以外に執着心や嫉妬心を向けられたことはないか」
「いや、そういう話は出来るだけ避けてきた。お前だって、俺がEカップで容姿端麗、社長令嬢の彼女がいるって嘘ついて、女性社員と女友達の興味逸らしてるの知ってるだろう。第一、出会い系にすら登録してないってのに」
「だよな……」こいつが歯をぎりぎりと鳴らす。歯ぎしりするのは、無理難題に直面したときの癖だ。「じゃあ、元カノか……いや、まさかな」
 サアッという血の引く音が耳の中で聞こえ、心臓が早鐘を打つ。
──まさか、本当にあいつが?
「どういうことなんだ」
 こいつがポストカードを裏返す。
 その写真を見て、目を見開いた。俺と女友達が並んで歩いているのを後ろから撮った写真。街の景色から見て、二カ月ほど前のことで間違いない。女友達が彼氏に買うプレゼントを選んでほしいということだったので、買い物に付き合ったときの写真だ。
 そこまではいい。
 問題は、女友達の頭だけが白く、ぐちゃぐちゃに塗られていることだった。
「なんだこれ……なんでこんな風に塗られて……」
「塗ったわけじゃない」こいつが首を横に振る。「釘か画鋲かはわからないが……引っ掻いた跡なんだよ。見えてるのは紙だ、インクじゃない」
 その言葉を聞いた途端、背筋に寒気が走る。
「高橋、良いか。もっとやばいこと言うぞ」
「お、おう……」
「お前から相談受けた後、なんだか気になってお前の元カノのことを調べた。名前も居た町も教えてもらってたしな」こいつが生唾を飲み込む。「彼女、死んでる。自殺だ」
「はあっ!?」
 思わず大声を上げるが、こいつは青ざめた顔のままスマートフォンの画面を俺につきつけてきた。半年ほど前のニュース記事だ。俺がちょうど夜逃げした後の辺りの。
「──川で26歳女性遺体発見、入水自殺か」何度も何度も読み返してみても、そのニュース記事は間違いなく前の彼女のことを指していた。「嘘だろ……」
 残酷だとは思うものの、帰るのが遅くなると包丁で刺して来たり女性用芳香剤の匂いがすると首を絞めてきたりしてきた彼女だっただけに、悲しみはなかった。それよりも犯人がだれか分からないという不気味さとそんな相手につけ狙われているという恐怖が、いよいよもって輪郭を持ち始めた。
 佐藤がスマートフォンをしまう。
「その川、俺たちがバーベキュー大会した川だが……それはいい。だからな、アングル云々の前に、元カノから送られてくること自体が有り得ない」こいつが舌打ちをする。「こうなると相手がわからない以上、警察や弁護士に言っても限界がある。俺の知り合いに探偵が居るから、そいつに頼もう。それで犯人を見つけてもらって、弁護士を雇って法廷で戦うしかない」
 こんな風に具体的なアドバイスをくれる人間なんて、そうそう居ない。
──やっぱり、こいつに相談してよかった。
 誰か頼りにできる人間がいるというだけで、気分が随分楽になる。相手が誰か分からないだけに、仲間が多い方が良い。
「分かった」
「お前の電話番号とかを知り合いに教えることになるが、良いな?」
「ああ」
「よし。多分、明日あたりその知り合いから電話が掛かってくるはずだ。もちろん俺からも話はしておくが、お前からも説明してやってくれ」
 この奇妙な事件はまだ解決していないが、展望が開けてきた事に安心して、俺は胸をなでおろす。
「ありがとうな」
 こいつがコーヒーを飲み干してから、力強く頷いた。
「友達のためだ。やれることはする」

 しばらく佐藤と他愛もない話をしてから、俺は帰路についた。これから先、どうなるかわからないとはいえ、前よりは希望が持てそうだ。とりあえず解決したら、また引っ越した方がいいかもしれない。
 部屋に帰ってドアの鍵を閉めた、そのときだった。
 カコン。
 軽いものが金属に当たる音が、郵便受けの方から聞こえる。それと同時に、尾てい骨から首までを人差し指で撫でられるような、肌が粟立つ感覚に襲われた。
──どういうことだ。
 震える手で郵便受けを開ける。中に入っていたのは、一枚のポストカード。
 消印なし、住所なし。
 あるのは赤茶けたインクで大きく乱雑に書かれた俺の名前だけ。
 恐る恐る裏を見ると、俺たちのいたファミレスを通りの向こうから撮影した写真。そこには窓際の席に座っている佐藤と、ぐちゃぐちゃに引っ掻かれて跡形もなくなっている俺『らしき』姿が写っていた。
──あいつが……? 死んだってニュースで……。
 思わずポストカードを取り落とす。恐怖と驚きで喉が詰まって、上手に息ができない。
 投入口から、もう一枚ポストカードがいれられて、開いたままの郵便受けに落ちる。
 そのポストカードは初めて、表向きではなくて裏向きだった。
 写真は、俺が青ざめた顔でポストカードを持っている姿。アングルから見て、廊下に立っている撮影者が、玄関に立っている俺を撮影していた。
 思わず振り返る。もちろん、廊下には誰もいない。鍵をかけているはずのこの部屋に、いるわけがない。
「は、はは……」
 引きつったような笑い声が俺の喉から聞こえる。
 そのとき、あることを思い出した。
──初めてポストカードが届いた日、前の彼女の誕生日だったっけ……。それにポストカード集めるのが、趣味だったよな……。
 ふと後ろから聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった女の声が聞こえてきた。
「忘れないでって、言ったでしょう?」

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消える。 2018年10月28日


日記に書かれていたのは、いないはずの友人の言葉。その言葉が書かれた日から、日記の内容と現実が乖離していく……。

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十月二十日
今日は妙なことがあった。
同僚で友人の山本と一緒に帰っていたときのことだ。今朝から体調が悪いと言っていたあいつが青い顔で突然、「俺が消えても、お前は覚えていてくれるよな?」と私に言ったのだ。
そんな質問をされて困惑した私が「闇金から金でも借りて首が回らなくなったのか」と聞くと、「そうではない」と返ってくる。じゃあなんだ、と聞くとあいつは言い淀んで目を泳がしていた。
何でもかんでもむやみやたらに言い切るあいつが、こんな姿を見せるなんて相当なことだ。だが、言いにくいことを無理やり言わせるのは私の良心に反する。
とりあえず、その場を収めるために「わかった、お前のことは日記に書いておくから」と約束すると、あいつは安心したかのように胸をなでおろしていた。
それでこの話は終わりなのだが……はてさて、何事も茶化しては顰蹙を買うあいつの口をあんな風に動かすとは。一体、何があったというのだろうか。

十月二十一日
今日は特に何かあったというわけではないけれど、一つ気になることがある。
昨日の日記に書いてあった山本とは一体誰だ。友人に山田や山村は居るが、山本なんて一人もいない。
とはいえ、『言いにくいことを無理に聞き出すのが良心に反する』というのは確かに私が常日頃から思っていることだし、日記のテンプレートも筆跡も間違いなく私のものだ。
誰かが私の日記を盗んで書いた、そんなことはあり得ないだろう。何より、わざわざこんないたずらをする酔狂がいるものか。うちの姉貴でさえ、こんなことはしないというのに。
兎にも角にも、書くとき以外は金庫に入れておけば誰も手は出せないはずだ。

