スパークリングホラー
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カムコーダー 2020年4月30日


通報のあった空き家へ向かった二人の警察官。中に入ると、テーブルの上には電源のついたカムコーダーだけが光を放っていたが……。

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 私は表面の塗装が剥げて、ボロボロになっているドアを叩く。玄関に敷かれたひび割れだらけのコンクリートの上に、木くずや塗装の粉がまき散らされた。明らかに管理もされていなければ人も住んでいない。
「随分ひどいありさまだな。本当にこんなところから通報があったのか」
 フラッシュライトを当てている同僚がそれを見て、苦々しい声を上げた。
「通報したのは携帯らしいから、度胸試しに来た不良どもだろ。全く、迷惑も良いところだ」
 ドアノブに手をかけ、ゆっくりとレバーを下げて奥へ押す。空き家なら鍵をかけているはずだが、こじ開けられたのかストライクが腐っているのか、耳障りな音を立てながらドアが開いた。
 同僚のフラッシュライトが室内を照らす。荒れに荒れた室内のところどころに、落書きやホームレスのものと思われる毛布が転がっていた。埃っぽい匂いと饐えた匂い、そして妙に甘ったるい匂いが鼻につく。壁際には使い捨ての針付きシリンジがいくつか捨てられているのが見えた。このタイプの注射器は薬物乱用者が刺さらなくなるまで使いまわすのだ。
「こいつはひでえな……」
 自分のフラッシュライトを手に持ち、スイッチを入れる。奥に歩いていくと、割れたガラスを踏んだ音が足元から聞こえた。
「気をつけろ、ガラスだ」
「了解」
 ライトを部屋の隅々まで向ける。元々は様々な部屋につながる廊下だったようだ。
「だれかいるのか?」
 同僚が奥に向けて叫ぶ。返事はない。
「怪我しているのかもな」
 返事できないほどの怪我であれば、一刻を争うかもしれない。軽く目配せをして、廊下の奥へと進んでいく。すると、耳障りなノイズ音が聞こえてきた。
「なんだ?」
「さあ……」
 音が聞こえる方へ歩いていくと、半開きになったドアから音が漏れていた。足で軽くドアを押すと、軋む音とともにドアが開く。大き目のテーブルにひび割れた食器、その中で死んでいる大きなネズミ……室内の様子から見て、どうも人が居たころはダイニングだったようだ。
 中に入ると、木が腐り始めてボロボロになっているテーブルの上に、場違いな真新しいカムコーダーが乗っていた。電源は入っており、開かれたままになっている液晶ビューワーは部屋の様子を写していた。
「このカムコーダー、最近出たモデルだな。中国製の安い奴だが」
 同僚がそう呟きながら、テーブルに近寄り、カムコーダーを手に取る。すると、「ん?」と声を上げる。
「どうした?」
「いや……これ、録画モードのままだ。誰かが録画していたのかもしれん」
 録画ボタンを押すと、録画が切れたことを知らせる電子音が鳴る。私は同僚の隣に立ち、ビューワーを覗き込んだ。
「再生してみよう」

 暗視モードのカメラに向かって自撮りしているのは、似合わない金髪をしたピアスだらけの男だ。そいつがニヤニヤと笑っていた。
「これから、地元で有名な心霊スポットにいきまぁーす!」
 素っ頓狂な間延びした声で男が叫ぶと、誰か別の人間の笑い声が聞こえる。男はカメラとは反対の手に持ったウォトカを一口飲んだ。どうも酔っぱらっているらしい。
 カメラがパンして、空き家のボロボロになったドアを映す。懐中電灯を持った別の男──似合わない髭を生やし、ジャラジャラとしたアクセサリーを身に着けているラッパー風の男──がドアを蹴り開ける。爆笑とドアがきしむ音。カメラはラッパー風の男とともに、空き家の中に入っていった。
 カメラを持っている男が「ホームレス居ねえかな。ボコボコにしたら楽しそうじゃね?」と呟いた。それを聞いたラッパー風の男がまた狂ったように笑い始める。
「今度、潰れたアマ連れてきてマワそうぜ」
「いいねえ」
 その時、二階から重々しい足音が聞こえてきた。カメラも二階へと至る階段を映した。
「誰かいるんじゃね、ボコろうぜ」
 ラッパー風の男がそういって、ひび割れの目立つ木の階段を上り始める。カメラも少し遅れて、男についていった。
 カメラが二階につくと、そこは屋根裏部屋のような部屋で、ラッパー風の男は何処にもいなかった。
「おい、ジャクソン、どこだ?」
 乱雑なものが積まれている部屋の何処かにいることを信じてなのか、カメラが部屋を隅々まで写す。すると、シミのあるマットレスが乗っているパイプベッドを写した時、カメラが動くのを止めた。
 カメラがベッドに近づく。手がフレームに写り、指でマットレスを押した。手がフレームアウトして、「なんだこれ、すげえ鉄くせえ」という呟きをマイクが拾う。おそらくカメラマンが指先の匂いを嗅いだのだろう。
 その時、うめき声が後ろから聞こえてきた。振り向くとそこには倒れている男の姿があった。カメラマンがブレるのも構わず走り寄ると、黒い液だまりの中にジャクソンと呼ばれた男が倒れていた。
「大丈夫か」
 そう声をかけるが、返事は返ってこない。
「うそだろ? 死んだのか?」
 後ずさるような音とともに、カメラが少しずつ動かない男から離れていく。そして 、轟音とともにカメラが床に落ちた。 叫び声。何かが飛び散る音。 けたたましい鳥のような鳴き声。
 しばらくして画面が落ち着いたとき、カメラには腐りかけてささくれだらけになった屋根裏部屋の床板だけが映し出されていた。

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「一体何があった」
 同僚がそう呟く。私にも理解ができなかった。しかし、もしかしたら今も二階にカムコーダーの持ち主がいるかもしれない。そうだとしたら、彼らは怪我をしている。一刻も早く病院に運ばなければいけないかもしれない。
「二階に行った方がいいとおもうが」
 私の提案に同僚が首を振る。
「まだ録画があるから、見てから決めよう。状況によっては、応援を呼んだ方がいいかもしれない。ヤク中相手に二人は危険だ」
「重症だったらどうする。もし、あの血だまりがどちらか一人の血液だったら、かなりの出血量だ」
「わかっちゃいるが……何がいるかわからないと危険すぎる」
 私は生唾を飲み込んで、拳銃を取り出す。必要になってほしくはないが、凶暴な相手なら撃たざるをえない。
 突然、ずっと床を映していたカメラは何者かに持ち上げられたかのように屋根裏部屋を映し始める。誰かが歩くような引きずるような音ともに、カメラは一階へとつながる階段へ向かって動き始めた。
「なんだ……?」
 軋む音ともに階段を下っていく。誰かに持ち運ばれているのは間違いないらしい。
「どこに行くんだ」
 同僚がそうつぶやくと、カメラは半開きのドアを映した。私たちがこの部屋でカメラを見つける前に開けた、あのドアだ。
「つまりこの部屋に誰かがいるということか……?」
 私のつぶやきにこたえるように、カメラは先ほど見たダイニングテーブルを映し、そこにレンズを入口に向けて置かれた。まるで出入りするものを監視するかのように。
 同僚と私は一緒に生唾を飲み込む。もしここにあの二人を襲ったやつがいるのなら、すぐに距離を取らなくては。ほどなくして遠くからドアの開く音が聞こえ、『だれかいるのか?』という声が聞こえてきた。
 背筋を冷たいものが走る。私は反射的に銃を構えながらフラッシュライトであたりを照らした。当然だが、誰も照らされる者はいない。居てたまるものか。
 半開きのドアが開き、私たち二人が映る。そしてカメラに気づいた同僚が持ち上げ、いくつかつぶやいたところで録画は止まっていた。
「……おい、まさか」
 ガタンと言う音が後ろから聞こえてくる。
 私たち二人は拳銃とフラッシュライトを構え、音のする方を照らした。
 そこには体中血だらけの髪の長い『誰か』がいた。
「手を頭の後ろで組め!」
 同僚が叫ぶ。
 その瞬間、『誰か』が同僚に飛びかかった。こんな状況じゃ、同僚に当たるかもしれないから銃も撃てない。
「離れろ、お前!」そいつの肩を掴んで引きはがそうとしたそのとき、そいつと目が合った。
 白目が充血しきったその目にあったのは、純然たる敵意だけだった。

【廃屋で四名死亡、殺人事件で捜査】
 フロリダ州ミニットマンヒル警察は郊外にある廃屋で四名の死体を発見したと公表した。ミニットマンヒル警察のニュースリリースによると、四名とも身体が酷く損壊しており、当局が来た時には既に失血多量で死亡していたという。現在、当局はタクティカルチームを編成し、殺人犯の捜索に当たっている。

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お悔やみ壁 2020年4月23日


街にあったコンクリート壁。そこに写実的な老人の顔が描かれていることに気づいた彼は、興味をそそられながら日々を過ごしていた。しかし、新聞を見た時にあることに気づいてしまう。

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 学校からの帰り道、ぼくの住んでいる団地の近くに顔の描かれている壁があることに気づいた。
──誰かの落書きかな?
 お世辞にもここら辺は治安が良いとは言えない。高架下は落書きだらけだし、近くの高校じゃ乱闘騒ぎがあったと聞く。だから今回もそういう類かと思ったけれど、顔だけ書いてあるというのも中々珍しい。
 近づいていくと、描かれていた顔はいずれも正面から描いた老人の顔だった。それもカラースプレーで描かれた極彩色の抽象的な顔じゃなくて、黒スプレーで描かれたデッサンのような顔だ。
「これかいた人、うまいなあ」
 美術部の友達が言っていたっけ、絵を描く中でもっとも難しくて基本となるのがデッサンだと。その言葉が正しければ、この絵を描いた人は相当に絵がうまい。まるで写真のような絵なのだ。
 描かれているのは4人。あまりにリアルだから、顔の共通点が老人ということ以外ないことが一発で分かった。
──でも、誰がこんなすごいものを描いたんだろう。
 路上で似顔絵師として働けばそれなりに稼げるくらいなのに、こんなちんけな町でストリートアートをしているなんて。その才能がもったいないくらいだ。
「あいつに聞けば、誰が描いたか分かるかな……」
 そんなことをつぶやきながらじろじろと壁を見ていると、近くにあるスピーカーから十七時半のメロディーが流れてくる。
「やべっ」
 もうすぐで門限だ、すぐに帰らないと。
 ぼくはスマートフォンで壁の写真を一枚だけ撮り、教科書の詰まったカバンを背負いなおして、家へと走った。

「──こんな上手い画家が居れば、私知ってるはずだけど」 
 そういいながら、彼は僕のスマートフォンを見つめる。彼に壁に描かれた絵の写真を見せると、スマートフォンをひったくられたのだ。
「あんまり弄らないでほしいんだけどな」
「なに、変なもんでも入ってるの」
 そういいながら、彼は写真を拡大したり縮小したりを繰り返している。何をしているのかは同じ美術部の人間しか知らないだろう。
「そういうものは保存しないようにしてるから」
「用心深いね」
 彼は満足したのか、ぼくにスマートフォンを返してきた。
「これを描いた人は相当に絵がうまい。あと、これはデッサンではないね」
「え? 違うの?」
 彼はスマートフォンの画面に定規を当てる。当てられているのは、鼻の下だ。
「これを見てどう思う?」
 そういわれても、絵の心得がない僕にはさっぱりだ。
「さあ……」
「鼻の下があまりにまっすぐなんだよ。人間の顔は曲面だから、現物を目の前にして描くデッサンだと少し曲げないといけない。でも、これはまっすぐだ」そういって定規を仕舞う。「これは写真模写だね。これを描いた人は本人を前にして描いてはいないはずだ」
「そんなことまで分かるの?」
「まあね。そうはいっても、絵がうまいことに変わりはないよ。でも、誰だろう? こんなことをするのは」
 彼は考えるかのように空を見る。僕はもう一度、壁の写真を見つめた。そういえば、この絵にはサインの一つもなかった。
「なんだか遺影みたいじゃない?」
 描かれている老人の顔は皆真顔だし、まるで生気がないかのように真正面を向いている。
「遺影か……確かに遺影を模写したら、こんな感じになるかもね」

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 久しぶりに本屋に行った帰り、僕はなんとなく気になってまたあの壁を見に行った。
 壁の周りには誰もいなくて、でも壁に描かれていた人の数は増えていた。4人から7人に。
「また誰かが?」
 やはり描かれている絵にサインはないし、彼の言う事が正しければ写真模写と言うやつなのだろう。
「本当に何のために、これを描いたんだろう……」
 ふと、僕は最近みた『X-ファイル』の一エピソードを思い出した。あれだと、壁に書かれた人間が夜な夜な飛び出してきて、ホームレスを虐げる人間を苦しめて回っていたっけ。
 もしかしたら、そういうような何かがこの壁にあるのだろうか。
「まさか、ね」
 僕はくだらない考えを振り払って、壁の近くにある自分の家へ歩き出した。

 休み時間に入ったことを告げるチャイムが鳴る。先生が壇上から居なくなり、ぼくは昨日買った小説を取り出した。レイ・ブラッドベリの『刺青の男』だ。昔から話には聞いていたけれど、読んだことがなかったから読んでみたかった一冊だ。
 プロローグを読み終えたところで、授業開始のチャイムが鳴る。僕は机の中に文庫本を滑り込ませ、あまり楽しくもない授業に耳だけ傾けた。
 頭の中は、あの壁も見つめ続けたら同じように話し出すのではないかという妄想で一杯だった。本物の人間のような顔なのだから、何か超常的な何かがあるかもしれない。そんなことを期待しながら。

 ぼくは帰り道にまたあの壁がある団地へ寄った。寄るというよりは、帰り道の途中にあるので通らざるをえないのだけれど。
 壁を見ると、また一人増えていた。しかし、ぼくはその顔を見て心底驚いた。
 そこに描かれていたのは近所に住んでいる佐藤さんだったのだから。
「なんで佐藤さんが?」
 そのとき、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。その音はぼくの方へ一直線に向かってくる。ほどなくしてあたりが赤い光で照らされた。サイレンを鳴らした救急車がぼくの隣を走り抜き、団地の前で停まる。ぼくの家のすぐそばだ。
 救急隊員が急いで降りてきて、ストレッチャーを引っ張り出す。二人が向かった先は佐藤さんの家だった。
──なんで佐藤さんの家に?
 僕は目の前で起きている一刻を争う戦いと佐藤さんが描かれている壁を交互に見る。
 おそらく佐藤さんが載せられているのであろうストレッチャーが救急車に吸い込まれ、ドアが閉まるとあっという間にいなくなった。
 そこに残されていたのは唖然としている僕と壁に描かれた八人の顔だけだった。

 翌日。
 僕は新聞のお悔やみ欄を眺めていた。もしかしたら、佐藤さんの名前があるのではないかと。
 果たして、佐藤さんの名前はそこにあった。救急車で運ばれた後、死亡確認がされたのだろう。
──もしかしたら、あの壁は……。
 僕の予想が正しければ、あの壁に描かれているのは近日中に死ぬ人の顔か死んだ人間だ。だからといって何ができるというわけでもないが、一度気になったことは何処までも気になってしまう。
 僕は新聞を投げ捨て、学校があるにも構わず家を飛び出した。
 団地の方へ走っていくと、あの壁は今も健在だった。そしてそこに描かれている人間は九人に増えていた。
「なんで……」
 九人目の顔は朝、いつも見ている顔だった。親を除けば、きっと誰よりも見ている顔だった。
「なんで、僕の顔が……」
 八人目までは全員老人なだけに、高校生である僕の顔が描かれているのがなんといっても異質だった。でも、それ以上に恐怖を掻き立てるのは僕がこの壁に対して建てた仮説が正しかった時のことだった。
「僕は死ぬのか……?」
 ふっ、と身体から力が抜ける。まさかこんな若くして死ぬなんて。そう思うと、ぼくは絶望感に押しつぶされてしまった。まだ死ぬ気はなかった、やりたいことだってやらなきゃいけないことだって沢山あったのに。
 どういう思考回路のつながり方をしたのだろうか。僕の頭に浮かんだのは親の事でも未来の事でもなく、いつも行っている学校の事だった。学校に何かがあるというわけでもないが、いつもこの時間に行っているから。
「……学校に行かなきゃ」
 僕は立ち上がり、最期の目的地へと歩き出した。

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VHS 2020年1月31日


彼が中古ショップで買ってきたVHSテープはパッケージと中身が違っていた。試しにそれを再生し始めた彼は、信じられないものを見ることになる。

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 ずっと観たかったものの古すぎて手に入れられなかった映画のビデオが、ようやく手に入った。まさか初めて行った中古ショップにこんなレアものがあるなんて。
──酒もよし、つまみもよし、楽しみだ。
 ワクワクしながらパッケージから取り出すと、出てきたのは『The Pogo’s Fun Time』というタイトルが色褪せたラベルに書かれているビデオだった。直訳すれば『ポゴの楽しい時間』となるだろうか。
「なんだこれ。こんなビデオ、買ったつもりないんだが……」
 返品するべきか? そう思いもしたが、もしかしたら掘り出し物かもしれない。それなりに界隈には詳しいつもりの私でも聞いたことのない作品だ。面白い作品やレアものだとしたら、それはそれで価値がある。
 とりあえずビデオデッキに差し込んでみよう。使い古したビデオデッキがガチャンという音を立てて謎のビデオを飲み込む。テレビの前に置いてあるソファに座り再生ボタンを押してみると、既に巻き戻されているようで青い楕円に黄色い文字のスタンリー・フィルムズという配給会社のロゴが再生された。
「見たことのない会社だな……」
 突然、へたくそなアコーディオンとラッパで演奏されたノイズ交じりの間延びした音楽が始まる。完全に不協和音が混じっているそれで、聞いていてぞわぞわと気分が悪くなってきた。
 照明が付いて壇上が照らされる。木製のステージが現れ、赤黒く皴のついたカーテンが壁にかかっていた。ステージの中央には、椅子に縛られた小太りの男が座っていた。履いているブリーフ以外は何も着ていない。
 青い目をした外国人風の男の黒髪はぼさぼさで、猿ぐつわを何とか動かそうと口をもごもごと動かしていた。照らされた体には玉の汗が光り、目はカメラの方を向いている。明らかに逃げようとしており、その視線はこちらに助けを求めていた。
「これは……?」
 醜悪なジョークだろうか。それともこういう始まり方をする映画なのだろうか。どちらにせよ、あまり笑えるようなものでもない。
 すると、ステージの袖からタップダンスをしながらこぼれるほどの笑顔を浮かべたピエロ、いやクラウンが出てきた。赤い髪と大きな口に白い顔のクラウンはサインポールのような赤・青・白の縦ストライプの入ったつなぎを着ている。
 クラウンは中央まで珍妙なステップで歩いていくと、男の後ろに立ってから一度飛び上がった。
『はぁい、みんな大好きポゴだよぉ! 元気にしてたかな!?』ポゴはボーイソプラノを思い出させるとても高い声でつづけた。『今日はゲストを2人お招きして、とぉぉっても楽しいことをしようと思うんだ!』
 そういえば吹替を選択していないのに、日本語で吹き替えられている。外国のものだと思っていたがそうではないのか、それともローカライズされているのだろうか。
『初めに、ここにいる大きなお友達に挨拶しよぉう!』ポゴは男の隣へ歩いていき、耳に手を当て体を傾ける。『はぁい、元気!?』
 男は何としても逃れようとしているかのように、ポゴとは逆のほうに首をかしげる。しかしポゴはそれが気に食わなかったようで、先ほどまで笑っていたポゴの顔が一気に真顔へと変わった。
『楽しくないじゃぁないか……せっかく楽しいことをしようと思ったのに』
 ポゴは体を傾けるのをやめ、つなぎの胸ポケットからベルトを取り出して男の首に巻き付けた。
「えっ、なんだこれ……」
『楽しんでくれないお友達にはたぁのしんでもらおう!』
 ポゴはまたにっこりと笑い、男の首に巻き付けた紐を力いっぱい引っ張り始めた。首を絞められた男は舌と目を飛び出させ、空気を求めるかのように体を震わせる。絞殺は締め方によって気道が潰されて苦しむか数秒で失神して苦しまずに逝くかのどっちかだと聞いたことがあるが、明らかにポゴは”楽しんでもらう”ためにあえて気道を潰すように締め上げていた。
『ほーぅら、友達もとっても楽しそうだよ』
 男の顔は充血して真っ赤に染まっており、目も飛び出んばかりに見開かれている。
 私はその光景を見て、いよいよ耐えられなくなってきた。確かにグロテスクなシーンは映画の中で描かれることもあるし、ある程度は慣れていると自負している。しかしそれは、シーンとして必要だとかプロット上必要だとかそういう理由があるからこそ受け入れられるのであって、こんな明らかに無意味なスナッフフィルムのようなものを見る気は毛頭ない。ただ不快で気味が悪いだけだ。
「捨てよう。こんなビデオ、見たくもない」
 ソファに座りながらリモコンの停止ボタンを押す。すると、首を絞めているポゴがケタケタと笑い始めた。
『人の死は止められないよぉ?』
 まるでそれは、私の行動が無意味であると暗に指し示しているようなセリフだった。その言葉が真実であるかのように、ビデオの再生が止まる様子もなく目の前にある画面にはすでに白目をむき口から泡を吐き出した紫色の顔をした男がぐったりとした様子でピクピク震えていた。何度押しても何度押しても、男は死へと歩みを止めず、ポゴは殺しと笑いをやめなかった。
「どうしてだ……?」
 椅子から立ち上がり、ビデオデッキに歩いていく。取り出しボタンを押してしまえば、さすがに再生も止まるだろう。
 しかし取り出しボタンを押してもビデオが排出されることはなく、ポゴを笑わせるだけだった。むしろテレビ画面に近づいたせいで、ポゴと死にゆく男の顔がより近く見える。男のほうは失禁しているようで椅子の下に水たまりを作っており、ポゴは私に言い聞かせるように『みぃんな、死からは逃れられないのさぁ』といった。
「こうなったらコンセントだ」
 ビデオデッキの裏に回ってテレビとビデオデッキのコンセントを抜く。あまり褒められたことではないのは知っているが、この状況じゃ仕方ない。
 抜いた瞬間、ブチンという電源の切れる音の代わりにポゴの高笑いが聞こえてきた。
『ざぁんねん! みんなの楽しい時間は邪魔させないよ』
 その言葉に私は背筋を筆で撫でられるかのように鳥肌が立つ。どうしてだ、なぜ電源が入っていないのに映画が止まらないのだ。
「くそ、どういうことなんだ」
 あとできることといえばこの家から逃げることだ。幸い、行く当てはいくつもある。すると、突然体の自由が利かなくなった。
『おっと、途中退出は演者のみんなに失礼じゃないか。最後まで見るのがマナーだよっ!』
 私の逃走本能とは相反するように、足は勝手にソファへと向かう。まるで自分の体がパペットとして扱われているかのようだ。ソファに座った私の体は縛られているように身動き一つとれなかった。
 そのころにはステージの上にいる男は体を震わせることもなく、水たまりの上で苦悶の表情を浮かべながらこと切れていた。私は思わず目を背けようと首に力を入れるが、瞬きすら自由にできない状況下では筋を違えて激痛が走っただけだった。
『ゲストの一人はもう退場! じゃあ、次のゲストを呼ぼうか!』
 そういいながらポゴは死んだ男を、椅子ごと奈落へと蹴り飛ばす。それに対して見ているのであろう観客たちは悲鳴を上げることも歓声を上げることもなかった。
 ポゴが私を指さす。『さあ、次のお友達だ! レェェェッツ、ファン!』
 突然目の前が真っ暗になる。テレビから流れてくる音や開けたはいいもののほとんど手を付けていないつまみの匂い、尻に触るはずのふわふわしたソファの感覚なども消えてしまった。まるで私が体を失ってしまったようだった。
 10分? 1時間? どれくらいの時間が流れただろうか。しばらくして、突然私は強烈な光に照らされた。思わず目を背け、腕で光を遮ろうとする。しかし首も腕もどちらも全くと言っていいほど動かなかった。それと同時に聴覚も戻ったようで、先ほどまで聞いていたへたくそなBGMがより大きな音で耳に届いた。
 匂いがする。公衆便所のようなアンモニアと血が混じった匂いだ。ふわりと生暖かい風が頬を撫でる。
「なんだ……」と言おうとしたその時、口に猿ぐつわがはまっていて声が出ないことに気が付いた。目も強烈な光に慣れてきたようで、体は動かないもののあたりを見回すことができた。
 そこはあのビデオに写っていたステージの上だった。体はなにやら拘束具のようなもので固定されているらしく、私は直立姿勢で顔からつま先まで板のようなものに固定されていた。
「たすけてくれ」という叫びも猿ぐつわに吸い込まれ、もごもごというほかない。拘束を解こうと暴れてみても、がっちりと固定されていて、一切体が動かない。私が今できることは、光景を余すことなく撮ろうとしているカメラのレンズを見つめるほかになかった。
「やあ! 2人目の、お友達だぁ!」
 ポゴの声がはっきりと後ろから聞こえる。見たくない、聞きたくないものがいよいよ私に迫ってきた。
「さぁさぁさぁ! 楽しもう!」
 ポゴの顔が私に接吻するかのように覆いかぶさる。粉っぽいセメントみたいな化粧品の匂いと血を飲み込んだかのような腐臭が鼻腔を満たし、ポゴの目に浮かんでいる獲物を逃がさんとする眼光に射すくめられた私は、ただ恐怖におののく以外にできなかった。