十月二十二日
今日は私の部屋を間借りしている姉貴の誕生日だ。
昨日気づいた山本の存在が胸に引っかかっていた私は、今日の昼になるまでそのことをすっかりと忘れていた(気づいたのはスケジュール帳に書いてあったからだ)。
とりあえず夜勤明けの姉貴に連絡を入れると、新しい化粧品が欲しいらしい。とはいえ、いつも百円ショップの化粧品で適当に化粧をしている私では、何処にあるのか見当もつかない。そういうことなので、どこで買えるのかと聞くと私の職場の近くだということだ。
ということなので化粧品を買って家に帰ると、姉貴は喜んでくれたようだった。ああいう姿を見ると、送った側も嬉しいものだ。

十月二十三日
まただ。
おかしい。
存在しないはずの山本に次いで、私は一人っ子のはずなのに。
姉貴とは誰だ。遠方に住んでいる両親に聞いてみても、私は間違いなく一人っ子だった。実家から持ってきた何枚かの写真に写っているのは、父と母と私だけだ。
金庫には間違い無く入れている。それどころか、この部屋に住んでいるのは私だけのはず。
空き巣に入られたか? いや、そんな馬鹿な。鍵を壊された形跡も部屋を荒らされた形跡もない。
それとも存在しない姉貴に書かれたか? それこそ愚にもつかない考えだ。存在しないのに、どうやって書くというのか。
なにより、やはり筆跡は私のもので間違いない。同じ内容をトレーシングペーパーに書いて重ねて見ても、筆跡から字間まで殆ど同じだ。
どういうことだ。一体、私に何が起きているんだ。

十月二十四日
昨日、久しぶりに連絡を入れたからなのか、母が心配して電話をかけてきた。
とはいえ、遠方に住んでいる母を無為に不安にさせたくない。それで、「ちょっと飲み会の席で家族関係についての話になったんだ」と嘘をついてみたものの、勘の鋭い母には通用しないようだった。
仕方なくここ数日見つけた存在しない人の話をしたところ、似たような話を母も聞いたことがあるというのだ。尤も母が言うには所有者不明の日記の話だそうで、今はもう亡くなったひいおばあちゃんからずいぶん昔に聞いて、細部はほとんど覚えていないとのことだった。
けれど、日記の内容は友人や家族のような周りの人間がどんどんいなくなっていくという内容で──もちろん書いた人は両親を除き、彼らのことを覚えていない──最終的には、自分が消えることを悟った日付で日記が終わっていた。そしてその日記は、誰も住んでいないはずの団地の、空き部屋から見つかったそうだ。
怖がらせるつもりは無いと言っていたけれど、私はどうにも母の話が気になってしまう。
その書いた人、まるで今の私みたいじゃないか。
とりあえず、母からは「無理して働くんじゃないよ」とは釘を刺されたが……まさか、いつか私まで消えてしまうのか?

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十月二十五日
狂ったのは私か?
それとも世界の方が狂ったか?
母は私が小さい頃に事故で死んだはずだ。なのに、なぜ昨日の日付で、母と、話しているんだ。
あり得ない。私は荒唐無稽なタイムトラベル物の主人公じゃないんだぞ。どういうことなんだ、なんで母が生きているかのように日記が書かれているんだ。
何度も電話をかけて、父にも確認した。やっぱり、母は私が小さい頃に死んでいる。二人が二人して間違えるなんて有り得ない。
意味が分からない。訳が分からない。誰か教えてくれ。

十月二十六日
遠方で独り暮らしをしていた父親が私のもとを訪ねてきた。突然の事だったから、どうしてと聞くと、昨日の私の様子があまりにもおかしかったものだから不安になって見に来たというのだ。
父は「家事は全部やるから、お前はゆっくり休みなさい。仕事も休んでいいから」と言ってくれて、今はキッチンで夕食を作ってくれている。
私は父に全部を任せて、日記を書いている。まだ日は沈んでいないけれど、書けることは書いてしまえ。
残りはまた寝る前に

いったい私は何を書いているんだ。

父は母と一緒に死んだはずだ。なのに、どうして今、目の前に父がいるような内容で日記を書いているんだ。
確かに料理の匂いもする。小さい頃に好きだったカレーの匂いだ。目の前で鍋が湯気を立てている。そうだ、間違いなく目の前で料理が、誰が料理を?
そこにいたのは、誰?

十月二十七日
昨日の夜から、ずっと寝れていない。
何も食べていないけれど、おなかも減らない。
胃の上を締め付けるような焦げ付いたカレーの匂いがキッチンからしてくる。でも、食べる気にも触れる気にもなれない。今ほど、コンロに付いていた自動消火機能を有難く思ったことはない。
どうして、私は何も覚えていない?
一日かけて、何年も書き続けてきた日記を読み直してみた。その中には山本がいた、姉貴がいた、小さい頃に死んだはずの母と父がいた。
なのに、私は誰一人として覚えていない。