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増える! 2019年11月30日


突然彼を襲った、割れるような頭痛。その痛みと呼応するように聞こえる何者かの声。声が彼に告げる、「俺はお前だと」と……。作者もどう思いついたか覚えてない狂気の一編。

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 私は持っていたカップを取り落とす。中の飲み物がこぼれるのは嫌だなあ、そんなのんきなことを考えながら頭を抱えた。
 もとより頭痛持ちの私だが、今日のものはひと際きついものだった。まるで両目の奥にひびが入ってしまったかのようだ。
 ともかく頭痛薬でも飲んで横になれば楽になるだろう。そう思って救急箱を探すが、はてさてどこに仕舞っただろうか。
──箪笥のふたつめの引き出しにあるぞ。
 低く掠れている男の声が頭の中から響いてくる。その助言に従って引き出しを漁ってみると、本当に白い箱に緑色の十字が書いてある救急箱が見つかった。中にはしっかりと痛み止めが入っていた。
 探している間にも頭痛はひどくなっていく。台所に走っていき急いで薬を飲み下して、片づけるのが面倒で朝からひきっぱなしにしていた布団に転がり込んだ。
──薬なんて効かないぞ。
 先ほど聞こえたのと同じ声が頭の中に響いた。一体この声の主は何者なのだろうか。
「お前は何者だ」
 ふと浮かんだ問いを口に出す。その瞬間、痛みは両目の裏だけではなく、額の方にまで範囲を広げた。このまま行ったら、鼻梁からうなじまでひびが入り、頭がピスタチオのように割れてしまいそうだった。
──俺はお前だ。
 私の問いに頭の中の声は答える。
「どう言う事なんだ」
──もう少しで分かるさ。
 先ほどとは別の低い女声が聞こえてくる。同時に、幾人もの笑い声が頭の中で爆発した。気持ちの悪くなった私は、風邪か偏頭痛かが引き起こした幻覚だと思って目を閉じる。何とかして寝付こうとしたが、眠りは痛みに阻まれ続けた。
 それに頭もなんだかどんどんと重くなっていく。額が熱く、触れると腫れているようだった。その腫れは脈打ち、まるで生きているかのようだった。
「この痛みを止めてくれ」
──無理な相談だよ。
 そんな子供のような声。
──待てばよくなるわよ。
 頭痛に響く高い金切り声。
 薬が効いてよくなるどころか、締め付け骨を割るかのような痛みはひどくなり、吐き気も出てきた。痛みは額を超えて既に脳天にまで回っている。頭はまるでモヒカンのように肉が盛り上がり、脳みそが骨を突き破っているかのようだった。
 換気扇や外の車の音も頭蓋骨の中で反響する。視界にはバチバチと輝く火の粉が広がった。
 あまりの痛みに顔がゆがみ、「誰か助けてくれ」と思わずつぶやく。
──今すぐ楽にしてやるよ。
 最初に聞こえた声がまた脳内に響く。その瞬間、痛みは一気にうなじまで広がった。
 想像を絶する、ノミか斧かで頭を勝ち割られたかのような痛み。声にならない声で叫びながら、思わず上体を引き起こした。
 ビニール袋を引きちぎるようなぶちっという音と共に視界が真っ赤に染まり、頭の上から無くなりかけたマヨネーズを無理矢理出すかのような汚い水音が聞こえてきた。
 痛みは少しずつ引いていく。けれど、部屋の中は私のものなのかそれとも別の何かなのか、水音と共に赤く染まっていった。
 それからしばらくして、痛みが完全に引いて頭の重さや熱っぽさも無くなり赤く染まった視界が明るさを取り戻した頃。恐らく頭の上から吹き出した血か脳髄かが部屋をまんべんなく赤く染め上げた頃。
 私は何の気もなく、額を触る。額はVの字にぱっくりと割れていた。恐る恐る指をうなじの方へと滑らしていくと、額からうなじまで骨の断面を触ることが出来た。きっと見る人が見れば、私は今人間アケビだ。
 なぜ私は生きていられるのだろうか。そんなぼんやりとした疑問が、ない頭の中をめぐる。
「早く、早く救急車を……」
 幸運なことにスマートフォンは別の部屋にある。この赤い液体には濡れていないはずだから、今もまだ使えるはずだ。
 私は慌てて立ち上がる。
 その瞬間、視界から光が消え、身体から力が抜けた。

 俺は目を開けた。手を眼前に持っていき、光にかざした。人間の手だ。
 辺りを見回す。『あいつ』の目を通して視てきた古ぼけた和室に俺は寝転がっていた。辺りには神経質そうで髪に艶のない妙齢の女や初老の上品さが漂う女、あどけない表情を残した子供。当然だが、全員裸だ。
 部屋はいつも通り、血や脳髄になんて染まっていない。あえていうなら、部屋の中央で倒れている『あいつ』の頭から僅かに流れ出てきた血液が部屋の一部分を染めているくらいだろう。その血は俺たちが奪えなかった、そして少しだけ残っていた『あいつ』の部分だ。利用しようにも俺らとは一緒になれない以上、この部屋に残していくしかないだろう。
 俺は立ち上がり、タンスの中から四人分の適当な服と下着を見繕う。『あいつ』の頭の中にいたときは裸で済んでいたが、如何せんこれから人間社会で暮らしていくには裸だと不味い。人間になる以上人間のルールに従った方が良いだろう。
 女や子供も俺と似たような考えらしく、神経質そうな女は裸のまま『あいつ』が持っていた現金をきっちり四等分にしようと躍起になっているし、上品そうな女は俺たちがしばらく生活できるように荷物をポリ袋に纏めていた。子供の方はといえば、『あいつ』が夕飯にでも食べようとしていた昼の残り物を貪っていた。
 しばらく俺たちは各々のことをしながら──神経質そうな女から現金を受取ったり、子供から飯を分けてもらったり──外へ出る準備をしつづけた。
 日も暮れ、外が暗くなった頃。服を着て腹をある程度満たした俺らは、上品そうな女からそれぞれポリ袋を受取った。
「さあ、外に出ましょうか」
 神経質そうな女が特徴的な金切り声で俺たちを促す。俺たちは適当な靴を靴箱で見繕ってから、玄関ドアをくぐった。
 明るい街灯が俺たち四人の顔を照らす。この辺りは人も多くないから、『あいつ』が死んだことに気が付くのは何日も、もしかしたら何か月も先のことになるだろう。その間に身体を取り戻した俺たちは日常生活に溶け込んで、あいつの代わりに生き続けるのだ。
「じゃあ、またどこかで会おうよ」
 子供が踵を返して夜道を歩き始める。俺も女たちに背を向け、夜道を歩き始めた。

 三人と別れて最寄りの駅に向かう道すがら、俺の頭を激痛が襲う。思わず持っていたポリ袋を取り落とし、俺は「何なんだ一体……」と呟いた。まだこの世界に体が慣れていないのだろうか。
──お前一人だけだと思ったのか? 『あいつ』の中にいたのは。
 その言葉に答える様に頭の中から男の声が聞こえ、痛みは一気の脳天まで広がった。

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赤提灯 2019年11月29日


温泉街の路地裏に佇む一軒の古ぼけた居酒屋。ふとその居酒屋を訪れた彼は、『特選モツ一体盛り』という名前の料理を見つけて注文するが……。

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 涼しい夜風を浴びながら、私はぶらぶらと温泉街を歩いてた。橙色のナトリウムランプが辺りを照らし、色彩を失った町はまるで亡霊のようだ。
 なぜこんな場所にいるのかといえば、雑誌の懸賞に応募したところ幸運にも温泉宿の宿泊券を貰ったのがキッカケだ。それでなんとなく日常に疲れていた私はこれを好機と、有給を取って悠々とここに泊っている。
 とはいえ、あまり大きな温泉街でもなければ有名な所でもない。なんならシャッターが閉まっていたり壁面にツタが絡まっていたり、ここの住人も減っているようだ。そんな街に活気なんて求める訳にもいかず。夜になれば限られたコンビニやチェーン店はおろかスナックのような夜の娯楽を楽しめる所も閉まっている。
 チケットは二泊三日だが、消耗していたわけでもないので一日かそこら休めば大体回復する。そうなると色々とやりたいこともでてくるものだが、さっきのような事情もあり私は手持ち無沙汰になっていた。
 こういうときはいつもしないことをするに限る。
 夜に路地裏を歩くなんて不用心の極みだと思いながら、路地裏へと繋がるであろう道を歩いていく。碌な街灯もない路地裏には、ツタだらけになり窓ガラスの割れている家や苔むしたブロック塀が並んでいる。
──やはり表に面白そうなものがなければ、裏にも面白いものは無いか。
 当然といえば当然の帰結に落胆しながら表に戻ろうと踵を返したそのとき、目の端に何かが見えた。
 赤い提灯。こんな裏路地に居酒屋があるというのだろうか。
──もしかしたら隠れた名店かもしれない。
 そんなことを思いついた私は、光に惹かれる虫のように赤提灯に向かって歩を進めていた。

 小汚い暖簾をくぐり──いつぞや聞いた話だが暖簾が汚いほどその場所で長く続けている、つまり味がいいということだ──煤けた磨りガラス戸を開ける。中はさほど明るくないものの、小綺麗だった。土間に並んでいる背の高い木目のキレイな椅子やつやつやした一枚板のカウンター、戸棚の上に並んだ何本もの一升瓶など、なかなかに雰囲気がいい。
「いらっしゃい」
 法被を着たいかつい大将が無表情でカウンターの中に立っていた。私は大将の前に座り、ここはどんな店なのかと尋ねた。すると大将はなんでもある店だと答えた。
「じゃあ何を頼んでも大丈夫なのだね?」
「ええ。品切れになることはありません」
 大将は無表情のまま頷いた。
 とりあえず日本酒のぬる燗を頼んだ後、私はメニューを流し読む。基本的に肉を多く取り扱っているらしく、こういう居酒屋の割には魚介類を使ったメニューは多くないようだった。海鮮が少ないのは内陸の温泉街だからだろうか。
 注文した日本酒が私の前に置かれ、それをちびちびと飲みながら酒の当てを探し続ける。酒は温度も味もちょうどよく、注文する前に一合飲み干してしまいそうだった。
 しかし、これだけ上等な酒に合いそうな肴がなかなか見つからない。お品書きを閉じ、私は店内を軽く見渡す。こういう店ではたいてい、本日のおすすめがどこかに張り紙されているものだ。
 はたして、私の予想は当たったようで。入口のある左の壁に『本日のおすすめ品』と朱書きされたポスターが貼られている。そこには『特選モツ一体盛り』と書かれていた。おすすめ品でかつ特選だというその響き、上等な酒に合わないわけがないのだ。なにより私は自分が脂肪肝だろうと高脂血症だろうと気にしない、無類のモツ好きだからにして。
「大将、『特選モツ一体盛り』を一つ」
「はいよ」
 一合とっくりが空くころ、ようやく私の目の前にモツとタケノコの炒め物がやってきた。大将曰く、マメ(腎臓)とタケノコの炒めものだという。
 箸で赤黒い肉をつかんで口に入れる。ほとんど臭みを感じないどころかニンニクとショウガの香りが鼻腔を満たし、醤油の塩気やすりおろした玉ねぎの甘味と絡む。コリコリとした触感も乙なもので、火の通り具合も最高だった。
 もっと酒が欲しくなった私は燗酒をもう一本頼み、酒と肴を交互に口へと運ぶ。味が濃いわけでもないのに主張する味を酒で洗い流すのは最高だった。ああ、おいしい。
 あっという間に皿の中にあった中華風炒めは無くなっていく。
 ほとんどなくなりかけた時、次の逸品が運ばれてきた。
「焼きレバーです」
 食べやすいように並べられたレバーが平皿に乗ってやってくる。聞くと、臭みを十分に除いた後に塩焼きしたものだという。
 普通、臭みが強く油分もあまりないレバーを塩焼きにすると、よほど慎重にやらなければ臭いがきつくなるだけでなくパサついてしまって食べるのも一苦労になるのだが、なかなかどうして挑戦的なことをする。
 一切れ口に運んで驚いた。かみしめるほどに感じる脂と臭みのない純粋なまでのうまみ。今まで食べてきたレバーとは比べ物にならない。普通のレバーではないのは確実だ、フォアグラや白レバーのようにある程度脂肪が付いたものなのだろう。そんなものが出回っているなんて、知る由もなかった。
「本当に美味しいですな」
「自慢の一品です」
 しかしなんだか、酒がいい感じに回ってきた。いつもより酔いが早いように感じるのは、旨い肴を食べているせいで酒量が増えているからだろうか。その割には尿意をあまり感じないのだが。
 まあいい、まずは目の前にある旨いものを堪能しよう。
 掻き込むかのようにレバーの塩焼きを口に運ぶ。最後のひと切れとなったところで、大将は次の一品を持ってきた。鍋に入っているのはモツの味噌煮らしい。シロコロとヒモを一緒に煮込んだものだという。
 一切れ口に運ぶと味噌の匂いが鼻を通り抜け、かみしめるごとにべっとりとした快感が舌を覆う。もう一つ口に運ぶと、何度噛んでも噛み応えを失わないながらも脂が溢れ出てくる。そして唐辛子の辛みが、怒涛の脂とうま味にキレを持たせた。
 酒を日本酒から芋焼酎のロックに変える。こういう料理には強い酒の方がいい。
 芋焼酎の強い風味で口の中をリセットしてから、またモツを口に運ぶ。その繰り返しを続けていると、不意に腹の調子が悪くなってきた。まるで食べすぎたせいで使える腸の部分が少なくなってしまったかのようだ。
 それでも酒と肴を口に運ぶ。まるで憑りつかれてしまったかのようだったが、兎にも角にも美味しいのだ。酷さを増す酔いと体の不調なんて吹っ飛んでしまうほどに。
 鍋の中からモツと酒が無くなる。そのことに不安を覚えつつ、次の料理が待ち切れなくなってきた。
 目の前にトマトソースのようなものが出される。洋風の料理らしく、一緒にワインも供された。
 大将の説明も聞かずにフォークで具を突き刺し、口に運ぶ。ハラミとエリンギのトマトソース煮だ。柔らかいハラミの感触と歯切れのいいエリンギ。油分たっぷりのトマトソースが脂の少ないハラミを補い、強めのニンニクが相まって味が濃いだけではなくキレがある。
 ワインはあまり飲まないのもあって評価しにくいが、風味の強いこの料理に負けない香りと渋みを持ちながらも、味を必要以上に洗い流さない。とても料理に合うワインだった。
 食べれば食べるほど胃が圧迫されるようで──いつもならばこんなに食事を食べることはないのだ──呼吸が苦しくなってくるが、それでも食べることはやめられなかった。
 あっという間にトマトソース諸共、皿の上から料理が無くなる。その頃には酔いもいい感じに回ってきており、腹の不調のせいか息も上がってきていた。
 だとしても、食べることをやめられそうにない。美味しい料理を食べたいのだ。
「最期の料理です」
 そういって出されたのは、ハツの丸焼きだった。
 目の前で大将が心臓を切り刻み、食べやすい大きさにして供する。箸でひとかけら掴み、口に運ぶ。
 今まで食べた料理と比べるとあまりに不味い。ぱさぱさだし、ゴムみたいだし、食べるに値しないものだった。それでも、まるでマシンかのように私の腕は口に心臓のかけらを運び続ける。口は心臓をかみ砕き、飲み込み続けた。
 飲み込むごとに、自分の頭の働きが悪くなるかのように、ぼうっとしはじめた。でも食べたい。食べる、たべる、タベル……。
 最後のひとかけらを飲み込んだ時、大将がぼそりと「ごちそうさまでした」と呟いた。
 その瞬間、私はまるで自分の心臓があるべき空間が空になったかのような痛みに襲われ、小料理屋の床に倒れ込んだ。息が詰まり、考えることもできない。どうしようもない苦しみに耐えようと、必死で歯を食いしばる。
 大将がカウンターから身を乗り出し、私の苦しむさまを見ていた。その顔は入ってきたときとは全く逆で、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべていた。
 その笑みが目に焼き付けられたのを最後に、私の視界は真っ暗になった。

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ポストカード 2018年11月26日


ある日、郵便受けに入っていたのは、彼を被写体にした送り主不明のポストカード。初めは写真を見て懐かしんでいた彼だったが、あることに気が付いてから……。

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 週一回の買い物を終えて帰ってきた俺が荷物を置いてドアの裏側に付いている郵便受けを開けると、はがきが一枚滑り出てきた。
──なんだ?
 このご時世、はがきや手紙なんて送ってくる人が居るなんて。公共料金の領収書だとかダイレクトメールとかならわかるが。
 手に取って見ると、表には俺の住所と名前が綺麗な字で書かれていた。消印は昨日。文字の丸さから、なんとなく女性っぽい気がする。
 どこかでこの筆跡を見たことがあるような気もするが、どうにも思い出せない。さて、どこだったか。
「誰かに住所教えてたっけ……」
 女友達は居るものの、特に必要ないと思って住所は教えていない。唯一教えるとしたら彼女がいる場合だが、今の部屋を借りるようになってから彼女が出来たことはない。
 というよりは以前付き合っていた彼女の執着心や嫉妬心があまりに強すぎたせいでトラウマになってから、女性関係は持たないようにしている。その彼女とは俺が夜逃げする形で縁を切っているので、住所は知らないはずだ。
 とりあえず、裏を見よう。そう思ってひっくり返すと、半年ほど前に行われた河原でのバーベキュー大会──会社の部署ごとで開かれるレクリエーションという体で開催された──の写真だった。
 川原特有の丸い石が敷き詰められた地面と疎らな野草。そこに焼き台が横に三つ並んでおり、俺は中央の焼き台の近くでプラスチックコップに入ったビールを片手に、ぼけっと空を見ていた。周りにはほとんど人がおらず──確か肉が焼ける前だったので、誰もこっちに来ようとせずに俺が火の面倒を見ていたのだ──唯一、俺よりもカメラから離れた位置に立っていた同僚の佐藤がカメラの方を見ていた。しかし佐藤にはピントがあっていないので、被写体は俺らしい。
 多分、フレームの外では鈴木課長が女性社員をそばに侍らせ、他の男性社員がいそいそと面倒を見ているに違いない。ああいう上司にこびへつらうのが苦手な俺や佐藤は、二人寂しく賞与の値段を嘆きながら一緒に居る訳だが。
 まあ、そうは言いつつも懐かしい写真だ。課長のことが大嫌いというわけでもないし、レクリエーションのおかげで新入社員とも知り合えたし。
──しかし、誰が送ってきたんだ?
 裏にも表にも送り主の名前や住所は書かれていない。書かなくても届くものの、何かあったときのために大抵は書くものだと思うのだが。
 カードを指の間に挟んだまま廊下を歩き、キッチンを超えて居室に入る。机の前に置いた椅子に座ってから、机の上に電気スタンドをつけてもう一度、ポストカードを隅々まで確認してみた。
 やはり、何処にも送り主の名前や住所は書いていない。イニシャルや郵便番号すらも。
 何となく引っかかったものの、何か害があるというわけでもなさそうだ。もしかしたら、社員の誰かが撮った写真を、気を利かせて俺に送ってくれたのかもしれない。
 それでも手紙という手段を取るなんて、珍しいものだが。
「……まあ、いいか」
 俺はポストカードを机の引き出しに仕舞い、ストリーミングサービスで映画を観るためにラップトップを起動した。

 定時に仕事を終えてから──鈴木課長は苦手な上司ではあるものの、こういうルールに関しては厳しい人だから嫌いになれない──部屋に帰り、郵便受けを開ける。すると、またポストカードが滑り出てきた。
──このカードが来るのは一週間ぶりだな。
 今回も前と同じく、送り主の情報は一切ないようだ。裏を見ると、三か月くらい前にあった高校の同窓会の写真だった。今回も俺が主役になっているらしく、友達が中央にいる俺を取り囲んで笑っていた。
 ただ、この写真はおかしい。
──誰が撮ったんだ。
 生まれつき酒が強いおかげで、かなりの量を飲んでもそのときの状況をある程度思い出せる。
 だからこそ、確信を持って言える。あの時、誰も俺の写真を撮ってはいない。
 バーベキュー大会の時はカメラに気づかなかったのかもしれないが、室内であれば気づくはずだし、気づいていればそっちの方を見るはずだ。なのに、俺は笑ってはいるもののカメラの方を見ていない。
──流石におかしいぞ……。
 廊下を通ってワンルームに入り、シングルベッドに腰かける。消印を見ると、送り主はどうも近所のポストから俺に送っているらしい。というのも、書かれている郵便局の名前がここ一帯の集配郵便局だからだ。
 もちろん、逃げた身である俺に近所の知り合いなどいない。
──まさか……。
 俺はその考えを振り払う。まさか、あいつが俺を追ってこの町に来たわけではないだろう。何より、あいつは同窓会に参加していないのだ。あの写真を撮れるわけがない。
 とりあえず、こんなことを相談してまともに聞いてくれるのは佐藤だけだ。あいつは頭の回転も速いし冷静だ、なにか糸口を見つけてくれるかもしれない。
 俺は胃の上の辺りを掴まれるような感覚をこらえながら、佐藤にいくつか連絡を入れた。