まるで消えてしまった。

そうだ。皆、本当は居たんだ。でも、どうしてなのか消えてしまった。

分かっているのは、覚えていないのに確かに消えてしまったこと。

一人、また一人と消える。

じゃあ、次は私が

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黒い腕 2018年4月21日


事故や事件が起きたところに必ず現れるという、厄災を招く『黒い腕』。ふとしたことからその噂を調べだした彼は最期、あることに気が付くが……。

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「ふぅ」
 僕は椅子にもたれかかり、腕を横に振り回して伸びをする。その拍子に数枚の資料が机から落ちるが、どうせ認知心理学や色彩心理学関連の必要のない資料だ、無視しても良いだろう。そんな性格だからか、机の周りには大量に紙屑が散らばっているのだが。
「一体何なんだ、この『黒い腕』っていうのは」
 机上のマウスを掴み、ディスプレイに表示されるオカルト掲示板のスレッドをスクロールしていく。ホラーを取り扱う掲示板の特徴ともいうべき、黒い背景、赤い文字、読みにくいおどろおどろしいフォント。たまに、黒との対比を試みたのか白い文字や毒々しい感じを出したいのか紫の文字を使っているサイトもあるが、どちらにせよ購買意欲をそいでしまう暗色というのはマーケティング向きではない。
 意外にも、人間というのは色に左右されるのだ。プロパガンダに赤と黒が使われる理由や癒しを謳うものに青や緑が使われる理由はそういうところにある。
 と、いくらか頭の中で愚痴ったところで、僕はスレッドに目を通す。
 タイトルは『★あなたが体験した怖い話★壱壱話目』みたいな感じの奴で、良くある奴と言えば良くある奴……というよりは、定期的に立つスレの一つだ。
 とはいえ、その中に書き込まれた『黒い腕』というレスが僕をこんな風に家に閉じ込めている。事の発端は友人が「おい、これ見てみろよ」と言って僕に見せてきたのがこのレスで、何故か分からないが内容に惹かれてしまった僕は今、持ち前の好奇心と研究欲をいかんなく発揮しているというわけだ。
 概略はこうだ。書き込んだ主はある事故現場──その事故はガソリンスタンドにタンクローリーが突っ込んで死者12人負傷者34名を出した事故で、僕もニュースで見て覚えていた──の生存者だ。
 ガソリンスタンド前の歩道を歩いていた彼(彼女かもしれない)曰く、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込む前に、反対側の歩道に植わっている街路樹から黒い腕のようなものがぬるりと出ており、それに手招きされたのだそうだ。もちろん見間違いじゃないかと目をこすっていて見直したそうだが、やはり腕が手招きしていたらしく、興味を惹かれた彼は走る車の確認すら忘れて道路を横切った。
 そして無事反対側の歩道に着いて街路樹の裏を確認しようとした瞬間、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込み、爆発炎上。彼も負傷者の一人となった。
 彼の見解では、その『黒い腕』は事故現場に現れて事件を招いているのではないか、ということだ。とはいえ、初めの頃は他人のレスも付かず半ばネットの海に沈んでいた。
 しかし、つい一か月前くらいのことだ。同じような『黒い腕』を見たという人が現れた。その人は家が火事になる前に、窓の外から家の塀から突き出た『黒い腕』が手招きしているのが見えて、だれかと思い外に出たら給湯器から出火──原因は漏電だそうだ──家が全焼した。
 それからほぼ毎日、同じように『黒い腕』を見たという人が現れてレスが続々とついていき、今では独立したスレッドが建っている。とはいえ、独立したスレッドの方はというと、見た人間と見ていない人間の──いわば信じる者対信じない者の構図だ──宗教戦争の体を成しており、あまり具体的な話はされていないのだが。
 僕はスレには参加せず、主に元のスレに書き込まれた内容から「まずはその事件が本当に起きていたのか?」ということを探した。具体的には、ローカル紙からネットニュースまで該当しそうな事件を調べては、その事件が起きたかどうかの裏付けを取っていったのだ。
 さらにはその宗教戦争のおかげで、「みたことがある」という人のIPアドレスが何のカバーもされずに書き込まれていた。実はIPアドレスを使うとプロキシサーバーを経由していたりスマートフォンで書き込んだりしていない限りは、書き込んだ主の居住エリア──日本であればどこの都道府県に住んでいるか──が分かる。そこから書き込んだ主が同一人物かの判断をしていった。とくにこういうBBSでは、同一人物が別人に成りすましてそういう噂を作ることもあるからだ。
 当然、百近くあるすべてのレスを裏付けすることは叶わなかったものの、大体八十三のレスは事実確認が済み、内本当に起こったと思われるのは十五個。さらにその過程で、同じように『黒い腕』を見たというブログやSNSの書き込みも見つけて裏付けを行い、一割くらいの記事が本当と考えられるというのが分かった。
 そういうわけで認知心理学の端っこ1ピクセルを噛んでいる僕は、『黒い腕』が集団ヒステリーやフォークロアによる幻覚、便乗したジョークとは考えにくいという結論に至り、その正体を暴こうといろいろ探っているというわけだ。
 とはいえ、『黒い腕』という形に限らないのであれば、ああいう「事件の前に起こる前兆」的な何かはいくつも見つかる。死者が出る前の家に黒い煙が入っていった、リンカーン暗殺を予兆するかのような写真のノイズがある……などなど、玉石混交ではあるが。僕の見立てでは、『黒い腕』もそういうものの一つなのだろう。
 基本的に、科学者というのは幽霊や超常現象、神、死後の世界を信じない人が多く──アラン・チューリングは無神論者でありながら死後の生を信じていたそうだが──『心霊現象イコール似非科学』という数式が出来上がっている人も居る。とはいえ脳科学者や心理学者の一部には、一般的な意味での幽霊ではないものの心理学的・神経学的な意味での幽霊を信じている人が居る。
 そして、僕はどちらかといえば後者寄りの人間だ。
 僕はすっかり冷めたインスタントコーヒーに口をつけ、苦みより酸味が先行するその味に辟易しながら、また資料を探り始めた。

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 いったい誰に話しているのか分からないまま、長々と僕が徹夜している経緯を語ったあの夜から一週間後。あれから結局、調査は全く進んでいない。というよりは、家に資料といえるような資料が無くなってしまった。
 というわけで、今の僕は認知心理学や社会心理学──今はそっちの方面で仮説を立てられないかということを考えている──の本を借りるために図書館に行った帰りだ。
「これでだめなら、次は脳科学や神経科学あたりを漁ってみるか」
 そんなことを呟きながら、ガラス越しに賑わっているのが見えるスーパーマーケットの前を歩いていると、ガラスに反射した景色の中に何か黒いものが見えた。
 僕が目を向ける。すると、向かいにある月極駐車場の看板から黒い腕が出て、僕に手招きをしていた。
 思わず借りた本が入っているカバンを取り落とす。
「うそだろ?」
 目をこすってもう一度。紛れもなく、黒い腕が手招きしていた。
 その腕は良くホラー映画で描かれるような、煙っているように輪郭のはっきりしない腕ではなかった。周りから浮いてしまうほど輪郭がはっきりしており、動きも人間そっくりでおそろしく滑らかだ。一番近いのは、人間の腕にタールをぶちまけるか黒いペンキを塗りたくったものだろう。
 しかし、看板の下から下半身が出ていない。どんなに細い人間でも、看板を支える二本の支柱に体を隠すことはできないはずだ。
 だから、もし見ている光景が事実ならば。若しくは、遺伝子改変されたか傷を治すためにヤモリの体液を注射したヤモリ人間の存在を否定するのであれば。
──腕だけが看板から出ている……。
 どう考えてもあり得ない。僕が幻覚を見ているということでしか説明がつかないが、幻覚を見るようなものは摂取していないし、睡眠時間だって十二分にとっているし、そういうものを起こす要因は何一つないと自負している。 
 その時、腕が看板の裏に引っ込む。と、同時に妙に甲高いエンジン音が後ろから聞こえてきた。
 後ろを振り向くと、かなり大きなトラックが僕に向かってくるのが見えた。運転席には陸に上がったカニのごとく泡を吹いたドライバーが見える。かなりの速度だ。法定速度は軽々超えているだろうから、今から慌てて逃げたところで弾き飛ばされるのは避けられない。
 そういえば、人間は死ぬ寸前に生存本能が活性化して、死をもたらす状況から逃れるために頭をフル回転させるそうだ。
 だからなのか、僕には『黒い腕』の正体が分かった。いや、『黒い腕が厄災を起こす』という噂の正体が分かった。
 認知バイアスだ。
 あの黒い腕は死や災害をもたらすものではない。その状況に遭遇したことや防げなかったことから精神を守るため、無意識に「あれは厄災の腕だ」と考えたのだ。そうすれば、自分で自分を責める必要はなくなる。生物として当然の行為だ、誰も責められるものではない。
 だが、あの黒い腕、本当は──。

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ダブル【R-15】 2018年3月25日


魅力的な男に好意を寄せる女性。しかし男の裏の顔は凄惨を極める、恐ろしい顔だった……。

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【注意】この小説には過激な表現・暴力表現などが含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 大講堂に入ると、いつも通りあの人が前の方の席に座ってノートを開いているのが見えた。私だって来るのが遅いわけではないはずなのに、あの人はいつも私よりも早く椅子に座っている。
「おはよう」
 後ろから声をかけると彼が体を捻って私のほうに向きなおる。彼の低く、心に響くような「やあ、おはよう」という声が耳に届く。私はというと、そのなんともないやりとりがうれしくて、舞い上がるような気持ちを抑えながら彼の左隣の席に座った。
 あの人は群を抜いてかっこいいとも、アイドルのように整っているとも言えない。けれど、たくましい顔の骨格、ほんの少しだけ生やしている髭、少し縮れた髪の毛を軽くまとめただけの髪型。少し荒々しい感じを覚える外見は、やさしく開かれた目とすらりと伸びた鼻のおかげで中和し合い、とても魅力的だ。私の知り合いに見せたら、大抵の人がかっこいいというくらいには。
 いいところはそれだけじゃない。なにより気が利いて、やさしい人。自分でもくだらないと思うようなことを聞いても笑いながら教えてくれて、何度聞いても怒らない。あの人が彼氏だったら、毎日がとても楽しいだろう。
 ふと、彼の右隣の席に目を向ける。そこはいつも私の友人の指定席なのだけれど、まだ誰も座っていない。
 そういえば、昨日から彼女の姿を見ていない。よく授業をサボる子ではあったものの──そのせいでいつもノートを見せていた──二日連続でサボるというのはあまり見たことがなかった。あまりに続くようなら一度部屋を訪ねた方がいいかもしれない、そんなことをぼんやり考えていると、ドアを開けて教授が入ってきて教壇に荷物を置いた。
 あわててノートを開く。そして、先ほど考えていたことを頭の隅に追いやって、授業が始まるのを待った。
 