 翌日。吐き気と頭痛、そして右手に持っていたウォッカの空瓶と共に目覚めた俺は、よろよろと立ち上がってトイレに行き、便器に顔を突っ込んで盛大に吐いた。
 吐きながら、昨日のことを思い出していた。あまりの恐怖と不快感で冷蔵庫に入れておいた缶チューハイでも酔いきれなかったため、足りない酒を近くのコンビニで買い足したのを最後に俺の記憶は飛んでいる。
 幾ら酒に強いと言え、近くに転がっているものから見て、缶チューハイ五本にウィスキーとウォッカをそれぞれ一本ずつ飲んだようだ。それだけ飲めば、こうもなるだろう。
 一頻り吐いて落ち着いてからシンクで口をゆすいで何杯か水を飲んだ後、若干の気持ち悪さを抱えつつスマートフォンを取りにワンルームに戻った俺は、ベッドの近くに転がっていた目覚まし時計を見て驚いた。
「やべ……」
 佐藤と約束した時間まで一時間とない。待ち合わせ場所まで行くのに、ここから五十分はかかるっていうのに。
──まともに身だしなみ整えている時間はなさそうだな。
 シンクへとんぼ返りして、片手で歯を磨きながらもう一方の手で櫛を掴み、髪を適当になでつける。髪を梳き終わったら歯ブラシの代わりにマウスウォッシュを口に含んで、顔を簡単に洗って干してあったバスタオルで顔を拭い、終わったら口からマウスウォッシュを吐き出す。
 近くにあった私服を着てから、今まで送られてきたポストカード含め必要なものだけ持って玄関に行くと、郵便受けに何か入っていた。
──嘘だろ……?
 郵便受けを開ける。
 ポストカードだ。手に取ると、いつも通り俺の住所と名前しか書いていない。裏を見ようとひっくり返そうとして、不意に思いとどまった。
──いや。これを見るのは、あいつに会ってからだ。
 そう思い直してカバンにポストカードを突っ込んでから、俺はドアを開けて──もちろんカギは忘れずに──駅に向かって走りだした。

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 ぎりぎり佐藤と時間通り落ち合うことが出来た俺は、近くのファミレスのボックス席に座って、それぞれ飲み物を注文した。
 落ち着いてから、こいつが口を開いて俺に尋ねた。
「……で、やばいポストカードが届いたって?」
「ついでに言うと、今日の朝も届いた」
「オーケー、整理しよう。送り主不明のポストカードが撮影者不明の写真付きで、お前のところに送られてくる、間違いは?」
「ない」
 俺たちが注文した飲み物がテーブルに届けられる。俺は吐き気もあって口をつけなかったが、こいつはコーヒーを一口飲んだ。
「今まで送られてきたカードは?」
 俺がカバンから二枚のポストカードを取り出して手渡すと、こいつが怪訝な顔をした。
「おかしいな。同窓会の方は分からないが、バーベキュー大会の写真はおかしい」
「そうなのか?」
「この写真が撮られたと思われる時間に俺が見てたのは川なんだよ。それに俺は酒が飲めないから、この時も素面だった」こいつが腕を組んで背もたれに寄りかかる。「断言できる。あの時、誰も俺たちを撮ってない。なんなら、あの時カメラを持ってたのは課長だけだ」
「……これもか」
「ああ。川の中から隠し撮りしてたってなら、辻褄も合いそうなものだが……まさか冷戦時代のスパイ映画でもないだろう」背もたれに寄りかかるのを止めたこいつが、テーブルに肘をついて俺を見る。「で、今日送られてきたカードってのは。見たのか?」
「時間がなくて見てない」
「見せろ」
 俺がカバンから今朝届いたポストカードを表にしてこいつに渡す。なんだか、裏にするのが怖かった。
 裏を見た瞬間、まるで血の気が引いたようにこいつの顔が青ざめる。どんなオプティミストでも、裏の写真が良くないものだってわかりそうなくらいに。
「……なんだったんだ」
 ポストカードを表にしてテーブルに置いたこいつが俺に尋ねてきた。
「お前、ストーカーされたことは。いや、ストーカーだってわからなくてもいい。元カノ以外に執着心や嫉妬心を向けられたことはないか」
「いや、そういう話は出来るだけ避けてきた。お前だって、俺がEカップで容姿端麗、社長令嬢の彼女がいるって嘘ついて、女性社員と女友達の興味逸らしてるの知ってるだろう。第一、出会い系にすら登録してないってのに」
「だよな……」こいつが歯をぎりぎりと鳴らす。歯ぎしりするのは、無理難題に直面したときの癖だ。「じゃあ、元カノか……いや、まさかな」
 サアッという血の引く音が耳の中で聞こえ、心臓が早鐘を打つ。
──まさか、本当にあいつが?
「どういうことなんだ」
 こいつがポストカードを裏返す。
 その写真を見て、目を見開いた。俺と女友達が並んで歩いているのを後ろから撮った写真。街の景色から見て、二カ月ほど前のことで間違いない。女友達が彼氏に買うプレゼントを選んでほしいということだったので、買い物に付き合ったときの写真だ。
 そこまではいい。
 問題は、女友達の頭だけが白く、ぐちゃぐちゃに塗られていることだった。
「なんだこれ……なんでこんな風に塗られて……」
「塗ったわけじゃない」こいつが首を横に振る。「釘か画鋲かはわからないが……引っ掻いた跡なんだよ。見えてるのは紙だ、インクじゃない」
 その言葉を聞いた途端、背筋に寒気が走る。
「高橋、良いか。もっとやばいこと言うぞ」
「お、おう……」
「お前から相談受けた後、なんだか気になってお前の元カノのことを調べた。名前も居た町も教えてもらってたしな」こいつが生唾を飲み込む。「彼女、死んでる。自殺だ」
「はあっ!?」
 思わず大声を上げるが、こいつは青ざめた顔のままスマートフォンの画面を俺につきつけてきた。半年ほど前のニュース記事だ。俺がちょうど夜逃げした後の辺りの。
「──川で26歳女性遺体発見、入水自殺か」何度も何度も読み返してみても、そのニュース記事は間違いなく前の彼女のことを指していた。「嘘だろ……」
 残酷だとは思うものの、帰るのが遅くなると包丁で刺して来たり女性用芳香剤の匂いがすると首を絞めてきたりしてきた彼女だっただけに、悲しみはなかった。それよりも犯人がだれか分からないという不気味さとそんな相手につけ狙われているという恐怖が、いよいよもって輪郭を持ち始めた。
 佐藤がスマートフォンをしまう。
「その川、俺たちがバーベキュー大会した川だが……それはいい。だからな、アングル云々の前に、元カノから送られてくること自体が有り得ない」こいつが舌打ちをする。「こうなると相手がわからない以上、警察や弁護士に言っても限界がある。俺の知り合いに探偵が居るから、そいつに頼もう。それで犯人を見つけてもらって、弁護士を雇って法廷で戦うしかない」
 こんな風に具体的なアドバイスをくれる人間なんて、そうそう居ない。
──やっぱり、こいつに相談してよかった。
 誰か頼りにできる人間がいるというだけで、気分が随分楽になる。相手が誰か分からないだけに、仲間が多い方が良い。
「分かった」
「お前の電話番号とかを知り合いに教えることになるが、良いな?」
「ああ」
「よし。多分、明日あたりその知り合いから電話が掛かってくるはずだ。もちろん俺からも話はしておくが、お前からも説明してやってくれ」
 この奇妙な事件はまだ解決していないが、展望が開けてきた事に安心して、俺は胸をなでおろす。
「ありがとうな」
 こいつがコーヒーを飲み干してから、力強く頷いた。
「友達のためだ。やれることはする」

 しばらく佐藤と他愛もない話をしてから、俺は帰路についた。これから先、どうなるかわからないとはいえ、前よりは希望が持てそうだ。とりあえず解決したら、また引っ越した方がいいかもしれない。
 部屋に帰ってドアの鍵を閉めた、そのときだった。
 カコン。
 軽いものが金属に当たる音が、郵便受けの方から聞こえる。それと同時に、尾てい骨から首までを人差し指で撫でられるような、肌が粟立つ感覚に襲われた。
──どういうことだ。
 震える手で郵便受けを開ける。中に入っていたのは、一枚のポストカード。
 消印なし、住所なし。
 あるのは赤茶けたインクで大きく乱雑に書かれた俺の名前だけ。
 恐る恐る裏を見ると、俺たちのいたファミレスを通りの向こうから撮影した写真。そこには窓際の席に座っている佐藤と、ぐちゃぐちゃに引っ掻かれて跡形もなくなっている俺『らしき』姿が写っていた。
──あいつが……? 死んだってニュースで……。
 思わずポストカードを取り落とす。恐怖と驚きで喉が詰まって、上手に息ができない。
 投入口から、もう一枚ポストカードがいれられて、開いたままの郵便受けに落ちる。
 そのポストカードは初めて、表向きではなくて裏向きだった。
 写真は、俺が青ざめた顔でポストカードを持っている姿。アングルから見て、廊下に立っている撮影者が、玄関に立っている俺を撮影していた。
 思わず振り返る。もちろん、廊下には誰もいない。鍵をかけているはずのこの部屋に、いるわけがない。
「は、はは……」
 引きつったような笑い声が俺の喉から聞こえる。
 そのとき、あることを思い出した。
──初めてポストカードが届いた日、前の彼女の誕生日だったっけ……。それにポストカード集めるのが、趣味だったよな……。
 ふと後ろから聞き慣れた、そして二度と聞きたくなかった女の声が聞こえてきた。
「忘れないでって、言ったでしょう?」

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消える。 2018年10月28日


日記に書かれていたのは、いないはずの友人の言葉。その言葉が書かれた日から、日記の内容と現実が乖離していく……。

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十月二十日
今日は妙なことがあった。
同僚で友人の山本と一緒に帰っていたときのことだ。今朝から体調が悪いと言っていたあいつが青い顔で突然、「俺が消えても、お前は覚えていてくれるよな?」と私に言ったのだ。
そんな質問をされて困惑した私が「闇金から金でも借りて首が回らなくなったのか」と聞くと、「そうではない」と返ってくる。じゃあなんだ、と聞くとあいつは言い淀んで目を泳がしていた。
何でもかんでもむやみやたらに言い切るあいつが、こんな姿を見せるなんて相当なことだ。だが、言いにくいことを無理やり言わせるのは私の良心に反する。
とりあえず、その場を収めるために「わかった、お前のことは日記に書いておくから」と約束すると、あいつは安心したかのように胸をなでおろしていた。
それでこの話は終わりなのだが……はてさて、何事も茶化しては顰蹙を買うあいつの口をあんな風に動かすとは。一体、何があったというのだろうか。

十月二十一日
今日は特に何かあったというわけではないけれど、一つ気になることがある。
昨日の日記に書いてあった山本とは一体誰だ。友人に山田や山村は居るが、山本なんて一人もいない。
とはいえ、『言いにくいことを無理に聞き出すのが良心に反する』というのは確かに私が常日頃から思っていることだし、日記のテンプレートも筆跡も間違いなく私のものだ。
誰かが私の日記を盗んで書いた、そんなことはあり得ないだろう。何より、わざわざこんないたずらをする酔狂がいるものか。うちの姉貴でさえ、こんなことはしないというのに。
兎にも角にも、書くとき以外は金庫に入れておけば誰も手は出せないはずだ。

十月二十二日
今日は私の部屋を間借りしている姉貴の誕生日だ。
昨日気づいた山本の存在が胸に引っかかっていた私は、今日の昼になるまでそのことをすっかりと忘れていた(気づいたのはスケジュール帳に書いてあったからだ)。
とりあえず夜勤明けの姉貴に連絡を入れると、新しい化粧品が欲しいらしい。とはいえ、いつも百円ショップの化粧品で適当に化粧をしている私では、何処にあるのか見当もつかない。そういうことなので、どこで買えるのかと聞くと私の職場の近くだということだ。
ということなので化粧品を買って家に帰ると、姉貴は喜んでくれたようだった。ああいう姿を見ると、送った側も嬉しいものだ。

十月二十三日
まただ。
おかしい。
存在しないはずの山本に次いで、私は一人っ子のはずなのに。
姉貴とは誰だ。遠方に住んでいる両親に聞いてみても、私は間違いなく一人っ子だった。実家から持ってきた何枚かの写真に写っているのは、父と母と私だけだ。
金庫には間違い無く入れている。それどころか、この部屋に住んでいるのは私だけのはず。
空き巣に入られたか? いや、そんな馬鹿な。鍵を壊された形跡も部屋を荒らされた形跡もない。
それとも存在しない姉貴に書かれたか? それこそ愚にもつかない考えだ。存在しないのに、どうやって書くというのか。
なにより、やはり筆跡は私のもので間違いない。同じ内容をトレーシングペーパーに書いて重ねて見ても、筆跡から字間まで殆ど同じだ。
どういうことだ。一体、私に何が起きているんだ。

十月二十四日
昨日、久しぶりに連絡を入れたからなのか、母が心配して電話をかけてきた。
とはいえ、遠方に住んでいる母を無為に不安にさせたくない。それで、「ちょっと飲み会の席で家族関係についての話になったんだ」と嘘をついてみたものの、勘の鋭い母には通用しないようだった。
仕方なくここ数日見つけた存在しない人の話をしたところ、似たような話を母も聞いたことがあるというのだ。尤も母が言うには所有者不明の日記の話だそうで、今はもう亡くなったひいおばあちゃんからずいぶん昔に聞いて、細部はほとんど覚えていないとのことだった。
けれど、日記の内容は友人や家族のような周りの人間がどんどんいなくなっていくという内容で──もちろん書いた人は両親を除き、彼らのことを覚えていない──最終的には、自分が消えることを悟った日付で日記が終わっていた。そしてその日記は、誰も住んでいないはずの団地の、空き部屋から見つかったそうだ。
怖がらせるつもりは無いと言っていたけれど、私はどうにも母の話が気になってしまう。
その書いた人、まるで今の私みたいじゃないか。
とりあえず、母からは「無理して働くんじゃないよ」とは釘を刺されたが……まさか、いつか私まで消えてしまうのか?

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十月二十五日
狂ったのは私か?
それとも世界の方が狂ったか?
母は私が小さい頃に事故で死んだはずだ。なのに、なぜ昨日の日付で、母と、話しているんだ。
あり得ない。私は荒唐無稽なタイムトラベル物の主人公じゃないんだぞ。どういうことなんだ、なんで母が生きているかのように日記が書かれているんだ。
何度も電話をかけて、父にも確認した。やっぱり、母は私が小さい頃に死んでいる。二人が二人して間違えるなんて有り得ない。
意味が分からない。訳が分からない。誰か教えてくれ。

十月二十六日
遠方で独り暮らしをしていた父親が私のもとを訪ねてきた。突然の事だったから、どうしてと聞くと、昨日の私の様子があまりにもおかしかったものだから不安になって見に来たというのだ。
父は「家事は全部やるから、お前はゆっくり休みなさい。仕事も休んでいいから」と言ってくれて、今はキッチンで夕食を作ってくれている。
私は父に全部を任せて、日記を書いている。まだ日は沈んでいないけれど、書けることは書いてしまえ。
残りはまた寝る前に

いったい私は何を書いているんだ。

父は母と一緒に死んだはずだ。なのに、どうして今、目の前に父がいるような内容で日記を書いているんだ。
確かに料理の匂いもする。小さい頃に好きだったカレーの匂いだ。目の前で鍋が湯気を立てている。そうだ、間違いなく目の前で料理が、誰が料理を?
そこにいたのは、誰?

十月二十七日
昨日の夜から、ずっと寝れていない。
何も食べていないけれど、おなかも減らない。
胃の上を締め付けるような焦げ付いたカレーの匂いがキッチンからしてくる。でも、食べる気にも触れる気にもなれない。今ほど、コンロに付いていた自動消火機能を有難く思ったことはない。
どうして、私は何も覚えていない?
一日かけて、何年も書き続けてきた日記を読み直してみた。その中には山本がいた、姉貴がいた、小さい頃に死んだはずの母と父がいた。
なのに、私は誰一人として覚えていない。

まるで消えてしまった。

そうだ。皆、本当は居たんだ。でも、どうしてなのか消えてしまった。

分かっているのは、覚えていないのに確かに消えてしまったこと。

一人、また一人と消える。

じゃあ、次は私が

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黒い腕 2018年4月21日


事故や事件が起きたところに必ず現れるという、厄災を招く『黒い腕』。ふとしたことからその噂を調べだした彼は最期、あることに気が付くが……。

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「ふぅ」
 僕は椅子にもたれかかり、腕を横に振り回して伸びをする。その拍子に数枚の資料が机から落ちるが、どうせ認知心理学や色彩心理学関連の必要のない資料だ、無視しても良いだろう。そんな性格だからか、机の周りには大量に紙屑が散らばっているのだが。
「一体何なんだ、この『黒い腕』っていうのは」
 机上のマウスを掴み、ディスプレイに表示されるオカルト掲示板のスレッドをスクロールしていく。ホラーを取り扱う掲示板の特徴ともいうべき、黒い背景、赤い文字、読みにくいおどろおどろしいフォント。たまに、黒との対比を試みたのか白い文字や毒々しい感じを出したいのか紫の文字を使っているサイトもあるが、どちらにせよ購買意欲をそいでしまう暗色というのはマーケティング向きではない。
 意外にも、人間というのは色に左右されるのだ。プロパガンダに赤と黒が使われる理由や癒しを謳うものに青や緑が使われる理由はそういうところにある。
 と、いくらか頭の中で愚痴ったところで、僕はスレッドに目を通す。
 タイトルは『★あなたが体験した怖い話★壱壱話目』みたいな感じの奴で、良くある奴と言えば良くある奴……というよりは、定期的に立つスレの一つだ。
 とはいえ、その中に書き込まれた『黒い腕』というレスが僕をこんな風に家に閉じ込めている。事の発端は友人が「おい、これ見てみろよ」と言って僕に見せてきたのがこのレスで、何故か分からないが内容に惹かれてしまった僕は今、持ち前の好奇心と研究欲をいかんなく発揮しているというわけだ。
 概略はこうだ。書き込んだ主はある事故現場──その事故はガソリンスタンドにタンクローリーが突っ込んで死者12人負傷者34名を出した事故で、僕もニュースで見て覚えていた──の生存者だ。
 ガソリンスタンド前の歩道を歩いていた彼(彼女かもしれない)曰く、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込む前に、反対側の歩道に植わっている街路樹から黒い腕のようなものがぬるりと出ており、それに手招きされたのだそうだ。もちろん見間違いじゃないかと目をこすっていて見直したそうだが、やはり腕が手招きしていたらしく、興味を惹かれた彼は走る車の確認すら忘れて道路を横切った。
 そして無事反対側の歩道に着いて街路樹の裏を確認しようとした瞬間、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込み、爆発炎上。彼も負傷者の一人となった。
 彼の見解では、その『黒い腕』は事故現場に現れて事件を招いているのではないか、ということだ。とはいえ、初めの頃は他人のレスも付かず半ばネットの海に沈んでいた。
 しかし、つい一か月前くらいのことだ。同じような『黒い腕』を見たという人が現れた。その人は家が火事になる前に、窓の外から家の塀から突き出た『黒い腕』が手招きしているのが見えて、だれかと思い外に出たら給湯器から出火──原因は漏電だそうだ──家が全焼した。
 それからほぼ毎日、同じように『黒い腕』を見たという人が現れてレスが続々とついていき、今では独立したスレッドが建っている。とはいえ、独立したスレッドの方はというと、見た人間と見ていない人間の──いわば信じる者対信じない者の構図だ──宗教戦争の体を成しており、あまり具体的な話はされていないのだが。
 僕はスレには参加せず、主に元のスレに書き込まれた内容から「まずはその事件が本当に起きていたのか?」ということを探した。具体的には、ローカル紙からネットニュースまで該当しそうな事件を調べては、その事件が起きたかどうかの裏付けを取っていったのだ。
 さらにはその宗教戦争のおかげで、「みたことがある」という人のIPアドレスが何のカバーもされずに書き込まれていた。実はIPアドレスを使うとプロキシサーバーを経由していたりスマートフォンで書き込んだりしていない限りは、書き込んだ主の居住エリア──日本であればどこの都道府県に住んでいるか──が分かる。そこから書き込んだ主が同一人物かの判断をしていった。とくにこういうBBSでは、同一人物が別人に成りすましてそういう噂を作ることもあるからだ。
 当然、百近くあるすべてのレスを裏付けすることは叶わなかったものの、大体八十三のレスは事実確認が済み、内本当に起こったと思われるのは十五個。さらにその過程で、同じように『黒い腕』を見たというブログやSNSの書き込みも見つけて裏付けを行い、一割くらいの記事が本当と考えられるというのが分かった。
 そういうわけで認知心理学の端っこ1ピクセルを噛んでいる僕は、『黒い腕』が集団ヒステリーやフォークロアによる幻覚、便乗したジョークとは考えにくいという結論に至り、その正体を暴こうといろいろ探っているというわけだ。
 とはいえ、『黒い腕』という形に限らないのであれば、ああいう「事件の前に起こる前兆」的な何かはいくつも見つかる。死者が出る前の家に黒い煙が入っていった、リンカーン暗殺を予兆するかのような写真のノイズがある……などなど、玉石混交ではあるが。僕の見立てでは、『黒い腕』もそういうものの一つなのだろう。
 基本的に、科学者というのは幽霊や超常現象、神、死後の世界を信じない人が多く──アラン・チューリングは無神論者でありながら死後の生を信じていたそうだが──『心霊現象イコール似非科学』という数式が出来上がっている人も居る。とはいえ脳科学者や心理学者の一部には、一般的な意味での幽霊ではないものの心理学的・神経学的な意味での幽霊を信じている人が居る。
 そして、僕はどちらかといえば後者寄りの人間だ。
 僕はすっかり冷めたインスタントコーヒーに口をつけ、苦みより酸味が先行するその味に辟易しながら、また資料を探り始めた。