 空気が冷たい。空腹も相まって、宙づりになっている自分の裸体から冷たい空気へ、生きる気力が吸われていくような錯覚に陥る。
 金属パイプを挟むように縛られている両腕を、体重をかけて力いっぱい引っ張ってみる。手錠と金属がこすりあうけたたましい音こそ聞こえてくるものの、音が鳴るだけで外れそうもない。何回か繰り返していると、骨同士がこすれ合うような耳障りな音とともに手首から肩まで激痛が走った。
 痛みに耐えながら足を引っ張ってみるものの、なにか重いものが縛り付けられているらしく、何度か試してみたものの足は動きそうになかった。
 引っ張るのをやめて、叫んでみた。色々なものが混じってひどい悪臭の猿ぐつわと口に貼られたガムテープのせいでくぐもった、「誰か助けて!」という声は誰にも聞こえていないのか、暗く湿った地下室にくる人は誰もいない。
 その時だった。地下室のドアが開き、階段に光が差し込む。一抹の希望を胸に光へ目を向ける。ドアの前に立つ人影と地下室の闇が、光を縦に分割するかのように黒い仕切りを造っていた。
 精いっぱい叫んで、痛みを無視して何度かパイプを打ち鳴らす。人影が階段を下りる。電気がともり、乱雑な地下室の様相を映し出す。
 階段を下りてきたのはあの男だった。大学の同級生で、自分と仲がいいと思い込んでいた男。
 そうだ、一昨日のことだ。「家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」という誘いに乗らなければ、私はこんな目に合わなかった。あの時はデートの誘いに舞い上がっていたけれど、今は自分の不用心さに腹が立つ。
「たくましいな」
 男がぞっとするような低い声で私に話しかけながら、縛り付けられている私の前に立つ。タマを潰してやろうと足を振りかぶったけれど、動かないのを思い出した。
「あまり暴れないでくれ。掃除が大変なんだ」
 そういって男が近づいてくる。私がにらみつけると突然、不機嫌そうな顔になって腹を殴りつける。息が詰まるような感覚。少し遅れて、鈍くのしかかるような痛みが背筋からじわりじわりと体中へ広がる。空っぽの胃から出てきた胃液が舌の根にこびりついて唾液があふれ、猿ぐつわに染み込む。
 もう一発。男は私の目を見ない。容赦ない暴力が私を襲う。血の味が口に広がる。視界が暗くなる。
「おい、起きろよ」
 男が私の体を揺さぶる。けれど、闇に向かう流れに自分の体を横たえてしまいたかった。このまま目が覚めなければ、この地獄から逃げ出すことができるのに。闇に向かってしまえば、嫌な現実から逃げ出すことができるのに。
 私は自分の体を流れるままに任せようと、力を抜いた。
 その時、氷水を全身に浴びて一気に現実へ引き戻されたと同時に希望が打ち砕かれる。顔を上げると、目の前に空のバケツを持った男が立っていた。体を震えが駆け巡る。
「寝るんじゃねえ」
 空のバケツで私を殴りつける。頬に鋭い痛みが走る。
 男は顎の下に手を差し込み、項垂れている頭を持ち上げた。冷たい目をした男と目が合う。
「まだ、これからだからな」
 その顔は気味悪く笑っていた。

 翌日。いつも通りに購買で昼食のパンとコーヒーを買っていると、彼と彼の友人が言い争っているのが聞こえてきた。
 思わず耳をそばだてる。どうも、彼が友人へ貸したノートの内容がめちゃくちゃだったせいで、試験が散々だったらしい。
「お前のせいで試験に落ちたんだぞ、どうしてくれる」
 彼の友人が激しい口調で彼を責め立てる。すると、彼は微笑みながら「ノートをまともに取らなかったから悪いんだ。勉強ができなかった俺の身にもなってくれよ」と言い返す。
 その言葉が逆鱗に触れたらしく、彼の友人は「絶交だ」と叫びながら机を殴りつけて席を立ち、どこかへと行ってしまった。
 近寄ると、彼は私が手に持っていた袋を見て、先ほどと変わらない顔で「昼ご飯?」と尋ねる。
「うん。そこ、座っていい?」
 彼の友人が座っていた席を指さすと、彼は「いやいや、あいつが座った席なんて」と彼の隣を指さした。隣に座ると、彼は私を見ながら肩をすくめた。
「全く。ひどい言いがかりだとは思わないか?」
 きっと彼は先ほど話していたことを話しているのだろう。そう考えて、「そうかもしれないね」と答える。
「言われたからそうしただけで、見返りも何も求めなかったんだ。それに人間って、間違えるのが普通だろう? 間違えたことを責め立てられても、何もできないと思わないか?」
 彼の言うことも間違っていない。誰だって──私自身も含め──間違ってしまうものだし、彼が善意で貸したのだというのも事実だ。だからこそ、責められる筋合いはないということなのだろう。
 私が頷くと、彼は「わかってくれると思ったよ」と私の目を見る。まるで鋭い視線に射抜かれたような、身震いに近いぞわぞわする感覚が私の背筋を襲う。それは人の目を見てきて今まで体験したことのない、不思議な感覚だった。
 その時、彼がタイミング悪く腕時計に目を遣り、「あ、申し込みに行かないと」と椅子から立ち上がる。隣からいなくなってしまうという残念な気持ちを表に出さないようにしながら、「それじゃあ、またね」と声を絞り出した。
「じゃ。楽しんで」
 そういって、突然肩を軽く触る。不思議と、不快感はなかった。

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 もう、どうでもよくなってきた。震えもずいぶん前に止まってしまって、息をするのもつらくなってきた。今がいつなのかもわからない。誰か、お父さんかお母さんが、私を探し出してくれるだろうか。
 その時、顔に激痛が走る。
 落ち込んでいた意識がいきなり浮かび上がり、溺れかけた人が水面に顔を出した時のように、息を深く吸い込む。
「おい、まだ大丈夫だろ」
 あいつの声が聞こえる。顎の下に手を入れられて、顔が持ち上げられる。二度と見たくなかったあいつの顔が、目の前にあった。
「前は一日半も持たなかったんだ。お前なら、二日くらい持つだろ」
 腹にパンチが飛んでくる。もう染み込む余地もない猿ぐつわに胃液がまとわりついて、口の中を苦いような酸っぱいような味が満たす。もう、出てくる唾液は枯れていた。
「悲鳴は良かったが、体力がなあ……」わき腹に一撃を食らい、思わず息が詰まる。「そういえば、どんなふうに叫ぶんだ?」
 あいつが顎から手を外し、乱暴にガムテープを引き剥がして私の口に噛ませていた猿ぐつわを取りながら「うへえ、見ろよこれ」と嘲笑する。すかさず痛む腹に精一杯の力を込めて、助けを呼ぶために叫んだけれど、あいつはにやにや笑っていた。
「ここは空き家で近くに家はないんだ。誰も来ねえよ」またしても腹に一撃を食らい、制御できないうめき声が口から漏れ出す。「へえ、カエルのつぶれたような声だな」
 このままでは確実に私は死ぬ。そう思って反射的に足を動かそうとしたけれど、縛られているのを思い出す。ついでに吊るされているせいで、腕もまともに動かすことができないことも。
 なんとか働かない頭で考える。それで、一つだけ抵抗する方法を思いついた。
「本当根性あるよな」
 あいつがまた顎の下に手を入れようと手を伸ばす。
──今だ。
 あいつの手の動きをとらえ、私は首を伸ばして思いっきりかみついた。
 安っぽい牛肉のような筋張った食感と血の味が口の中に広がる。あいつの大きく開かれた口から悪魔のような悲鳴が聞こえてくる。
 脛を強か蹴りつけられ、痛みで手を口から放す。見ると、あいつの右手にはっきりとした歯型が刻まれていて、血が噛み跡から肘にかけて黒い筋を作っていた。
「この、クソアマ!」
 膝蹴りが脇腹にあたり、骨の折れる音が聞こえる。ほぼ同時に、今まで感じてきた痛みをすべて足したよりもひどいような痛みが体をかけぬけ、息ができなくなる。次いで左頬に拳が当たって、目の前に火花が飛んで視界が白む。
 ぼやけた頭をなんとか振る。その時、神経を焼くような痛みが左胸から広がって体中を駆け巡り、白んでいた視界が像を結ぶ。
 目を落とすと、裸の左胸にナイフが突き立っていて、その傷口からどくどくと赤黒い液体が噴き出していた。
 目が離せない。
「あ……ああ……」
 無意識に声が出た。
 血が噴き出す度に体温が失われ、命が流れ出すのを感じていた。
 それと同時に、私の意識もけずりとられていった。

 講堂に入ると、右手に包帯をした彼が授業の準備をしていた。
 おもわず早足になって、いつもの席に向かう。すると彼は、怪我しているのにもかかわらず「やあ、おはよう」と何もなかったかのように声をかけてくる。
「どうしたのその怪我?」
「ん?」彼が自分の右手を振る。「ああ、実家で飼っているペットに噛まれてね。全く、どこで躾を間違えたんだろうね」
 気が気でないまま席に座って「大丈夫なの?」と聞くと、彼は「心配しないでいいよ」と言って微笑んだ。
「そうならいいけど……」
「あ、そうだ」彼が思い出したように私のほうを見る。「今日の夜、暇かな?」
 突然変えられた話題に何とかついていこうと、頭の中を探る。特に予定はなかったはずだ。
「うん、特に何もないけど」
 そういうと、彼が珍しく首をかしげて私の目を見据えた。
「じゃあ、無理ならいいんだけどさ。家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」

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パラレル 2017年12月27日


待ち合わせ場所の駅で降りた彼は、目の前に広がる街並みに違和感を覚える。その街から出ようとする彼だが……?

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『──駅。左側のドアが開きます』
 僕は読んでいた小説を閉じてカバンに仕舞う。電車が止まると同時に僕は立ち上がり、今までいた見慣れた電車の床から、くすんだような灰色と黄色いラインが引かれている駅のホームに立ち位置を移す。ホームの柵の向こうに見える駅の前には、青色や黄色のライトがまぶしい、イルミネーションが見えた。
 電光掲示板に次の電車の到着時間が表示されているのが見える。19:24、ここは一時間に一本くらいしか電車が来ないようだった。僕は周りを見回して、改札につながる階段を見つけた。初めて降りる駅だと、勝手がわからなくて時たまこういうことがある。
 今日は久しぶりに会う友人と一緒に食事をするということで、友人曰く「今まで食ってきた中で一番うまい店」に近い、この駅に来ることになった。予定では友人が駅の西口で待っていてくれるそうだが、果たして遅刻癖のあるあの子が時間通りにいるのやら。
 そんなことを考えつつ改札を抜けて西口に降りると、案の定、友人の姿はなかった。
「やっぱりか」
 この時期にしては冷たい風が頬を切りつける。思わず、コートの襟をあげた。
 ふと違和感を覚えて、周りを見回す。
「あれ……? まだ、18時なのに」
 駅前にある明かりと言うと、目の前に広がるイルミネーションと街灯しかない。普通この時間帯なら、駅前にある飲食店なりコンビニエンスストアなり、別の明かりも見えるはずなのに。それに、街灯に照らされているほとんどの店のシャッターが閉まっていた。確かに日曜ではあるけれど、閉まるにはあまりにも早すぎる。
 駅の近くのコンビニを見ると、やはり電気が消えていた。近寄って営業時間を見ると、閉店の時間はAM 0:00。僕はいつもしているデジタル腕時計のバックライトをつける。そこに表示される時間は18:12。
「おかしいな……」
 停電だろうか? しかし、それなら街灯はついていないはずだ。イルミネーションだって消える。
 安物の時計だから時間がずれているのかもしれないと思い、スマートフォンの時計を見ると18:14と表示されていた。
 何かあって突然閉店したのだろうか? しかし、それなら張り紙くらいしておくだろう。
「どういうことだ……?」
 何とも言えない不安に襲われる。明らかに何かがおかしい。僕は友人に電話しようと、電話帳を開いて友人の電話番号をタップする。スマートフォンを耳に当てると、そこから聞こえるのは「ツーツーツー」という音だった。
──電話がつながらない……?
 もう一度かけなおす。
 ツーツーツー。
 もう一度。
 ツーツーツー。
 僕はスマートフォンを耳に当てたまま、電源ボタンを押す。手が震え始めたのは、寒さのせいじゃなかった。尋常じゃない寒気が背筋を撫でる。明らかに、今の状況はおかしい。第一、なぜ「おかけになった電話番号は~」とか「ただいま電話に出ることが~」とか「現在圏外で~」なんて文言が流れない? なぜ、通話終了ボタンを押したときの「ツーツーツー」なんだ?
 我を忘れそうになるのを必死で堪え、僕はスマートフォンをポケットにしまう。あることを思いついて、すぐさま取り出してマップアプリを起動した。
 まさか、現在営業時間の店全部が閉まっているわけはないはずだ。マップアプリを使えば、現在営業時間内の店をピンポイントで探せる。そこで固定電話でも借りれば、どこかにつながるはずだ。それにあと一時間もすれば、また帰りの電車が来る。友人には悪いが、この妙な空間から逃げ出すには約束を反故にしたっていい。あとで詫びを入れればいいだけの話だ。
 ともかく、今はこの状況から逃げること。
 僕は手早くマップアプリに営業時間中の店を探すように要求する。ほどなくして、いくつかの店にピンが立てられる。GPSをオンにして、僕は一番近い店に走った。
 