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 いったい誰に話しているのか分からないまま、長々と僕が徹夜している経緯を語ったあの夜から一週間後。あれから結局、調査は全く進んでいない。というよりは、家に資料といえるような資料が無くなってしまった。
 というわけで、今の僕は認知心理学や社会心理学──今はそっちの方面で仮説を立てられないかということを考えている──の本を借りるために図書館に行った帰りだ。
「これでだめなら、次は脳科学や神経科学あたりを漁ってみるか」
 そんなことを呟きながら、ガラス越しに賑わっているのが見えるスーパーマーケットの前を歩いていると、ガラスに反射した景色の中に何か黒いものが見えた。
 僕が目を向ける。すると、向かいにある月極駐車場の看板から黒い腕が出て、僕に手招きをしていた。
 思わず借りた本が入っているカバンを取り落とす。
「うそだろ?」
 目をこすってもう一度。紛れもなく、黒い腕が手招きしていた。
 その腕は良くホラー映画で描かれるような、煙っているように輪郭のはっきりしない腕ではなかった。周りから浮いてしまうほど輪郭がはっきりしており、動きも人間そっくりでおそろしく滑らかだ。一番近いのは、人間の腕にタールをぶちまけるか黒いペンキを塗りたくったものだろう。
 しかし、看板の下から下半身が出ていない。どんなに細い人間でも、看板を支える二本の支柱に体を隠すことはできないはずだ。
 だから、もし見ている光景が事実ならば。若しくは、遺伝子改変されたか傷を治すためにヤモリの体液を注射したヤモリ人間の存在を否定するのであれば。
──腕だけが看板から出ている……。
 どう考えてもあり得ない。僕が幻覚を見ているということでしか説明がつかないが、幻覚を見るようなものは摂取していないし、睡眠時間だって十二分にとっているし、そういうものを起こす要因は何一つないと自負している。 
 その時、腕が看板の裏に引っ込む。と、同時に妙に甲高いエンジン音が後ろから聞こえてきた。
 後ろを振り向くと、かなり大きなトラックが僕に向かってくるのが見えた。運転席には陸に上がったカニのごとく泡を吹いたドライバーが見える。かなりの速度だ。法定速度は軽々超えているだろうから、今から慌てて逃げたところで弾き飛ばされるのは避けられない。
 そういえば、人間は死ぬ寸前に生存本能が活性化して、死をもたらす状況から逃れるために頭をフル回転させるそうだ。
 だからなのか、僕には『黒い腕』の正体が分かった。いや、『黒い腕が厄災を起こす』という噂の正体が分かった。
 認知バイアスだ。
 あの黒い腕は死や災害をもたらすものではない。その状況に遭遇したことや防げなかったことから精神を守るため、無意識に「あれは厄災の腕だ」と考えたのだ。そうすれば、自分で自分を責める必要はなくなる。生物として当然の行為だ、誰も責められるものではない。
 だが、あの黒い腕、本当は──。

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ダブル【R-15】 2018年3月25日


魅力的な男に好意を寄せる女性。しかし男の裏の顔は凄惨を極める、恐ろしい顔だった……。

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【注意】この小説には過激な表現・暴力表現などが含まれています。15歳以下の方は閲覧を控えるよう、お願いいたします。

 大講堂に入ると、いつも通りあの人が前の方の席に座ってノートを開いているのが見えた。私だって来るのが遅いわけではないはずなのに、あの人はいつも私よりも早く椅子に座っている。
「おはよう」
 後ろから声をかけると彼が体を捻って私のほうに向きなおる。彼の低く、心に響くような「やあ、おはよう」という声が耳に届く。私はというと、そのなんともないやりとりがうれしくて、舞い上がるような気持ちを抑えながら彼の左隣の席に座った。
 あの人は群を抜いてかっこいいとも、アイドルのように整っているとも言えない。けれど、たくましい顔の骨格、ほんの少しだけ生やしている髭、少し縮れた髪の毛を軽くまとめただけの髪型。少し荒々しい感じを覚える外見は、やさしく開かれた目とすらりと伸びた鼻のおかげで中和し合い、とても魅力的だ。私の知り合いに見せたら、大抵の人がかっこいいというくらいには。
 いいところはそれだけじゃない。なにより気が利いて、やさしい人。自分でもくだらないと思うようなことを聞いても笑いながら教えてくれて、何度聞いても怒らない。あの人が彼氏だったら、毎日がとても楽しいだろう。
 ふと、彼の右隣の席に目を向ける。そこはいつも私の友人の指定席なのだけれど、まだ誰も座っていない。
 そういえば、昨日から彼女の姿を見ていない。よく授業をサボる子ではあったものの──そのせいでいつもノートを見せていた──二日連続でサボるというのはあまり見たことがなかった。あまりに続くようなら一度部屋を訪ねた方がいいかもしれない、そんなことをぼんやり考えていると、ドアを開けて教授が入ってきて教壇に荷物を置いた。
 あわててノートを開く。そして、先ほど考えていたことを頭の隅に追いやって、授業が始まるのを待った。
 
 空気が冷たい。空腹も相まって、宙づりになっている自分の裸体から冷たい空気へ、生きる気力が吸われていくような錯覚に陥る。
 金属パイプを挟むように縛られている両腕を、体重をかけて力いっぱい引っ張ってみる。手錠と金属がこすりあうけたたましい音こそ聞こえてくるものの、音が鳴るだけで外れそうもない。何回か繰り返していると、骨同士がこすれ合うような耳障りな音とともに手首から肩まで激痛が走った。
 痛みに耐えながら足を引っ張ってみるものの、なにか重いものが縛り付けられているらしく、何度か試してみたものの足は動きそうになかった。
 引っ張るのをやめて、叫んでみた。色々なものが混じってひどい悪臭の猿ぐつわと口に貼られたガムテープのせいでくぐもった、「誰か助けて!」という声は誰にも聞こえていないのか、暗く湿った地下室にくる人は誰もいない。
 その時だった。地下室のドアが開き、階段に光が差し込む。一抹の希望を胸に光へ目を向ける。ドアの前に立つ人影と地下室の闇が、光を縦に分割するかのように黒い仕切りを造っていた。
 精いっぱい叫んで、痛みを無視して何度かパイプを打ち鳴らす。人影が階段を下りる。電気がともり、乱雑な地下室の様相を映し出す。
 階段を下りてきたのはあの男だった。大学の同級生で、自分と仲がいいと思い込んでいた男。
 そうだ、一昨日のことだ。「家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」という誘いに乗らなければ、私はこんな目に合わなかった。あの時はデートの誘いに舞い上がっていたけれど、今は自分の不用心さに腹が立つ。
「たくましいな」
 男がぞっとするような低い声で私に話しかけながら、縛り付けられている私の前に立つ。タマを潰してやろうと足を振りかぶったけれど、動かないのを思い出した。
「あまり暴れないでくれ。掃除が大変なんだ」
 そういって男が近づいてくる。私がにらみつけると突然、不機嫌そうな顔になって腹を殴りつける。息が詰まるような感覚。少し遅れて、鈍くのしかかるような痛みが背筋からじわりじわりと体中へ広がる。空っぽの胃から出てきた胃液が舌の根にこびりついて唾液があふれ、猿ぐつわに染み込む。
 もう一発。男は私の目を見ない。容赦ない暴力が私を襲う。血の味が口に広がる。視界が暗くなる。
「おい、起きろよ」
 男が私の体を揺さぶる。けれど、闇に向かう流れに自分の体を横たえてしまいたかった。このまま目が覚めなければ、この地獄から逃げ出すことができるのに。闇に向かってしまえば、嫌な現実から逃げ出すことができるのに。
 私は自分の体を流れるままに任せようと、力を抜いた。
 その時、氷水を全身に浴びて一気に現実へ引き戻されたと同時に希望が打ち砕かれる。顔を上げると、目の前に空のバケツを持った男が立っていた。体を震えが駆け巡る。
「寝るんじゃねえ」
 空のバケツで私を殴りつける。頬に鋭い痛みが走る。
 男は顎の下に手を差し込み、項垂れている頭を持ち上げた。冷たい目をした男と目が合う。
「まだ、これからだからな」
 その顔は気味悪く笑っていた。

 翌日。いつも通りに購買で昼食のパンとコーヒーを買っていると、彼と彼の友人が言い争っているのが聞こえてきた。
 思わず耳をそばだてる。どうも、彼が友人へ貸したノートの内容がめちゃくちゃだったせいで、試験が散々だったらしい。
「お前のせいで試験に落ちたんだぞ、どうしてくれる」
 彼の友人が激しい口調で彼を責め立てる。すると、彼は微笑みながら「ノートをまともに取らなかったから悪いんだ。勉強ができなかった俺の身にもなってくれよ」と言い返す。
 その言葉が逆鱗に触れたらしく、彼の友人は「絶交だ」と叫びながら机を殴りつけて席を立ち、どこかへと行ってしまった。
 近寄ると、彼は私が手に持っていた袋を見て、先ほどと変わらない顔で「昼ご飯?」と尋ねる。
「うん。そこ、座っていい?」
 彼の友人が座っていた席を指さすと、彼は「いやいや、あいつが座った席なんて」と彼の隣を指さした。隣に座ると、彼は私を見ながら肩をすくめた。
「全く。ひどい言いがかりだとは思わないか?」
 きっと彼は先ほど話していたことを話しているのだろう。そう考えて、「そうかもしれないね」と答える。
「言われたからそうしただけで、見返りも何も求めなかったんだ。それに人間って、間違えるのが普通だろう? 間違えたことを責め立てられても、何もできないと思わないか?」
 彼の言うことも間違っていない。誰だって──私自身も含め──間違ってしまうものだし、彼が善意で貸したのだというのも事実だ。だからこそ、責められる筋合いはないということなのだろう。
 私が頷くと、彼は「わかってくれると思ったよ」と私の目を見る。まるで鋭い視線に射抜かれたような、身震いに近いぞわぞわする感覚が私の背筋を襲う。それは人の目を見てきて今まで体験したことのない、不思議な感覚だった。
 その時、彼がタイミング悪く腕時計に目を遣り、「あ、申し込みに行かないと」と椅子から立ち上がる。隣からいなくなってしまうという残念な気持ちを表に出さないようにしながら、「それじゃあ、またね」と声を絞り出した。
「じゃ。楽しんで」
 そういって、突然肩を軽く触る。不思議と、不快感はなかった。

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 もう、どうでもよくなってきた。震えもずいぶん前に止まってしまって、息をするのもつらくなってきた。今がいつなのかもわからない。誰か、お父さんかお母さんが、私を探し出してくれるだろうか。
 その時、顔に激痛が走る。
 落ち込んでいた意識がいきなり浮かび上がり、溺れかけた人が水面に顔を出した時のように、息を深く吸い込む。
「おい、まだ大丈夫だろ」
 あいつの声が聞こえる。顎の下に手を入れられて、顔が持ち上げられる。二度と見たくなかったあいつの顔が、目の前にあった。
「前は一日半も持たなかったんだ。お前なら、二日くらい持つだろ」
 腹にパンチが飛んでくる。もう染み込む余地もない猿ぐつわに胃液がまとわりついて、口の中を苦いような酸っぱいような味が満たす。もう、出てくる唾液は枯れていた。
「悲鳴は良かったが、体力がなあ……」わき腹に一撃を食らい、思わず息が詰まる。「そういえば、どんなふうに叫ぶんだ?」
 あいつが顎から手を外し、乱暴にガムテープを引き剥がして私の口に噛ませていた猿ぐつわを取りながら「うへえ、見ろよこれ」と嘲笑する。すかさず痛む腹に精一杯の力を込めて、助けを呼ぶために叫んだけれど、あいつはにやにや笑っていた。
「ここは空き家で近くに家はないんだ。誰も来ねえよ」またしても腹に一撃を食らい、制御できないうめき声が口から漏れ出す。「へえ、カエルのつぶれたような声だな」
 このままでは確実に私は死ぬ。そう思って反射的に足を動かそうとしたけれど、縛られているのを思い出す。ついでに吊るされているせいで、腕もまともに動かすことができないことも。
 なんとか働かない頭で考える。それで、一つだけ抵抗する方法を思いついた。
「本当根性あるよな」
 あいつがまた顎の下に手を入れようと手を伸ばす。
──今だ。
 あいつの手の動きをとらえ、私は首を伸ばして思いっきりかみついた。
 安っぽい牛肉のような筋張った食感と血の味が口の中に広がる。あいつの大きく開かれた口から悪魔のような悲鳴が聞こえてくる。
 脛を強か蹴りつけられ、痛みで手を口から放す。見ると、あいつの右手にはっきりとした歯型が刻まれていて、血が噛み跡から肘にかけて黒い筋を作っていた。
「この、クソアマ!」
 膝蹴りが脇腹にあたり、骨の折れる音が聞こえる。ほぼ同時に、今まで感じてきた痛みをすべて足したよりもひどいような痛みが体をかけぬけ、息ができなくなる。次いで左頬に拳が当たって、目の前に火花が飛んで視界が白む。
 ぼやけた頭をなんとか振る。その時、神経を焼くような痛みが左胸から広がって体中を駆け巡り、白んでいた視界が像を結ぶ。
 目を落とすと、裸の左胸にナイフが突き立っていて、その傷口からどくどくと赤黒い液体が噴き出していた。
 目が離せない。
「あ……ああ……」
 無意識に声が出た。
 血が噴き出す度に体温が失われ、命が流れ出すのを感じていた。
 それと同時に、私の意識もけずりとられていった。