 荒い息のまま、僕は手近な電柱に片手をつけた。
「どこも開いてないなんて……」
 10か所は回った。総計すれば、5 kmくらいにはなるはずだ。なのに、どこもシャッターが閉まっていたりドアを開けようとしても鍵がかかっていたりして、開いていなかった。途中であった交番も電気がついていなかった。
 走ったせいで掻いた汗を、寒風が舐める。僕は首を数回振って、ディスプレイを眺めてみた。あと行っていない店はここから2 kmもある。でも、その店はこの地域でもよく見るスーパーマーケット・チェーンだ。開いている可能性は十分ある。
 行くべきか行かないべきか? 電車の時間まではあと30分。走れば、2 kmくらい15分もしないで着く。でも、もし間に合わなければ、僕はもう一時間この状況に取り残されることになる。
 その時、車のクラクションが前の方から聞こえてきた。見ると、ハイビームのヘッドライトが僕を照らし、思わず腕で目を覆う。小鹿のように固まってしまった僕の近くまでその車は来て、目の前で止まる。
「兄さん、大丈夫かい?」
 優しそうな声がする方を見ると、止まったのはタクシーのようだった。会社の表示やロゴがないあたり、個人営業だろう。運転手のおじさんがタクシーの運転席から身を乗り出し、僕の方を不安そうに見ていた。
 僕は初めて会った人を見て驚き半分嬉しさ半分のまま、上ずった声で運転手に訊ねた。
「すみません、ここは何処ですか?」
「ここが何処か? ここは──」この場所の地名を運転手は口にする。「──だよ。どうしたんだい?」
「なんで、この町はこんなに早いのに全部店が閉まっているんです?」
「え?」運転手が驚いたように周りを見回す。すこしして、合点がいったように頷いた。「……ともかく、君を駅に送ろう」
 そういえば、あまりの非現実さに友人の存在を忘れていた。もしかしたら、友人が駅で待っているかもしれない。電話がつながらない今の状態じゃ、本当にいるかどうかなんてわからないけれど。
「すいません、お願いできますか」
「もちろんだ」
 運転手が降りて、ドアを開ける。僕は後部座席に座ってシートベルトを着けた。ドアを閉めた運転手は運転席に戻り、シートベルトを締めてメーターを回しはじめた。
「じゃあ行くよ」
「お願いします」
 そういって、電気のついていない町をタクシーは進んでいった。
 少し走ったところで、運転手が興味深そうに聞いてきた。
「また、どうしたんだい。こんな街の中で一人なんて」
「それが──」
 僕はここに至る経緯を運転手に説明した。待ち合わせ場所に来たのは良いものの友人が居なかったこと、街に感じた違和感の正体のこと、友人への電話が通じなかったこと、なんとか連絡を取ろうと町中を徘徊していたこと。
 すべて聞いた運転手は頷いて、「そいつは大変だったねえ……でも、遭難したときはあまり下手に動き回らない方がいいんだよ」と教えてくれた。
「遭難?」
「そう。君の状況はまるで遭難じゃないか、未知の場所で外と連絡を取れずに彷徨うなんて、遭難以外の何物でもないよ」
 言われてみれば、確かにそうだ。まさか、街中でこんな風に遭難することになるとは思ってもみなかったが。
「遭難して、友人の肉を食った登山グループの話もあるし……下手に動くのは良くないよ。今回は私が君を拾えたからいいけれど、そうじゃなかったらどうなっていたか」
「そうですね……」
 駅のイルミネーションが見えてくる。タクシーは駅前のロータリーを回って、タクシー乗り場に車をつけた。

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 僕が料金を支払いながら──友人とはいつも割り勘でたまにおごるため、今日も余分にお金は持ってきていた──運転手にお礼を告げると、「そんな。君こそ大変そうだったからね、気にしないで良いよ」とほほ笑んだ。
 開いたドアから僕は降りる。ドアの側に立っていた運転手さんに、改めて僕はお礼を言った。
「運転手さんが拾ってくれないと、何してたかわかりませんし。ありがとうございました」
「いいんだよ。じゃあ、気を付けるんだよ」
 そういって、運転手さんはドアを閉めて運転席に座る。そして僕が見送る中、タクシーを駆って街の闇の中に消えていった。
 今の時間は19:18。帰りの電車に乗るにはちょうどいいくらいの時間だ。安心感からゆっくりと改札をくぐって駅のホームに降りると、いきなりスマートフォンのけたたましい着信音が鳴り響いた。
 あわててスマートフォンをポケットから取り出し、受信ボタンをスライドさせて耳に当てる。すると、電話越しでも分かるほどの喧騒と友人の苛ついたような声が耳をつんざいた。
「おい、どこにいんだよ」
 その言葉に苛立ち、「おまえこそどこにいるんだよ。こっちは一時間も待ち合わせ場所の西口に居たんだぞ」ととげとげしい口調で返す。
「はあ? そっくりそのままそのセリフを返すぞ、畜生。何度電話しても出やしねえし、やっとつながったと思ったら嫌味か?」
「なんだって? こっちだってな……」その時、嫌な考えが頭をよぎる。「おい、今何時だ」
 いきなりそんなことを聞かれた友人は、虚をつかれたように変な声を出す。それでも、「19:24だ」と答えた。
 僕も腕時計を見る。19:24、間違いない。なのに、電車はおろかアナウンスすらない。遅延の連絡もない。そういえば、駅員は何処に行った? なんでこんなに電話越しに喧騒が聞こえるのに、僕は誰一人としてすれ違わなかった?
 嫌な予感に包まれる。僕は恐る恐る、口に出したくないことを口に出した。
「なあ、お前今どこに居るんだ」
「はあ?」友人は怪訝な声で「──駅の西口だけど」と言った。

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2017年11月26日


極寒の中、娘の誕生日に向かった彼は川に架かる橋の上で酷い渋滞にはまる。だが、その橋は車の重みに耐えきれず……。

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 あの日は今でも覚えている。忘れようにも、忘れられないあの日のことを。
 私がこのことを綴る意味は治療の一種なのだそうだ。正直、効果があるのか懐疑的なのだが……カウンセラーが言うのだから、そうなのだろう。
 あれは寒い、寒い夜のことだった。身を切るような寒さ……いや、切られたのは身だけではなかったのだが──。

 厚い強化ガラスに阻まれても聞こえる、けたたましいクラクションがそこら中で鳴り響いていた。私は騒音と渋滞からくる苛立ち、約束に間に合わないのではないかと言う焦り、両方に苛まれて車のハンドルを指で叩いていたのを覚えている。
『──町では氷点下20℃を記録し、地元の水道局は水道管の凍結防止のために、水を流し続けることを推奨しています。また、電線への着氷により停電した地域への支援を行うと、政府は発表しました』
 ラジオからニュースが流れ、私はラジオの時計を見た。娘の誕生パーティまで、あと30分ほどしかない。この橋から家までは、運が良くても車で20分はかかるというのに。
「勘弁してくれよ……」
 ハンドルを叩くテンポが上がっていった。この橋がこんな風に渋滞するなんて珍しかった。ラジオ曰く、橋の出口で玉突き事故が起きて、その交通整理で渋滞しているとのことらしい。
「にしても、動かないな」
 回転する赤色灯がそこら中を赤く染め、私は車の暖房を強めた。
 その時、聞いたこともないような音が上から聞こえた。まるで──そんなことできる人間がいればの話だが──電線を両方から引っ張って、引きちぎったかのような音。
 風切り音。金属がひしゃげ、ガラスが飛び散る音。盗難警報。そして、悲鳴。
 シートに座ったまま、素早く辺りを見回した。
 すると、ドアミラーに信じられないものが見えた。自分の車からそう遠くないところに、何かに押しつぶされた銀色のセダンがあったのだ。それも押しつぶしたものは未だに左右に揺れている太い紐、橋を支える重要なケーブルの一本だった。
 その光景はあまりにも現実離れしていて、呆然と見つめるだけだった。
 また、あの引きちぎったような音が聞こえて音の方に目を向けると、黒いバンがケーブルとぶつかった勢いで高欄から飛び出したのが見えた。
『速報です。マーキュリーブリッジで、ケーブルが切れたという報告が入りました。近隣の住民及び橋の上にいる方は、すぐに退避してください。崩落の恐れがあります』
 ラジオから緊張したMCの声が聞こえ、それと同時に、またしてもケーブルが切れる音が聞こえた。
──逃げないと。
 そう思った私は先程とは打って変わって素早くドアを開け、出口に向かって走った。今思えば、娘のプレゼントを車の中に置きっぱなしだった。とはいえ、あの時はそんなことを考えている暇もなかったのだが。
 他の車から降りた人たちも出口に向かって走っていた。ある人は子供を抱きかかえながら、ある人は妻と思わしき女性の手を取りながら。
 橋の上は阿鼻叫喚の様相を呈していた。悲鳴がこだまし、ともかく逃げることだけが一番で、暗くてよく見えないものの所々に水たまりのような何かが見えた。
 その時、ケーブルの切れる音が連続して聞こえ、私の数メートル先の一団に直撃した。この時、出来れば一度も聞きたくなかった『ある音』を私の耳は初めて聞いた。
 その音と金属がひしゃげる音、悲鳴が入り混じって耳の中で反響し、私は吐き気を催して足を止めた。
 間髪入れず、後ろから悲鳴と車がぶつかり合う音が聞こえてきた。振り向くと、目を見開いて半狂乱になった中年の男が、SUVのハンドルを握り締めて渋滞の中を突き進んでいた。車のバンパーは見えず、ボンネットには赤黒くペイントがされ、凹んでいたように見えた。
 その車がほかの車にぶつかるたびに、また聞きたくもない音が耳に届き、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 すると、SUVの前方にあるアスファルトが、岩の割れるような音とともに盛り上がったのが見えた。だが、車はそれに気づかないのか間に合わなかったのか……真正面からぶつかった。空しくタイヤが空回りする音とともに、ぐるぐると回転しながら高欄から飛び出して闇に消えてしまった。
 その時、私の耳に「助けて」という声とガラスと叩くような音が聞こえたような気がした。
 辺りを見回すと、そう離れていないセダンの後部座席に娘と同じ年頃の少女が閉じ込められているのが見えた。そのセダンはいつの間にか切れていたケーブルに弾き飛ばされた自動車にぶつかられたようで、側面が凹んで彼女がいるドアの下には滴ってインクだまりが出来るほどべっとりと赤黒いペンキが塗られていた。
 駆け寄ると、彼女がリアガラスを平手でたたいていた。私はトランクルームのドアノブを引っ張ったが、びくともしなかった。ドアを開ける中の機構が壊れてしまったのだろう、これではガラスを割る以外に方法はない。
「少し待っていてくれ」
 以前、テレビで強化ガラスは尖ったもので割れると聞いたことがあった。私は崩落したアスファルトの近くへ走り、欲しいものをすぐに見つけた。少し大きめの、鋭く尖ったアスファルトの欠片だ。
 それを手に持ち、セダンに駆け寄り叫んだ。
「伏せてろ」
 リアガラスに尖った欠片をたたきつけた。二回叩いただけで、ガラスは砕け散った。
「出るんだ、急げ」
 彼女が手を伸ばす。私は手をしっかり握り、引きずり出した。二人が無様に橋の上に転がり落ちたが、私は橋の軋む音が少しずつひどくなる事の方が不安だった。この音が本格的に崩落する予兆なのは間違いないからだ。
 荒い息遣いのまま、彼女が途切れ途切れに「ありがとう、おじさん」と軋む音にかき消されそうなほど小さな声で呟く。私が頷くのも忘れて「立てるかい?」と早口で聞くと、彼女は頷いた。
「よし、早く逃げるんだ。時間がない」
「うん」
 彼女が立ち上がるのに手を貸し、二人で手を繋いだまま橋の出口に向かって走った。周りにはほとんど人がおらず、けたたましい盗難警報器の音と橋が軋んだりこすれたりする耳障りな音だけが響いていた。

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 しばらく走ってパトカーや救急車が止まっている出口が見えてきたころ、今まで聞いたことの無いような音が聞こえ、ふと足場が無くなったか自分の体が浮いたような感じに襲われた。空っぽの胃から胃液が口にせりあがってくるような──思えば、あの時はのどの渇きも忘れていた──感覚、陰嚢がせりあがるあの感覚、その二つに襲われた。何とか地に足をつけようと力を入れると、足が宙を切る。嫌な予感がして下を見ると、橋桁が斜めになっていた。
 振り向くと、橋は黒い水を湛えた極寒の地獄に餌を与える漏斗のように、川に落ちていた。
 橋桁に彼女と一緒にたたきつけられた。その衝撃で手を放してしまいそうになったが、私は彼女の手を放すわけにはいかなかった。橋の下に待ち構えているのは地獄だ。私の娘と同じような年頃のこの子を、地獄に送り込むわけにはいかなかった。
 悲鳴が聞こえて彼女の方を見ると、寒さのせいで突っ張っていた口の端が切れて、血がにじんでいた。背中がアスファルトとこすれ合うのを感じ、自分が少しずつ滑り落ちていると気づいて近くの車のホイールに指をかけたが、あの時は車も一緒に滑り落ちていたからなのだろう、いくら力を入れても私たちは滑り落ちていった。川まであと十何メートルもなかった。
 その時、橋桁にできた割れ目を見つけ、何とか手をかけた。これでようやっと、滑り落ちることはなくなった。殆ど時間を置かず、先ほどまでしがみついていた車は派手な水しぶきを上げて、川へと滑り落ちていった。
 だが、寒さと二人分の重さを支える疲労で、私の腕は悲鳴を上げ始めた。
 このままでは、そう時間もかからず二人で極寒の川に滑り込むことになるだろう。しかし手を放せば、もう片手を使って自分の体を持ち上げれば、助かるかもしれない。
 だが、彼女を殺すことになる。
 逡巡している間に、指が一本、また一本と私の意思を拒み始めたのを感じた。
 今動く指は二本だけ。もし不意に放してしまえば、息も吸えずに冷たい水の中に入ることになり、おぼれ死んでしまうと考えていたのを覚えている。
 私は覚悟を決め、彼女に向かって叫んだ。
「息を吸い込んで、止めるんだ」
 彼女が息を吸い込んで、口を閉じる。それを見て、私も同じように肺一杯に冷たい空気を吸い込んだ。その空気はあまりにも冷たく、喉が切れそうなほどだった。
 そして、私は力を抜いた。

 結局、私たちが警察のボートによって水から引き上げられたのは、二人して川に飛び込んでから15分後だったそうだ。私たちは低体温症をおこしていて、すぐさま救急搬送されて手当てを受けた。だが、手当の甲斐なく、彼女は助からなかった。彼女の体にとってはあまりにも冷たすぎる川の水は、彼女を地獄に引きずり込んでしまったのだった。
 今も彼女の最後の顔を、ポートフォリオを描けるくらい覚えている。しかし、彼女のあの顔を見ることはもうできないのだ。
 私を苛むものはまだある。回復してから、私は警察に簡単な事情聴取を受けた。そこで聞いたのは、彼女の親のことだった。
 警察が川の底を浚うと、老若男女問わない遺体とともに彼女の母親と思わしき遺体が出てきたそうだ。思わしきということはつまり、体の上半分が見わけもつかないほど潰れていたから、指紋で照合するのがやっとだったからだそうだ。
 たぶん、あのセダンについていたペンキは、彼女の母親の血だったのだろう。そして、ドアの前に付いていたということは、彼女を助けるためにドアを開けようとしたところを、ケーブルに襲われてしまったということなのだろう。
 次いで、父親のことも聞いた。父親は今から数年前に、病気で亡くなっていたのだそうだ。だから、彼女は母親しか身寄りがなかった。
 なのに、その母親が目の前で死んだ。
 彼女に聞くことはもうできない。だが、彼女は一体何を考えていたのだろうか。それを思うと、私は夜も眠れなくなってしまった。
 それに、私は結局彼女を救うことができなかった。娘と同じ年頃で将来の夢を抱いていたあの時に、彼女は命を奪われた。私にもう少し力があれば、彼女を救うことができたかもしれない。警察のボートが到着するまでしがみつけていれば、彼女は死ななかったかもしれない。
 かもしれない、かもしれない。可能性が私を苛む。苛んで苛んで、私はもうまともではいられなくなってしまった。
 妻や子供はそんな私を支えてくれる。けれど、私は二人を見るたびに、彼女とその母親のことを思い出してしまう。文字を紡ぐたび、目を動かすたびに、彼女の面影が私の目の前をよぎる。
 私は今もあの橋にいるのだ。つりさげているケーブルが切れて子供を殺した私が地獄に落ちるのは、何時になるのだろう。