 講堂に入ると、右手に包帯をした彼が授業の準備をしていた。
 おもわず早足になって、いつもの席に向かう。すると彼は、怪我しているのにもかかわらず「やあ、おはよう」と何もなかったかのように声をかけてくる。
「どうしたのその怪我?」
「ん?」彼が自分の右手を振る。「ああ、実家で飼っているペットに噛まれてね。全く、どこで躾を間違えたんだろうね」
 気が気でないまま席に座って「大丈夫なの?」と聞くと、彼は「心配しないでいいよ」と言って微笑んだ。
「そうならいいけど……」
「あ、そうだ」彼が思い出したように私のほうを見る。「今日の夜、暇かな?」
 突然変えられた話題に何とかついていこうと、頭の中を探る。特に予定はなかったはずだ。
「うん、特に何もないけど」
 そういうと、彼が珍しく首をかしげて私の目を見据えた。
「じゃあ、無理ならいいんだけどさ。家に来ないか。君と見たい映画があるんだ」

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パラレル 2017年12月27日


待ち合わせ場所の駅で降りた彼は、目の前に広がる街並みに違和感を覚える。その街から出ようとする彼だが……?

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『──駅。左側のドアが開きます』
 僕は読んでいた小説を閉じてカバンに仕舞う。電車が止まると同時に僕は立ち上がり、今までいた見慣れた電車の床から、くすんだような灰色と黄色いラインが引かれている駅のホームに立ち位置を移す。ホームの柵の向こうに見える駅の前には、青色や黄色のライトがまぶしい、イルミネーションが見えた。
 電光掲示板に次の電車の到着時間が表示されているのが見える。19:24、ここは一時間に一本くらいしか電車が来ないようだった。僕は周りを見回して、改札につながる階段を見つけた。初めて降りる駅だと、勝手がわからなくて時たまこういうことがある。
 今日は久しぶりに会う友人と一緒に食事をするということで、友人曰く「今まで食ってきた中で一番うまい店」に近い、この駅に来ることになった。予定では友人が駅の西口で待っていてくれるそうだが、果たして遅刻癖のあるあの子が時間通りにいるのやら。
 そんなことを考えつつ改札を抜けて西口に降りると、案の定、友人の姿はなかった。
「やっぱりか」
 この時期にしては冷たい風が頬を切りつける。思わず、コートの襟をあげた。
 ふと違和感を覚えて、周りを見回す。
「あれ……? まだ、18時なのに」
 駅前にある明かりと言うと、目の前に広がるイルミネーションと街灯しかない。普通この時間帯なら、駅前にある飲食店なりコンビニエンスストアなり、別の明かりも見えるはずなのに。それに、街灯に照らされているほとんどの店のシャッターが閉まっていた。確かに日曜ではあるけれど、閉まるにはあまりにも早すぎる。
 駅の近くのコンビニを見ると、やはり電気が消えていた。近寄って営業時間を見ると、閉店の時間はAM 0:00。僕はいつもしているデジタル腕時計のバックライトをつける。そこに表示される時間は18:12。
「おかしいな……」
 停電だろうか? しかし、それなら街灯はついていないはずだ。イルミネーションだって消える。
 安物の時計だから時間がずれているのかもしれないと思い、スマートフォンの時計を見ると18:14と表示されていた。
 何かあって突然閉店したのだろうか? しかし、それなら張り紙くらいしておくだろう。
「どういうことだ……?」
 何とも言えない不安に襲われる。明らかに何かがおかしい。僕は友人に電話しようと、電話帳を開いて友人の電話番号をタップする。スマートフォンを耳に当てると、そこから聞こえるのは「ツーツーツー」という音だった。
──電話がつながらない……?
 もう一度かけなおす。
 ツーツーツー。
 もう一度。
 ツーツーツー。
 僕はスマートフォンを耳に当てたまま、電源ボタンを押す。手が震え始めたのは、寒さのせいじゃなかった。尋常じゃない寒気が背筋を撫でる。明らかに、今の状況はおかしい。第一、なぜ「おかけになった電話番号は~」とか「ただいま電話に出ることが~」とか「現在圏外で~」なんて文言が流れない? なぜ、通話終了ボタンを押したときの「ツーツーツー」なんだ?
 我を忘れそうになるのを必死で堪え、僕はスマートフォンをポケットにしまう。あることを思いついて、すぐさま取り出してマップアプリを起動した。
 まさか、現在営業時間の店全部が閉まっているわけはないはずだ。マップアプリを使えば、現在営業時間内の店をピンポイントで探せる。そこで固定電話でも借りれば、どこかにつながるはずだ。それにあと一時間もすれば、また帰りの電車が来る。友人には悪いが、この妙な空間から逃げ出すには約束を反故にしたっていい。あとで詫びを入れればいいだけの話だ。
 ともかく、今はこの状況から逃げること。
 僕は手早くマップアプリに営業時間中の店を探すように要求する。ほどなくして、いくつかの店にピンが立てられる。GPSをオンにして、僕は一番近い店に走った。
 
 荒い息のまま、僕は手近な電柱に片手をつけた。
「どこも開いてないなんて……」
 10か所は回った。総計すれば、5 kmくらいにはなるはずだ。なのに、どこもシャッターが閉まっていたりドアを開けようとしても鍵がかかっていたりして、開いていなかった。途中であった交番も電気がついていなかった。
 走ったせいで掻いた汗を、寒風が舐める。僕は首を数回振って、ディスプレイを眺めてみた。あと行っていない店はここから2 kmもある。でも、その店はこの地域でもよく見るスーパーマーケット・チェーンだ。開いている可能性は十分ある。
 行くべきか行かないべきか? 電車の時間まではあと30分。走れば、2 kmくらい15分もしないで着く。でも、もし間に合わなければ、僕はもう一時間この状況に取り残されることになる。
 その時、車のクラクションが前の方から聞こえてきた。見ると、ハイビームのヘッドライトが僕を照らし、思わず腕で目を覆う。小鹿のように固まってしまった僕の近くまでその車は来て、目の前で止まる。
「兄さん、大丈夫かい?」
 優しそうな声がする方を見ると、止まったのはタクシーのようだった。会社の表示やロゴがないあたり、個人営業だろう。運転手のおじさんがタクシーの運転席から身を乗り出し、僕の方を不安そうに見ていた。
 僕は初めて会った人を見て驚き半分嬉しさ半分のまま、上ずった声で運転手に訊ねた。
「すみません、ここは何処ですか?」
「ここが何処か? ここは──」この場所の地名を運転手は口にする。「──だよ。どうしたんだい?」
「なんで、この町はこんなに早いのに全部店が閉まっているんです?」
「え?」運転手が驚いたように周りを見回す。すこしして、合点がいったように頷いた。「……ともかく、君を駅に送ろう」
 そういえば、あまりの非現実さに友人の存在を忘れていた。もしかしたら、友人が駅で待っているかもしれない。電話がつながらない今の状態じゃ、本当にいるかどうかなんてわからないけれど。
「すいません、お願いできますか」
「もちろんだ」
 運転手が降りて、ドアを開ける。僕は後部座席に座ってシートベルトを着けた。ドアを閉めた運転手は運転席に戻り、シートベルトを締めてメーターを回しはじめた。
「じゃあ行くよ」
「お願いします」
 そういって、電気のついていない町をタクシーは進んでいった。
 少し走ったところで、運転手が興味深そうに聞いてきた。
「また、どうしたんだい。こんな街の中で一人なんて」
「それが──」
 僕はここに至る経緯を運転手に説明した。待ち合わせ場所に来たのは良いものの友人が居なかったこと、街に感じた違和感の正体のこと、友人への電話が通じなかったこと、なんとか連絡を取ろうと町中を徘徊していたこと。
 すべて聞いた運転手は頷いて、「そいつは大変だったねえ……でも、遭難したときはあまり下手に動き回らない方がいいんだよ」と教えてくれた。
「遭難?」
「そう。君の状況はまるで遭難じゃないか、未知の場所で外と連絡を取れずに彷徨うなんて、遭難以外の何物でもないよ」
 言われてみれば、確かにそうだ。まさか、街中でこんな風に遭難することになるとは思ってもみなかったが。
「遭難して、友人の肉を食った登山グループの話もあるし……下手に動くのは良くないよ。今回は私が君を拾えたからいいけれど、そうじゃなかったらどうなっていたか」
「そうですね……」
 駅のイルミネーションが見えてくる。タクシーは駅前のロータリーを回って、タクシー乗り場に車をつけた。

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 僕が料金を支払いながら──友人とはいつも割り勘でたまにおごるため、今日も余分にお金は持ってきていた──運転手にお礼を告げると、「そんな。君こそ大変そうだったからね、気にしないで良いよ」とほほ笑んだ。
 開いたドアから僕は降りる。ドアの側に立っていた運転手さんに、改めて僕はお礼を言った。
「運転手さんが拾ってくれないと、何してたかわかりませんし。ありがとうございました」
「いいんだよ。じゃあ、気を付けるんだよ」
 そういって、運転手さんはドアを閉めて運転席に座る。そして僕が見送る中、タクシーを駆って街の闇の中に消えていった。
 今の時間は19:18。帰りの電車に乗るにはちょうどいいくらいの時間だ。安心感からゆっくりと改札をくぐって駅のホームに降りると、いきなりスマートフォンのけたたましい着信音が鳴り響いた。
 あわててスマートフォンをポケットから取り出し、受信ボタンをスライドさせて耳に当てる。すると、電話越しでも分かるほどの喧騒と友人の苛ついたような声が耳をつんざいた。
「おい、どこにいんだよ」
 その言葉に苛立ち、「おまえこそどこにいるんだよ。こっちは一時間も待ち合わせ場所の西口に居たんだぞ」ととげとげしい口調で返す。
「はあ? そっくりそのままそのセリフを返すぞ、畜生。何度電話しても出やしねえし、やっとつながったと思ったら嫌味か?」
「なんだって? こっちだってな……」その時、嫌な考えが頭をよぎる。「おい、今何時だ」
 いきなりそんなことを聞かれた友人は、虚をつかれたように変な声を出す。それでも、「19:24だ」と答えた。
 僕も腕時計を見る。19:24、間違いない。なのに、電車はおろかアナウンスすらない。遅延の連絡もない。そういえば、駅員は何処に行った? なんでこんなに電話越しに喧騒が聞こえるのに、僕は誰一人としてすれ違わなかった?
 嫌な予感に包まれる。僕は恐る恐る、口に出したくないことを口に出した。
「なあ、お前今どこに居るんだ」
「はあ?」友人は怪訝な声で「──駅の西口だけど」と言った。

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