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ループ 2017年8月18日


 見えないものが見えるようになった彼。それに恐怖し、彼はカウンセラーのもとへ相談に行くが……。

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 僕は最近見た映画に出てきた俳優に似ている初老のカウンセラーと、椅子に座って向かい合っていた。正確には、僕はソファに座っていたのだけれど。
「今日はどうされましたか?」
 カウンセラーが僕に問いかける。僕は意を決して、今まで体験したことを話すために口を開いた。
「変なものが……幻覚っていうんですか、そういうのが見えるんです」
「どのような幻覚ですか?」
「例えば、前を歩いていたはずの男性がいきなり消えてしまったり、首だけが空をふわふわと浮いていたり……おかしいですよね」
 カウンセラーはノートに筆を走らせる。
「その男性や首は、どのような姿ですか? 親戚の叔父さんやずいぶんあっていない祖父、若しくは亡くなってしまった曽祖父だとか」
 その質問に僕はびっくりした。親に言えば、「お祓いでも行ったら」と言われて蔑ろにされ、友人に言えば、「おかしいやつだ」と言われて距離を取られたというのに。
「あなたは私のことを疑わないんですか? こんな、変なことを言っているのに」
 彼はペンを置いて、首をかしげる。
「そうですね、少なくとも貴方には見えているが、私には見えていない。ということは、貴方の心の中にそのような何かがある、ということです。そして、私の仕事はそれと向き合えるように、貴方をサポートすることですから」
「そうでしたか……」僕は口にたまったつばを飲み込んだ。その言葉に救われたような気がした。「いえ、見たことのない人ばかりです」
 彼は頷き、何かを書きつける。
「では、最近読んだ小説や映画に、そのような登場人物が出てきたということはありませんか?」
 僕は首を振る。
「いえ、ありません。僕は洋画と洋書が好きですけど、出てくる幻覚はみんな日本人みたいな顔をしてますから」
「いつごろから見え始めましたか?」
「そうですね、つい最近まで一人暮らししてたんですけど、親から『帰ってこい』と言われたので、実家に帰ってきたあたりからですね」
 彼は首を傾げ、僕が一番して欲しくない質問をした。
「ご両親とは仲がいいですか?」
 僕は口をつぐむ。実は、親との仲は良くない。
 周りのみんなから「親と仲良くしないのは親不孝者」と言われ続けてきたけれど、どうやっても親と仲良くできなかった。子供のことはいつも成績のことで叱られてきたし、大学では「学費が高い」と常々言われ続けてきた。働き始めてからも、「金が足りない」と言われてきたから、給料の一部をいつも仕送りしてきた。
 それだけじゃない、もっとある。でも、思い出したくない。
「いえ……あまり」
 彼は頷き、またノートに書きこんだ。
「そうでしたか。家族構成をお聞きしても?」
「ええっと、母と父、あとは兄がいます。でも、高校生の頃に兄はどこかに行ったっきり、連絡が取れなくなってしまって」
「その時、貴方は何か思いましたか? 例えば、寂しいとか」
「いえ……兄との仲は良くなかったので、あまりそうは思いませんでした。むしろ、清々したというか、そんな感じです。でも、それから母と父は仲がもっと悪くなって……」僕は嫌な思い出を振り切るように、首を振った。「それからすぐ、僕は地方の私立大学に行って一人暮らしを始めたんです」
 彼は納得したように頷く。
「話は変わりますが、幻覚の中の『彼ら』は貴方に話しかけてくることがあるのでしょうか?」
「えっと、『君は悪くない』だとか『親がよくなかったんだ』だとか『ゆっくり生きるんだよ』だとか……ポジティブのことばかり、言ってくれるんです。でも、僕が目をそらすと、『彼ら』は居なくなってしまうんです」
「なるほど。子供のころに、そのような存在がいたことはありませんか? つらいときに励ましてくれるような存在です」
「いえ、いませんでした。友達もあんまり多くなかったですし、先生からも距離を取られていましたので」
「分かりました」彼はペンを置いた。「貴方はもしかしたら、虐待を受けていたのかもしれませんね」
 そう言われ、僕は驚いた。そんなこと、思ったこともないからだ。
「えっ?」
「この場合は心理的虐待というべきでしょう……常に叱られ、親同士の喧嘩を見せつけられる。それによって、貴方は自尊心を傷つけられながら、極度なストレスに晒されたのです」
 彼は座る姿勢を変え、僕を見据えた。
「ですから、そのような状況を改善できるようにしていきましょう。それで、きっと貴方にしか見えない『彼ら』は、また居なくなってしまうと思います」
 そんな希望に満ちた言葉を言われたことなんてない。僕は思わず、頭を下げた。
「ありがとうございます」久しぶりに笑ったせいで、ちょっとぎこちない笑顔になった。「治るかもしれないんですね」
「ええ、また来週、ここに来てください。もうすこし、いろいろ聞いてみないといけないことがありますので」
 僕は立ち上がって、改めて頭を下げた。
「もちろんです。ありがとうございました」
 彼もにっこりと笑う。僕も彼に笑い返した。

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「──で、患者の様子は?」
 私は看護師とともに、モニターを眺めていた。それは部屋につけられたカメラから、画像をリアルタイムで送ってくる。
 ここの精神病棟では、このように患者と医者が必要以上に触れないように配慮されている。というのも、ここに来る患者のほとんどに自閉傾向がみられ、自分の世界を壊されるのを嫌がるからだ。
 それに、医者側や看護師側も怪我するようなリスクが減る。尤も、彼は攻撃性がほとんどないどころか、調子のいいときは社交的なのだが。
「改善の様子はありませんね。彼、なんでしたっけ」
「妄想型統合失調症だ。投薬は続けているのか?」
「とりあえずは。ですが、目立った効果はありません」
 彼がモニターを指さす。
「面会用の椅子を自分の前に設置し、ベッドに座りながら、居もしないカウンセラーといつも話し続けています。で、話疲れたらそのままベッドに横になって、目が覚めたらまたカウンセラーと話しています」
 私はため息をついた。妄想型統合失調症は投薬の効果が出やすいはずなのに、彼は慢性化してしまった。唯一、暴れることがないのが幸いか。
「食事はしっかり出しているのか?」
「ええ。食べているときはまともというか……私も食べているときに彼と話をするんですが、とても思索的で知的です。よく、映画の話とかするんですけど」
 きっと、それが本当の彼だろう。だが、妄想型統合失調症を患った人格が、その彼を押さえつけてしまっている。
「食べているときはまともか……。解離性障害のせいだな」
「彼、治るんですかね?」
 看護師が問う。私は「わからん」と言って首を振った。
「どうして、ここに来たんでしたっけ?」
「他人の家に入り込んで、ここと同じことをやった。で、通報されて警察が来たんだが、この通りだから責任能力がないとみなされ、ここに来たんだ。まあ、椅子の配置が変わっていたくらいで、家もほとんど荒らされてなかったらしい」
「そうでしたか……」
 私はまたモニターを見る。彼は、椅子に向かって話し始めていた。
──彼は常に日常をループしている。彼の日常は、ここにしかないということか。
 声がスピーカーから流れる。私と看護師は、別の患者を診るために部屋を後にしようとドアに向かう。
『変なものが……幻覚っていうんですか、そういうのが見えるんです』
『例えば、前を歩いていたはずの男性がいきなり消えてしまったり、首だけが空をふわふわと浮いていたり……おかしいですよね』
『あなたは私のことを疑わないんですか? こんな、変なことを言っているのに』
 ドアを閉めるまで、彼の言葉は空虚な部屋に響き続け、部屋の中を巡り回っていた。

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